真壁ジンという男
真壁仁が笑うと、初対面の人間はだいたい二種類の反応をする。
安心するか。
余計に怖がるか。
身長もある。肩幅も広い。顔には若い頃につけた細かな傷が残り、拳は妙に大きい。
黙って立っているだけなら、どう見ても堅気には見えなかった。
そんな男が、ヤタガラス本部の食堂で、割れた湯呑みを接着剤で直していた。
「……何してんの、仁さん」
篠宮レイナが呆れた顔で覗き込んだ。
「見りゃ分かるだろ」
「いや、分かるけど。捨てればいいじゃん、それ」
仁は眉間に皺を寄せた。
「まだ使える」
「百均で買えるよ?」
「値段の話じゃねえんだよ」
レイナは首を傾げた。
仁はそれ以上説明しなかった。
その湯呑みは、数日前に新人隊員が落として割ったものだった。
新人はひどく恐縮していた。
だから仁は拾った。
ただ、それだけだった。
真壁仁という男は、そういう男である。
壊れたものを簡単に捨てることを嫌う。
人間なら、なおさらだった。
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仁の家は、家と呼べるような場所ではなかった。
父親はほとんど帰らず、母親も自分の生活で精一杯だった。
食卓に家族全員が揃った記憶はない。
誰かに「おかえり」と言われた記憶も、ほとんどなかった。
だから十代の仁は、家に帰らなかった。
夜の街を歩いた。
ゲームセンター。
河川敷。
繁華街の裏路地。
どうせ誰も待っていない。
なら、帰る理由もない。
十七歳になる頃には、その辺りでは少し名前が知られていた。
喧嘩の強い真壁。
売られた喧嘩は買う。
三人でも五人でも関係ない。
殴られれば殴り返す。
倒されれば立つ。
理由など大したものではなかった。
自分が何者でもないという事実を、拳を振るうことで忘れたかっただけだ。
ある晩。
仁は繁華街の裏で四人を相手にしていた。
きっかけは些細なものだった。
路上で酔った男たちが、若い店員を囲んでいた。
見て見ぬふりもできた。
仁自身、善人のつもりなどなかった。
だが。
気づけば一人目を殴っていた。
十分後。
男たちは路地に転がり、仁も鼻血を流して壁にもたれていた。
そこへ、一人の男が現れた。
五十代。
古い仕立てのスーツ。
髪には白いものが混じっていた。
山口源蔵。
昔気質の極道だった。
源蔵は倒れている男たちを見てから、仁を見た。
「お前がやったのか」
「だったらなんだ」
源蔵は怒らなかった。
笑いもしなかった。
ただ仁の拳を見た。
「強いな」
仁は鼻で笑った。
「だから?」
源蔵は言った。
「強いなら、守るものを決めろ」
仁は眉をひそめた。
「は?」
「守るもののねえ力は、ただの暴力だ」
当時の仁には、その言葉の意味が分からなかった。
「説教なら他所でやれ」
そう言って立ち去ろうとした仁の背中に、源蔵がもう一つ言った。
「腹、減ってんだろ」
仁は立ち止まった。
「……うるせえ」
「ラーメンくらい食わせてやる」
それが、二人の始まりだった。
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山口源蔵は、仁に喧嘩を教えなかった。
むしろ逆だった。
殴る前に考えろ。
怒鳴る前に聞け。
約束したなら守れ。
弱い者から取るな。
逃げ場のない人間を追い込むな。
そして。
「仁」
ある日、源蔵が言った。
「お前、自分の名前の意味を知ってるか」
「知らねえ」
「知っとけ」
源蔵は煙草に火をつけた。
「仁ってのはな」
煙を吐きながら言った。
「人間を、人間として扱うことだ」
仁は笑った。
「極道が言う台詞かよ」
源蔵も笑った。
「だから覚えとけ。俺みたいなのに言われる前にな」
その言葉だけは、妙に残った。
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二十代の仁は、裏社会で生きた。
決して綺麗な人生ではない。
脅しもした。
殴り合いもした。
危ない橋も何度も渡った。
自慢できる過去ではなかった。
だが、一つだけ妙な評判があった。
――真壁は約束を破らない。
金の話なら金の話。
喧嘩なら喧嘩。
揉め事なら揉め事。
一度引き受けたなら、最後まで面倒を見る。
三十代になる頃には、
「真壁を通せば話がまとまる」
そう言われるようになった。
そして仁には、三つの掟があった。
一般人を巻き込まない。
女子供を食い物にしない。
仲間を売らない。
誰に命令されたわけでもない。
源蔵から教わったことを、自分なりの言葉にしただけだった。
だが時代が変わった。
組織も変わった。
任侠だ義理だと言っていた者たちが消え、数字だけを見る人間が増えた。
特殊詐欺。
違法薬物。
弱者を食い物にする商売。
女性を囲い込み、金に換える連中。
ある日。
上の人間が仁に言った。
「時代だよ、真壁」
仁は黙って聞いていた。
「綺麗事じゃ食えねえ。金になることをやる。それだけだ」
机の上には資料が置かれていた。
騙す相手の名簿。
高齢者。
独居老人。
判断力の弱った者。
仁は一枚だけ手に取った。
しばらく眺め。
静かに机へ戻した。
「……これ、やめろ」
部屋の空気が変わった。
「何?」
「俺はやらねえ」
「命令だぞ」
仁は相手を見た。
「だったら俺は今日で終わりだ」
相手は笑った。
「組を抜けるって?」
「そうだ」
「簡単に抜けられると思ってんのか」
その時。
仁は初めて笑った。
