御影サヤという女
御影紗夜は、人の顔をあまり見ない。
正確に言えば、見ていないわけではない。
目を見る。
口元を見る。
姿勢を見る。
声の震えを聞く。
だが、それ以上に――彼女は手を見る。
握っているか。
開いているか。
親指がどこにあるか。
指先が何を探しているか。
ポケットへ向かうのか。
腰へ向かうのか。
隣の人間へ伸びるのか。
ヤタガラス本部では、それを知っている人間が多かった。
だから御影紗夜と話すとき、古参隊員の中には無意識に両手を机の上へ置く者すらいる。
別に彼女が怖いわけではない。
少なくとも本人はそう思っている。
「御影班長」
午後十一時。
本部警備室で、若い隊員が声をかけた。
「はい」
紗夜は監視モニターから目を離した。
艶のある黒髪を低い位置でまとめたシニヨン。
整った顔立ち。
細身の身体。
戦闘員というより、静かなホテルのコンシェルジュにも見える。
しかし、ヤタガラス内部で彼女をそんなふうに評価する者はいない。
作戦部。
近接警護・内部保安班長。
コールサイン――SHADE。
要人警護。
施設防衛。
CQB。
対人制圧。
そして内部脅威の発見。
彼女が担当するのは、敵が撃ってきてから始まる仕事ではない。
敵が撃つ前に終わらせる仕事だ。
若い隊員が聞いた。
「前から気になってたんですけど」
「なんでしょう」
「班長って……なんで、そんなに人の手を見るんですか?」
紗夜は一度だけ瞬きをした。
質問した青年の右手を見る。
紙コップ。
左手を見る。
膝の上。
指が少し動いている。
緊張しているらしい。
紗夜は答えた。
「手は、嘘をつくのが下手だからです」
「顔じゃなくて?」
「顔は、とても上手ですよ」
薄く笑う。
「人間は笑顔を練習できますから」
「……経験談ですか?」
少しだけ間があった。
「ええ」
それだけだった。
青年も、それ以上は聞かなかった。
紗夜は再び監視モニターへ目を戻した。
その横顔からは、何も読み取れない。
けれど彼女の記憶は、九年前へ戻っていた。
*
十八歳の御影紗夜は、今よりずっと人の顔を見ていた。
相手の目を見なさい。
話を聞きなさい。
誠実でありなさい。
そう教えられて育った。
だから、人を見るときは目を見るものだと思っていた。
二十代前半。
彼女は警備と身辺警護の世界に入った。
特別な理由があったわけではない。
身体能力が高かった。
判断が速かった。
感情に流されにくかった。
そして何より、人を守る仕事が性に合った。
訓練教官は彼女を高く評価した。
ただ、一つだけ言われた。
「御影。お前は人を信用しすぎる」
紗夜は首を傾げた。
「警戒はしています」
「違う」
教官は自分の胸を指した。
「お前は、人間が悪意を持つとき、顔に悪意が出ると思っている」
紗夜は黙った。
「そんな親切な悪党ばかりなら、警護屋はいらん」
その意味を理解するまで、それほど時間はかからなかった。
ある夜。
紗夜は一人の男を警護していた。
企業の幹部だった。
脅迫を受けており、数日間の身辺警護が必要とされていた。
男は穏やかな人物だった。
冗談を言い、警護員にも礼を言った。
「御影さん」
車へ向かう途中、男が笑った。
「こんな仕事、大変でしょう」
「仕事ですから」
「怖くないんですか?」
「怖いですよ」
紗夜は答えた。
男が意外そうな顔をした。
「怖いんですか?」
「怖くない人間より、怖いと思える人間のほうが警護には向いています」
男は笑った。
「面白い人だ」
そのときだった。
同行していた秘書が近づいてきた。
何年も男に仕えている人物だった。
紗夜も何度も会っていた。
気弱そうな中年男性。
いつも腰が低い。
その夜も笑っていた。
「お疲れさまです」
紗夜は彼の顔を見た。
いつも通りだった。
柔らかな笑顔。
少し下がった眉。
緊張している様子もない。
だから――
見落とした。
彼の右手を。
スーツの裾に隠れたその手を。
