篠宮レイナという女
篠宮レイナは、よく笑う。
食堂で誰かのプリンを勝手に食べて怒られた時も。
訓練で年上の隊員を背後から取って床に転がした時も。
作戦会議で榊原宗一郎から、
「篠宮。もう少し真面目な顔はできないのか」
と言われた時も。
彼女は悪びれず、猫のように目を細める。
「できますよ?」
「ではやれ」
「追加料金です」
「却下だ」
「ケチですねえ」
そんな調子だった。
PMCヤタガラス本部では、誰もが知っている。
篠宮レイナ、二十四歳。
作戦部・特殊偵察班副班長。
コールサイン――《LYNX》。
潜入、偵察、監視、追跡。
そして、人間を見ること。
彼女が一度街に溶け込めば、普通の人間にはまず見つけられない。
服を変える。
髪型を変える。
歩幅を変える。
表情を変える。
必要なら、一時間前まで笑っていた女とはまるで別人になる。
けれど。
本当の意味で彼女を知る者は、意外なほど少なかった。
ある夜。
ヤタガラス本部の屋上に、レイナは一人で座っていた。
缶コーヒーを片手に、街の灯りを眺めている。
そこへ足音が近づいた。
「珍しいな」
振り返らなくても分かった。
九条ホオズキだった。
「何がです?」
「お前が一人で静かにしていることが」
「ひどい評価ですねえ」
「事実だ」
ホオズキは隣に立った。
レイナは少し笑った。
だが、いつもの笑い方より静かだった。
「……昔からなんですよ」
「何がだ」
「静かな場所を探す癖」
レイナは夜景を見る。
「子供の頃、引っ越しばっかりだったんです」
父親の仕事の都合だった。
国が変わる。
街が変わる。
言葉が変わる。
学校が変わる。
昨日まで友達だった人間が、今日から他人になる。
新しい教室。
知らない言葉。
知らない文化。
知らないルール。
子供にとって、それは小さな戦場だった。
「最初は泣いてましたよ」
レイナは言った。
「でも途中から、泣いてもどうにもならないって分かった」
だから観察するようになった。
誰がクラスの中心なのか。
誰が本当に強いのか。
誰が強い人間の後ろに隠れているだけなのか。
誰が意地悪で。
誰が優しくて。
誰が嘘をつくのか。
そして。
誰の近くにいれば、自分は安全なのか。
表情。
視線。
手の動き。
声の高さ。
立ち位置。
子供の篠宮レイナは、人間を読むことを覚えた。
それは生き残るための知恵だった。
「だから今でも、人を見るのは好きです」
「好き、なのか」
「趣味みたいなものですよ」
レイナは笑った。
「三十秒あれば、その人がどんなタイプか大体分かります」
「私もか」
「代表は簡単ですよ」
ホオズキが眉を動かす。
「ほう」
「金に厳しい。時間にも厳しい。人にも厳しい」
「悪口か?」
「まだ続きます」
レイナは缶を口に運ぶ。
「でも、自分には一番厳しい」
ホオズキは答えなかった。
レイナもそれ以上は言わなかった。
十八歳を過ぎた頃。
レイナは、海外の民間警備会社に入った。
最初は通訳だった。
それから現地案内。
監視。
偵察。
護衛。
やがて武器も持つようになった。
彼女は優秀だった。
言葉を覚えるのが早い。
環境への適応も早い。
何より、人間を見る目があった。
危険な人間が分かる。
嘘をつく人間が分かる。
怯えている人間が分かる。
銃を抜こうとしている人間は、その手が動く前に分かった。
だから生き残った。
そして。
仲間もできた。
国籍も年齢も違う五人。
荒っぽい男。
寡黙な女。
酒好き。
冗談好き。
家族持ち。
レイナは彼らとよく笑った。
その頃にはもう、今と同じだった。
軽口を叩き。
人をからかい。
戦場でも笑っていた。
ある男に言われたことがある。
「お前は野良猫だな」
「かわいいって意味?」
「懐かないって意味だ」
「失礼ですね」
「でも餌をやると戻ってくる」
「さらに失礼」
そんな会話をした。
その三週間後。
その男は死んだ。
任務は護送だった。
危険度は低いと説明されていた。
それが嘘だと気づいたのは、現地に入ってからだった。
敵対勢力の動き。
道路状況。
通信障害。
地元住民の視線。
何もかもがおかしい。
レイナは本部に報告した。
撤退を提案した。
返ってきた答えは短かった。
――任務続行。
それから十二分後。
車列は襲撃された。
最初の爆発で先頭車両が止まった。
銃声。
悲鳴。
煙。
レイナは笑わなかった。
戦闘が始まった瞬間、彼女の表情からすべてが消えた。
「右二階」
短く告げる。
二発。
敵が倒れる。
「後退路確認」
道路脇を走る。
弾丸が壁を削る。
味方の負傷者を引きずる。
無線を叩く。
「救援要請。座標送る」
返答。
――救援は出せない。
レイナは聞き返した。
「……何?」
