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神代レンジという男

 神代蓮司が、いつからよく笑うようになったのか。


本人に訊けば、たぶんこう答える。


「生まれつきですよ。俺、昔から愛想だけは良かったんで」


もちろん嘘である。


二十代前半の神代蓮司は、今とはまるで違う男だった。


口数が少なく、冗談も言わない。


女性を見ても口説かない。


必要以上に人間へ近づかず、必要以上に自分のことを話さない。


そして何より――。


ほとんど笑わなかった。


---


冬。


山間部の演習場には、細かな雪が降っていた。


迷彩服の襟元から入り込む冷気を無視しながら、蓮司は伏射姿勢を取っていた。


双眼鏡越しに見えるのは、八百メートルほど離れた林道。


動くものはない。


隣に伏せている年上の隊員が、小声で言った。


「神代」


「はい」


「お前、女にモテるだろ」


蓮司は双眼鏡から目を離さなかった。


「任務中です」


「知ってる」


「なら黙ってください」


「ほら、そういうところ」


蓮司が眉を寄せる。


男は笑った。


名前は相馬だった。


三十四歳。


蓮司より十歳近く年上。


特殊作戦系部隊の先任隊員であり、当時の蓮司の指導役でもあった。


射撃。


潜入。


追跡。


地形判断。


潜伏。


対人工作。


人間の観察。


蓮司が後に得意とする技術のかなりの部分を、彼から教わった。


だが、その教え方はかなり独特だった。


「人間ってのはな」


相馬が雪の中で言う。


「正しいことを言う奴より、笑ってる奴の方を信用する」


「意味が分かりません」


「お前は頭がいい。でも人間が分かってない」


「任務に必要ですか」


「一番必要だ」


蓮司はようやく横を見る。


相馬は笑っていた。


この男は、いつも笑っていた。


訓練中でも。


叱責されても。


飯がまずくても。


負傷しても。


「笑顔は武器だぞ、神代」


「胡散臭い武器ですね」


「そうそう。そのくらい言え」


相馬は楽しそうに肩を揺らした。


---


蓮司がその部隊へ来たのは二十三歳の頃だった。


能力は高かった。


身体能力。


射撃。


状況判断。


記憶力。


語学。


どれを取っても優秀だった。


しかし、一つだけ決定的に足りなかった。


人間との距離感だった。


蓮司は合理的すぎた。


必要なら嘘をつく。


必要なら利用する。


必要なら切り捨てる。


それを悪いことだとは思っていなかった。


任務とはそういうものだと考えていた。


だからある日、相馬に訊いた。


「情報提供者が協力を拒否した場合、どこまで圧力をかけますか」


相馬は少し考えた。


「拒否の理由による」


「家族があります」


「なら家族には触るな」


蓮司が目を細める。


「利用価値があります」


「だから触るな」


「非効率です」


相馬は蓮司を見た。


珍しく笑っていなかった。


「神代」


「はい」


「任務のためなら何でもしていいと思い始めたら、その時点で俺たちはただのチンピラになる」


蓮司は黙った。


「線を決めろ」


「線?」


「絶対に越えない線だ」


相馬は煙草を取り出しかけ、演習場だったことを思い出してポケットへ戻した。


「仕事ってのはな、出来ることと、やっていいことは違う」


その言葉を、蓮司は長いこと忘れなかった。


---


数年後。


海外での共同任務。


表向きは訓練支援。


実際には、現地武装組織と接触している人物の確認だった。


蓮司たちの班は、現地協力者を通して情報を集めていた。


協力者は二十九歳の女性だった。


名はミラ。


現地で通訳として働いていた。


英語が堪能で、地域事情に詳しく、人脈も広い。


そして、妙に勘が鋭かった。


最初に蓮司を見た瞬間、彼女は言った。


「あなた、怖い人ね」


蓮司は少し眉を動かした。


「よく言われます」


「嘘」


「何がです」


「そんなこと言われたことないでしょう」


ミラは笑った。


「あなたは、怖いと思われる前に、人を近づけないから」


蓮司は何も答えなかった。


三日後。


彼女はまた言った。


「あなた、笑わないのね」


「必要がありますか」


「あるわよ」


「どんな」


「女の人と話すとき」


「仕事です」


「つまらない男」


蓮司は無視した。


すると後ろから相馬が吹き出した。


「神代、完敗だな」


「何がですか」


「全部だよ」


---


任務は順調だった。


少なくとも、途中までは。


問題が起きたのは七日目だった。


情報が漏れた。


接触予定だった人物が殺害され、別地点で待機していた現地協力者二名も襲撃された。


敵は、こちらの行動を知っていた。


内部に漏洩者がいる。


指揮所は即座に撤収を決定した。


そしてミラを置いていくことになった。


正式な保護対象ではなかった。


契約外。


現地協力者。


救出には危険が伴う。


命令は明確だった。


撤収。


蓮司は地図を見ながら言った。


「彼女の居場所は分かっています」


上官が答える。


「神代」