一瞬だけ。
ほんの一瞬。
指が腰の後ろへ伸びた。
次の瞬間。
隣を歩いていた先輩警護員が叫んだ。
「手だ!」
世界が動いた。
先輩が依頼人を押し倒す。
紗夜が秘書へ飛び込む。
乾いた破裂音。
一発。
二発。
紗夜は男の腕を捕まえた。
手首を捻る。
壁へ叩きつける。
拳銃が床へ落ちた。
三秒にも満たなかった。
秘書は制圧された。
依頼人は無事だった。
紗夜も無傷だった。
だが。
先輩警護員の腹部から血が流れていた。
「先輩」
「……依頼人を見ろ」
「でも」
「俺を見るな」
先輩は歯を食いしばった。
「お前は警護員だろう」
救急車が来るまでの時間。
紗夜はずっと依頼人の前に立った。
背後で救命処置が続いていた。
振り返りたかった。
何度も。
だが振り返らなかった。
依頼人を守る。
それが仕事だった。
後から分かったことがある。
秘書には多額の借金があった。
脅迫事件そのものに関与していた。
そして計画が露見することを恐れ、依頼人の殺害を決意した。
事情など、紗夜にはどうでもよかった。
重要だったのは一つだけ。
男は撃つ直前まで笑っていた。
だが。
手だけは、撃つ準備をしていた。
幸い、先輩は一命を取り留めた。
数週間後。
病室を訪れた紗夜は深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
先輩はベッドの上で雑誌を読んでいた。
「何が?」
「私が見落としました」
「そうだな」
否定してくれなかった。
紗夜は唇を噛んだ。
先輩は雑誌を閉じた。
「顔見てただろ」
「……はい」
「いい顔だったか?」
「笑っていました」
「だろうな」
先輩は自分の腹を軽く叩いた。
「笑顔に撃たれたんじゃない。拳銃に撃たれた」
紗夜は顔を上げた。
「御影」
「はい」
「人間を見るなとは言わん」
先輩は言った。
「だが、人間の言葉だけを見るな。顔だけを見るな」
そして自分の両手を広げた。
「人間はな、やろうとしていることを、最後は身体に命令しなきゃならない」
紗夜はその手を見た。
「殺すなら、握る」
先輩が右手を閉じる。
「逃げるなら、踏み出す」
足を少し動かす。
「殴るなら、肩が動く」
肩を上げる。
「武器を取るなら――」
腰へ手を伸ばす。
「手が行く」
紗夜は黙っていた。
「顔はいくらでも嘘をつく」
先輩は笑った。
「でも身体は、嘘が下手だ」
それから。
御影紗夜は人の手を見るようになった。
*
数年後。
彼女はさらに多くの現場を経験した。
酔客。
暴漢。
護衛対象へ突進する者。
警護対象自身が起こす問題。
刃物を隠した男。
拳銃を持った男。
嘘をつく依頼人。
内部情報を売った社員。
恐怖で動けなくなる新人。
彼女は学んだ。
敵意は、怒鳴り声だけではない。
本当に危険な人間ほど静かなことがある。
だから紗夜自身も、大きな声を出さなくなった。
声を荒らげれば、周囲の情報が消える。
怒りに任せれば、判断が遅れる。
そして――
怒鳴らなければ従わせられない時点で、警護員として負けている。
いつしか紗夜は、
怒るほど声が小さくなる女
として知られるようになった。
ある現場では、彼女の部下が警戒区域への立入者を見逃した。
幸い事故は起きなかった。
若い隊員は青ざめていた。
紗夜は彼の前に立った。
「報告してください」
静かな声だった。
隊員は説明した。
途中で言い訳を始めた。
その瞬間。
「もう一度」
紗夜の声がさらに小さくなった。
周囲が静まった。
「何が起きたかだけを、報告してください」
「……自分が確認を怠りました」
「はい」
紗夜は頷いた。
「それで結構です」
怒鳴らない。
侮辱しない。
失敗を笑わない。
ただし。
誤魔化すことだけは許さない。
「失敗した人間を処分するだけなら簡単です」
紗夜は言った。
「でも、それでは次の失敗は防げません」
隊員を見る。
正確には――彼の手を見る。
拳を強く握っていた。
