猫とゴリラの夜
「……で?」
黒崎剛士は、眉間に深い皺を寄せた。
「なんでお前がここにいる」
午後十一時四十二分。
繁華街から少し離れた雑居ビルの裏路地。
黒いワゴン車の助手席に座った篠宮レイナは、コンビニで買ったカフェラテのストローを咥えながら、にこりと笑った。
「協力要請が来たから?」
「質問に質問で返すな」
「じゃあ訂正。ヤタガラスから派遣されました」
「それは聞いた」
「なら解決ですね」
「してない」
レイナは笑った。
黒崎は笑わなかった。
黒崎剛士、四十四歳。
警視。
警備部所属。
百八十八センチ、約九十八キロ。
坊主頭に岩のような肩幅。
ただ座っているだけでワゴン車の運転席が妙に小さく見える男である。
その隣にいるレイナは百六十八センチ。
細身。
明るいアッシュブロンドの長い髪。
猫のような切れ長の目。
同じ「戦う人間」でも、二人の印象は真逆だった。
黒崎が城門なら、レイナは鍵穴から入り込む煙。
黒崎が警告灯なら、レイナは暗闇。
そんな二人が今夜、同じ車に乗っていた。
理由は単純だった。
警察が追っていた武器密売組織と、ヤタガラスが調査していた人身売買ネットワーク。
その双方に繋がる人物が、今夜この街に現れる。
名前は小日向征二。
表向きは不動産会社社長。
裏では犯罪組織同士を仲介するブローカーだった。
黒崎たち警察は小日向を確保したい。
ヤタガラスは、小日向が保有している人身売買組織の顧客リストが欲しい。
利害は一致した。
そこで共同作戦となった。
問題は。
「なあ黒崎さん」
「なんだ」
「さっきから私のこと嫌い?」
「嫌いとは言ってない」
「好き?」
「黙れ」
「照れた?」
「降ろすぞ」
「任務中に協力要員を車から放り出す警視ってどうなんです?」
「徒歩で帰れ」
「横暴だなあ」
レイナは楽しそうだった。
黒崎は無線機を握りながら、深く息を吐いた。
普段ならこの程度の軽口では眉一つ動かさない。
だがレイナには妙な才能があった。
絶妙に、人間の反応する境界線を見つける。
「黒崎さん」
「今度はなんだ」
「ホオズキ代表って、こういう無愛想な男のどこがいいんでしょうね」
黒崎の右眉が動いた。
レイナは見逃さなかった。
「お」
「……」
「今、反応しましたよね?」
「してない」
「しました」
「してない」
「可愛いところあるじゃないですか」
「篠宮」
声が低くなった。
「はい」
「次に余計なことを言ったら後部座席に移れ」
「はーい」
返事だけはよかった。
黒崎は思った。
――九条。
なんでこいつを寄越した。
---
午前零時七分。
状況が動いた。
無線から声が入る。
『対象確認。東側入口より入店』
小日向が現れた。
店は会員制バー。
表向きは高級店だが、実際には犯罪組織の会合場所として使われている。
警察側は周囲を包囲。
だが突入はまだできない。
証拠が足りなかった。
そして店内には監視カメラ。
さらに入口では身元確認が行われている。
黒崎が言った。
「ここからがヤタガラスの仕事だ」
「そういうこと」
レイナがカフェラテを置く。
黒崎が振り向いた。
そして止まった。
「……いつ着替えた」
さっきまでレイナは黒いジャケットにカーゴパンツだった。
だが今は違う。
落ち着いた色のワンピース。
小さなバッグ。
髪もまとめ方を変えている。
どこから見ても、ごく普通の若い女性だった。
「黒崎さんが無線聞いてる間」
「三十秒もなかったぞ」
「女性は準備が早いんです」
「嘘をつけ」
レイナは笑う。
だが次の瞬間。
雰囲気が変わった。
目から軽さが消える。
肩の力が抜ける。
呼吸まで変わる。
黒崎は黙ってそれを見た。
さっきまで隣でふざけていた女が消えていた。
そこにいるのは、
潜入工作員。
「行ってきます」
レイナが車を降りる。
黒崎が呼び止めた。
「篠宮」
レイナが振り返る。
「危ないと思ったら即座に抜けろ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
レイナは少しだけ笑った。
「心配してくれてるんですね」
「任務要員を無駄に失いたくないだけだ」
「なるほど」
レイナはドアを閉める。
そして小さく呟いた。
「そういうことにしといてあげます」
---
入店まで二分。
監視突破まで四分。
小日向のいるVIPルーム特定まで八分。
速かった。
異常なほどに。
黒崎のイヤホンにレイナの声が入る。
『VIPルーム二階奥。護衛四。小日向確認』