若い頃なら、拳を握っていただろう。
だがもう違った。
「俺が簡単な人生を送ってきたように見えるか?」
その日の夜。
仁は組織を去った。
無傷では済まなかった。
昔の仲間とも縁が切れた。
それまで積み上げてきたものの多くを失った。
だが。
自分だけは失わなかった。
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数年後。
山口源蔵は病床にいた。
身体は随分小さくなっていた。
仁は椅子に座り、何も言わずにリンゴを剥いていた。
源蔵が言った。
「聞いたぞ」
「何を」
「抜けたんだってな」
「……ああ」
「馬鹿だなあ、お前」
「うるせえ」
源蔵は笑った。
「金も立場も捨てたか」
「捨てた」
「怖くなかったか」
仁の包丁が止まった。
「怖かったよ」
源蔵は少し驚いた顔をした。
昔の仁なら絶対に言わなかった言葉だった。
仁は続けた。
「でもよ」
リンゴの皮が、細長く落ちていく。
「爺さんが昔言ったろ」
「……何をだ」
「仁ってのは、人間を人間として扱うことだって」
源蔵は黙った。
「俺があのまま残ってたら」
仁はリンゴを皿へ置いた。
「俺が俺じゃなくなる」
長い沈黙のあと。
源蔵は目を閉じた。
「そうか」
「……ああ」
「じゃあ」
老人は、小さく笑った。
「名前負けしねえ男になったな」
それが。
山口源蔵が仁を褒めた、最初で最後の言葉だった。
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その後、いくつもの縁を経て。
真壁仁はPMCヤタガラスに辿り着いた。
軍人でもない。
警察官でもない。
特殊部隊の出身でもない。
経歴だけ見れば、組織の中でも異質だった。
だが。
九条ホオズキは仁の履歴書を閉じると、一つだけ尋ねた。
「あなたは仲間を見捨てますか」
仁は即答した。
「見捨てねえ」
「命令でも?」
「命令した奴と話す」
「話しても駄目なら?」
仁は少し考えた。
「もっと話す」
ホオズキは黙った。
「それでも駄目なら?」
仁は笑った。
「その時考える」
普通なら不採用になりそうな答えだった。
だがホオズキは言った。
「採用します」
仁が目を丸くした。
「いいのか?」
「あなたは嘘をつかなかった」
それだけだった。
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ある任務で。
撤退中の車列が砲撃を受けたことがある。
混乱の中、現地協力員の青年が取り残された。
契約上。
彼はヤタガラスの隊員ではなかった。
救出義務もない。
敵部隊が迫っていた。
無線から撤退命令が飛んだ。
だが仁は戻った。
一人で。
建物の影に倒れていた青年を肩に担いだ。
銃弾が壁を叩く。
青年が叫んだ。
「置いていけ!」
仁は走りながら怒鳴った。
「うるせえ!」
「俺は契約に――」
「知るか!」
青年を車へ放り込む。
自分も乗り込む。
扉を閉め。
ようやく仁は言った。
「契約書に、人間やめろって書いてあんのか」
後でホオズキから大目玉を食らった。
「独断行動です」
「悪かった」
「死んでいた可能性もあります」
「ああ」
「二度としないでください」
「努力する」
「約束してください」
仁は黙った。
ホオズキが睨んだ。
仁も黙った。
三十秒ほど続いた。
最後にホオズキがため息をついた。
「……もういいです」
その場にいた全員が笑った。
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現在。
食堂。
割れた湯呑みの修理を終えた仁は、満足そうに机へ置いた。
レイナがまだ横にいた。
「ねえ仁さん」
「なんだ」
「なんでそんなに物を捨てるの嫌いなの?」
仁は湯呑みを見た。
ヒビの跡は消えていない。
むしろ前より目立っている。
「……別に」
「絶対なんかあるじゃん」
「ねえよ」
その時。
食堂の入口から新人隊員が顔を出した。
「あっ」
割った本人だった。
仁の手元を見る。
「それ……直したんですか?」
「ああ」
「すみませんでした」
新人が頭を下げる。
仁は鬱陶しそうに手を振った。
「もう謝んな」
「でも」
「使えるんだからいいだろ」
仁は湯呑みに茶を注いだ。
補修した部分から漏れないことを確認する。
そして一口飲んだ。
「ほらな」
新人が笑った。
仁も笑った。
その横でレイナは少しだけ目を細めた。
たぶん。
湯呑みの話ではないのだろう。
壊れたからといって。
傷があるからといって。
過去が綺麗でないからといって。
人も物も、簡単に価値を失うわけではない。
十七歳の頃。
何者でもなかった少年に。
一人の老人が、それを教えた。
――強いなら、守るものを決めろ。
真壁仁は今でも、その言葉を守っている。
国のためでもない。
正義のためでもない。
立派な思想があるわけでもない。
ただ。
自分の目の前にいる人間を。
人間として扱う。
それだけだ。
だから仲間を売らない。
だから弱い者から奪わない。
だから置いていけない。
そして。
誰かが自分を何と呼ぼうと気にしない。
元極道。
ならず者。
乱暴者。
頑固者。
好きに呼ばせておけばいい。
ただ一つ。
山口源蔵から貰った言葉だけは。
死ぬまで手放すつもりはなかった。
――仁とは、人間を人間として扱うことだ。
その名を背負って。
真壁仁は今日も、
ヤタガラスの仲間たちの隣を歩いている。