――契約上、増援投入は承認されていない。
銃声の中で。
一瞬だけ。
世界が静かになった気がした。
「こっちは五人いる」
返答はなかった。
もう一度呼ぶ。
「五人いるって言ってんだけど」
沈黙。
レイナはその時、理解した。
会社は彼らを切った。
危険地域で失敗した契約。
追加損失を防ぐため。
現場要員五人を捨てた。
たったそれだけだった。
夜明けまでに。
五人は二人になった。
最後に残った男は腹を撃たれていた。
レイナは彼を背負って歩いた。
「置いてけ」
「嫌」
「死ぬぞ」
「知ってる」
「猫」
「何です?」
男が笑った。
弱い笑いだった。
「お前だけでも帰れ」
レイナは答えなかった。
その男は。
あと一キロの場所で死んだ。
レイナは一人で帰った。
会社に戻った彼女を待っていたのは、謝罪ではなかった。
事情聴取。
報告書。
機密保持契約。
そして。
死亡した仲間の責任を現場判断に押しつけるための文書。
署名欄。
レイナは紙をしばらく見た。
それから。
笑った。
いつものように。
にっこり。
「これ、書いた人どなたです?」
担当者が答えた。
「本部法務だ」
「そうですか」
「署名を」
レイナはペンを置いた。
「しません」
「何?」
「あと」
笑顔のまま言った。
「辞めます」
「待て」
「嫌です」
「契約違反になるぞ」
その瞬間。
笑顔が消えた。
「仲間を捨てた会社に、契約を語る資格があります?」
声は静かだった。
それ以上、誰も何も言えなかった。
それから数年。
レイナはいくつもの仕事を転々とした。
長く所属することはなかった。
信用しない。
期待しない。
仲間という言葉も信じない。
人間は最後には自分を守る。
会社は利益を守る。
組織は責任を逃れる。
そう思っていた。
ヤタガラスに来た時も同じだった。
「三か月くらいで辞めるつもりでした」
屋上で、レイナは言った。
「そうだったのか」
「はい」
「初耳だ」
「言ってませんから」
ホオズキは腕を組んだ。
「それが、なぜまだいる」
レイナはしばらく黙った。
ヤタガラスに入って最初の実戦。
彼女の班は敵地で孤立した。
敵が予想より多かった。
撤退路も塞がれた。
過去と似ていた。
あの時と。
レイナは無線を握った。
「LYNXより本部。状況悪化。撤退路なし」
そして。
無意識に思った。
まただ。
どうせ。
また切られる。
しかし。
返ってきた声は違った。
九条ホオズキだった。
――そこで待て。
「代表?」
――回収に行く。
レイナは耳を疑った。
「敵、多いですよ」
――知っている。
「損害出ますよ」
――知っている。
「私たち四人のために?」
一瞬。
無線が静かになった。
そしてホオズキは言った。
――四人“も”いる。
レイナは。
何も言えなくなった。
二十分後。
ヤタガラスの救出部隊が来た。
本当に来た。
銃撃の中。
煙の向こう。
仲間たちが走ってきた。
そして先頭にいたホオズキは、レイナを見るなり言った。
「帰るぞ」
ただ、それだけ。
理由も。
説教も。
恩着せがましい言葉もなかった。
帰るぞ。
その言葉だけだった。
屋上。
レイナは缶コーヒーを飲み干した。
「だからです」
「何がだ」
「まだここにいる理由」
ホオズキは何も言わない。
レイナは立ち上がる。
いつもの笑顔に戻っていた。
「まあ、給料も悪くないですしね」
「そこか」
「福利厚生も」
「本音を言え」
「少佐かわいいし」
「篠宮」
「はいはい」
レイナは笑った。
そして屋上の扉へ歩いていく。
その背中にホオズキが言った。
「篠宮」
レイナが振り返る。
「何です?」
「三か月のつもりだったと言ったな」
「ええ」
「もう随分過ぎている」
レイナは少し考えた。
それから。
今までで一番穏やかな顔で笑った。
「猫って」
言う。
「気に入った場所からは、意外と動かないんですよ」
扉が閉じた。
ホオズキだけが屋上に残る。
そして小さく呟いた。
「……野良猫め」
篠宮レイナ。
二十四歳。
よく笑い。
よく喋り。
よく人をからかう。
戦場では別人のように冷たくなり。
敵の動きを読み。
誰より早く危険を見つける。
人を簡単には信じない。
組織というものを、今でも完全には信用していない。
だが。
一度「仲間」と認めた人間については。
決して置いていかない。
なぜなら彼女は知っている。
置いていかれる側が。
どんな気持ちになるのかを。
誰よりもよく知っているからだ。
そして今。
彼女には帰る場所がある。
黒い八咫烏の紋章が掲げられた場所。
騒がしく。
面倒で。
変人ばかりで。
猫まで住み着いている。
PMCヤタガラス。
篠宮レイナは。
今日もそこで笑っている。