「了解」
『あと女の子が三人います』
黒崎の表情が変わる。
「年齢は」
数秒。
『若いです』
声から軽さが消えていた。
『たぶん全員十代後半。自分で来た感じじゃない』
黒崎はすぐに指示を出す。
「各班待機。突入準備」
だが。
『……まずい』
「どうした」
『小日向が移動する』
「裏口か?」
『違う』
一拍。
『地下』
黒崎は地図を見る。
事前調査では地下階は確認されていない。
「篠宮、追うな」
返事がない。
「篠宮」
『追います』
「命令だ」
『女の子も連れていかれます』
「それでも待て」
『待ったら消える』
黒崎の声が一段低くなる。
「篠宮レイナ」
沈黙。
そして。
『……ごめんなさい』
通信が切れた。
「馬鹿野郎」
黒崎は車を降りた。
「突入する!」
警察部隊が一斉に動いた。
---
地下通路。
レイナは走っていた。
前方に小日向。
護衛二人。
さらに少女二人。
一人は足を引きずっている。
小日向が叫んだ。
「捕まえろ!」
男が振り返る。
拳銃。
レイナは壁へ飛ぶ。
銃声。
一発。
二発。
壁が弾ける。
三発目が来る前に間合いへ入った。
手首を外へ。
肘を打つ。
拳銃が落ちる。
膝。
喉。
男が沈む。
もう一人。
ナイフ。
レイナは半歩下がる。
刃が鼻先を通過。
腕を取る。
体勢を崩す。
壁へ叩きつける。
一秒。
二人目も倒れた。
「……っ」
レイナが息を吐く。
普段の笑顔はない。
小日向は少女を引きずりながらさらに奥へ逃げる。
「待て!」
追う。
地下駐車場へ出た。
そこには車。
そして。
さらに四人。
レイナが止まる。
さすがに分が悪い。
小日向が笑った。
「一人か?」
レイナは周囲を見る。
出口。
遮蔽物。
相手の位置。
武器。
一秒で判断する。
「女一人で何ができる」
レイナが、笑った。
さっきまでの明るい笑顔ではない。
戦場で見せる目だった。
「女一人?」
一歩。
「それ、よく言われる」
男たちが動く。
その瞬間。
轟音。
地下駐車場の防火扉が吹き飛ぶ勢いで開いた。
「警察だ!!」
低い声が響いた。
黒崎。
その背後から突入部隊。
男たちが一瞬硬直する。
レイナが呟く。
「……遅いですよ」
黒崎が怒鳴る。
「誰のせいだ!!」
「はいはい!」
銃声。
怒号。
足音。
わずか二十秒だった。
黒崎の部隊は射線を分け、少女を巻き込まないよう慎重に制圧していく。
黒崎自身も前へ出た。
一人の男がレイナへ突進する。
黒崎が腕を取る。
引く。
体勢を崩す。
床。
巨体の男が一瞬で転がった。
「うわ」
レイナが目を丸くする。
「すご」
「感心してる場合か!」
「あ、右!」
黒崎が振り向く。
別の男。
レイナが先に動いた。
足払い。
黒崎の真正面へ倒れる。
黒崎がそのまま押さえる。
二人の動きが、偶然ぴたりと噛み合った。
レイナが言った。
「息合いますね、私たち」
「黙って働け!」
「はい!」
---
十分後。
小日向征二、確保。
少女三名、保護。
死者なし。
警察官に軽傷者二名。
ヤタガラス側。
篠宮レイナ。
無傷。
ほぼ完璧な結果だった。
ただし。
作戦終了後。
レイナは正座させられていた。
場所はワゴン車の横。
腕を組んだ黒崎が立っている。
「篠宮」
「はい」
「俺はなんと言った」
「危なくなったら抜けろ」
「その前」
「……追うな」
「それで?」
「追いました」
「なぜだ」
レイナは黙った。
さっきまでの軽口がない。
少し離れた場所で、救急隊員が保護した少女を診ている。
少女の一人が泣いていた。
警察官が毛布をかけている。
レイナはそれを見た。
「昔」
黒崎が黙る。
「所属してた会社で、同じこと言われたんです」
「……」
「仲間が取り残された。でも撤退命令が出た」
レイナは膝の上で手を組んだ。
「従いました」
一瞬。
笑った。
でも、その笑顔はいつものものではなかった。
「それで全員死にました」
黒崎は何も言わなかった。
「だから」
レイナは少女たちを見る。
「置いていくの、嫌いなんですよ」
沈黙。
黒崎は腕を組んだままだった。
やがて口を開いた。
「篠宮」
「はい」
「命令違反だ」
「はい」
「お前の行動は最悪だった」
「はい」
「単独行動。情報不足。退路なし。増援との連携もなし」
「……はい」
「次やったら俺が九条に報告する」
「もうするでしょう?」
「当然だ」
レイナが肩を落とす。
「代表、怒ると怖いんですよねえ……」
「自業自得だ」