悔しさ。
恐怖。
罪悪感。
「次は見落とさないでください」
「はい」
「あなたならできます」
拳が少し緩んだ。
紗夜はそれを見ていた。
*
そんな御影紗夜がヤタガラスへ来た頃。
九条ホオズキとの最初の面談で、少し妙なことがあった。
ホオズキが書類を机へ置いた。
「御影紗夜」
「はい」
「近接警護の評価が高い。内部保安についても経験がある」
「ありがとうございます」
「でも私は経歴より本人を見る」
ホオズキが椅子にもたれた。
「質問する」
「どうぞ」
「私を守れる?」
紗夜はホオズキの顔を見なかった。
右手。
ペン。
左手。
机の下。
足。
呼吸。
視線。
最後に顔を見る。
「条件があります」
ホオズキの眉が少し動いた。
「聞こう」
「私の指示に従ってください」
一瞬。
沈黙した。
室内にいた隊員がわずかに固まった。
代表にそんなことを言う応募者は珍しい。
だがホオズキは怒らなかった。
「例えば?」
「私が伏せろと言えば伏せる」
「うん」
「走れと言えば走る」
「うん」
「黙れと言えば黙る」
「……最後のは気に入らないな」
「では守れません」
即答だった。
数秒後。
ホオズキが笑った。
「採用」
紗夜は少し驚いた。
「よろしいのですか?」
「私に媚びる護衛はいらない」
ホオズキは言った。
「私を生かす護衛が欲しい」
それが。
御影紗夜がヤタガラスに残ることを決めた理由の一つだった。
肩書きではなく役割を見る。
偉い人間にも必要なことを言う。
仲間を道具として扱わない。
この場所なら。
自分が学んできたものを使えると思った。
*
現在。
午前零時を少し過ぎていた。
警備室。
若い隊員がまだ紗夜の隣にいる。
「班長」
「はい」
「さっきの話なんですけど」
「手を見る理由ですか」
「はい」
青年は自分の両手を眺めた。
「そんなに分かるものなんです?」
紗夜は少し考えた。
「全部は分かりません」
「そうなんですか?」
「当然です」
紗夜は微笑んだ。
「私は超能力者ではありませんから」
青年が笑った。
紗夜もほんの少しだけ笑う。
「でも」
監視モニターへ視線を戻す。
「怖がっている人の手は震えます」
画面が切り替わる。
「怒っている人は拳を握る」
別の画面。
「嘘をつく人は、隠したいものへ触れることがある」
そして。
自分の右手を見る。
「誰かを守ろうとしている人は――」
少しだけ言葉を止めた。
遠い昔。
銃声。
床へ落ちる拳銃。
血に濡れた制服。
病室で広げられた両手。
あの日、自分を庇った先輩。
そして今。
ヤタガラスで戦う仲間たち。
「……前に手を出します」
若い隊員は何も言わなかった。
紗夜は立ち上がった。
巡回の時間だった。
装備を確認する。
通信機。
ライト。
拘束具。
サイドアーム。
異常なし。
扉へ向かう。
そのとき青年が呼び止めた。
「御影班長」
紗夜が振り返る。
「班長は、人を信用してないんですか?」
紗夜は少しだけ考えた。
そして答えた。
「逆です」
「え?」
「信用したいんです」
静かな声だった。
「だから、ちゃんと見るんです」
それだけ言って廊下へ出る。
夜のヤタガラス本部は静かだった。
照明の落とされた通路。
遠くから聞こえる通信機の音。
自販機の低い駆動音。
巡回中の隊員とすれ違う。
「お疲れさまです、御影班長」
「お疲れさまです」
紗夜は軽く頭を下げる。
そして。
相手の顔を見る。
肩を見る。
腰を見る。
最後に――手を見る。
何もない。
異常なし。
彼女は静かに歩き続ける。
御影紗夜は、人間を疑っているから手を見るのではない。
人間を守りたいから見る。
笑顔の下にある悪意も。
無表情の下にある恐怖も。
強がりの下にある震えも。
言葉にならない救難信号も。
誰より早く見つけるために。
だから彼女は今日も、
人の顔ではなく、
その手を見ている。
そして危険が訪れたなら。
誰よりも先に――
自分の手を前へ出す。