「黒崎さんから少し優しく説明してくれません?」
「断る」
「恋人パワーで」
「篠宮」
「はい、すみません」
黒崎は少女たちを見る。
それから。
小さく言った。
「だが」
レイナが顔を上げる。
「……あの子たちを見捨てなかったこと自体は、間違ってない」
レイナの目が少し大きくなる。
黒崎は続けた。
「方法が悪いと言ってる」
「黒崎さん」
「なんだ」
「今の録音していい?」
「ぶん殴るぞ」
レイナが吹き出した。
「ははは!」
「笑うな」
「だって、黒崎さん普通にいい人じゃないですか」
「普通だ」
「怖いゴリラかと思ってた」
「誰がゴリラだ」
「身長百八十八のゴリラ」
「篠宮」
「はい」
「走って帰れ」
「横暴!」
その時だった。
さっき保護された少女の一人が近づいてきた。
十五、六歳くらいだろうか。
少女はレイナを見る。
「あの……」
レイナが立ち上がる。
「あ、ごめんね。怖かった?」
少女は首を横に振る。
「助けてくれて……ありがとうございました」
レイナの表情が止まった。
ほんの一瞬。
そしていつもの笑顔になる。
「どういたしまして」
少女は黒崎を見る。
その大きさに少し怯える。
黒崎は気づいたらしい。
しゃがんだ。
それでもでかい。
「もう大丈夫だ」
声だけは、驚くほど静かだった。
「家へ帰れる」
少女の目から涙が落ちた。
黒崎はそれ以上何も言わなかった。
レイナはその横顔を見ていた。
---
午前二時十九分。
帰路。
再びワゴン車。
黒崎が運転。
レイナが助手席。
五分ほど静かだった。
珍しい。
黒崎が横目で見る。
レイナは窓にもたれていた。
眠っている。
「……」
黒崎は前を見る。
信号が赤になる。
停車。
その瞬間。
レイナが目を閉じたまま言った。
「黒崎さん」
「起きてるのか」
「はい」
「なんだ」
「今日、ありがとうございました」
黒崎は前を向いたまま答える。
「礼を言われる筋合いはない」
「ありますよ」
信号が青になる。
車が動き出す。
「黒崎さんみたいな人が上司なら」
レイナは呟く。
「あの時、誰も死ななかったのかな」
黒崎の手がハンドルの上で止まった。
ほんの一瞬。
「篠宮」
「はい」
「過去の現場に俺はいない」
「……」
「だから答えられん」
レイナは黙る。
「ただ」
黒崎は続けた。
「俺が現場にいる限り」
夜の道路を走る。
「部下を置いて帰るつもりはない」
レイナは目を開いた。
黒崎を見る。
「それが指揮官の仕事だ」
レイナはしばらく何も言わなかった。
やがて小さく笑う。
「なるほどね」
「なんだ」
「ホオズキ代表が黒崎さんを好きな理由」
急ブレーキ。
「うおっ!」
レイナがシートベルトに引っ張られる。
「危なっ!」
「篠宮」
「はい?」
「今の話と九条は関係ない」
「いやいや、ありますよ」
「ない」
「絶対ある」
「黙れ」
「代表に教えてあげよ」
「何をだ」
レイナはスマートフォンを取り出した。
「『黒崎さん、今日めちゃくちゃ格好良かったですよ』って」
「やめろ」
「あと『女の子を助けるため地下駐車場に単身突入』」
「単身じゃない」
「『巨大ゴリラ大暴れ』」
「篠宮」
「送信」
「おい!」
「うそです」
「……」
「……」
「本当は?」
「送信しました」
「篠宮レイナァ!!」
「アハハハハハ!」
深夜の道路を、一台の黒いワゴン車が走っていく。
車内では四十四歳の警視が怒鳴り、
二十四歳の潜入工作員が腹を抱えて笑っている。
その約三十秒後。
黒崎のスマートフォンが鳴った。
九条ホオズキからだった。
メッセージは一言。
『ゴリラって何?』
黒崎は無言でスマートフォンを伏せた。
助手席でレイナが、再び爆笑する。
「篠宮」
「はい!」
「次の共同作戦では絶対にお前を呼ばない」
「またまたあ」
「絶対だ」
「じゃあ次もよろしくお願いします、黒崎さん」
「話を聞け!」
――翌月。
二人は再び共同作戦に投入された。
作戦担当者の記録には、
こう書かれている。
『篠宮レイナと黒崎剛士。性格面の相性に重大な問題あり。』
その下には、別の担当者による追記があった。
『ただし、実戦における連携効率は極めて高い。可能なら同一班へ配置すること。』
さらにその下。
黒崎本人の筆跡と思われる赤字。
『却下。』
そして最後。
誰が書いたのか分からない、小さな文字。
『照れてる。 LYNX』
後日それを発見した黒崎剛士が本部中に響く声で篠宮レイナを呼び出したことは、
言うまでもない。