「車両で十五分です」


「撤収命令だ」


「敵側に身元が割れています」


「分かっている」


「なら放置すれば殺される」


沈黙。


上官は低い声で言った。


「我々の任務ではない」


蓮司の表情が変わった。


ほんのわずかだった。


だが相馬には分かった。


「神代」


「……了解」


蓮司は答えた。


そして立ち上がった。


---


十分後。


蓮司はいなくなった。


「馬鹿野郎」


相馬が吐き捨てる。


装備棚からライフルを取った。


別の隊員が止める。


「先任」


「俺が連れ戻す」


「命令違反です」


「知ってる」


「処分されますよ」


相馬は笑った。


「俺、昔から上司受け悪いんだよ」


---


ミラの家は燃えていた。


蓮司が到着したとき、銃声が聞こえた。


裏口。


二人。


路地に一人。


蓮司は迷わなかった。


発砲。


移動。


遮蔽物。


数秒。


静かになった。


家の中へ入る。


「ミラ!」


返事がない。


「ミラ!」


奥の部屋。


倒れた家具の陰にいた。


腕から血を流していたが、生きている。


蓮司を見ると、彼女は目を丸くした。


「……何してるの」


「助けに来ました」


「あなたの仕事じゃないでしょう」


「ええ」


「怒られるわよ」


「でしょうね」


ミラが笑った。


「馬鹿ね」


「よく言われます」


「また嘘」


そのとき。


外で銃声。


蓮司が振り返った。


敵が増えている。


その直後、無線に声が入った。


『神代』


相馬だった。


『裏路地へ出ろ』


蓮司が僅かに目を見開く。


「先任?」


『説教は後だ。三十秒』


「命令違反ですよ」


『お前にだけは言われたくねえ』


蓮司は初めて、小さく笑った。


---


三人は裏路地を抜けた。


追手は多かった。


車両まで百メートル。


相馬が先行。


蓮司がミラを支える。


角を曲がる。


銃声。


相馬の身体が揺れた。


「先任!」


「走れ!」


「被弾しました!」


「知ってる!」


脇腹。


出血が多い。


それでも相馬は撃ち返した。


「神代!」


「はい!」


「連れて行け!」


「三人で行きます!」


「馬鹿野郎!」


相馬が怒鳴った。


蓮司が初めて聞く声だった。


「選べ!」


蓮司の足が止まった。


「お前が勝手に助けに来たんだろうが!」


敵が迫っている。


「なら最後まで責任持て!」


「先任――」


「女一人助けて途中で投げ出したら、一生笑ってやるぞ!」


相馬は笑った。


血だらけの顔で。


いつものように。


「線を決めろって言っただろ」


蓮司の顔が歪んだ。


「……俺は」


「行け」


「俺は――」


「神代」


相馬は最後に言った。


「人間になれ」


---


蓮司はミラを連れて走った。


背後から銃声が続いた。


一発。


二発。


三発。


そして。


止まった。


蓮司は振り返らなかった。


振り返れなかった。


---


相馬は帰らなかった。


公式記録では、任務中の戦死。


詳細は伏せられた。


蓮司には厳しい処分が下された。


当然だった。


命令違反。


独断行動。


作戦全体を危険に晒した。


除隊すらあり得た。


聴取の席で、幹部が訊いた。


「後悔しているか」


蓮司は長い沈黙のあと答えた。


「しています」


「何をだ」


蓮司は真っ直ぐ前を見る。


「もっと上手くやれなかったことを」


部屋が静まり返った。


「彼女を助けたことは?」


「後悔していません」


「隊員を一人失った」


蓮司の手が拳になる。


「……はい」


「それでもか」


「それでもです」


幹部は長く蓮司を見た。


「理由は」


蓮司は答えた。


「彼がそう教えたからです」


---


数か月後。


ミラから手紙が届いた。


短い内容だった。


自分は無事。


別の国で暮らしている。


仕事も見つかった。


そして最後に、こう書いてあった。


――あなたを助けに来させてしまったことを、ずっと後悔している。


蓮司は手紙を読み終えると、すぐ返信を書いた。


一行だけ。


――あなたが生きているなら、それでいい。


送った後。


蓮司は椅子にもたれた。


天井を見る。


相馬の言葉を思い出した。


笑顔は武器だぞ、神代。


「……くだらない」


一人で呟いた。


そして少しだけ笑った。


---


それから蓮司は変わった。


人と話すようになった。


冗談を言うようになった。


女性を口説くようになった。


わざと軽薄に振る舞うようになった。


誰にでも笑顔を見せるようになった。


だが、誰にも言わない決まりが増えた。


嫌だと言った相手には触れない。


酔って正常な判断のできない相手には手を出さない。


既婚者には近づかない。


部下には手を出さない。


任務対象には手を出さない。


弱みにつけ込まない。


好意を利用しない。


嘘で期待させない。


女を口説くくせに、妙なところで律儀。


仲間から何度も笑われた。


「レンジ、お前そこだけ妙に真面目だな」


そのたび蓮司は笑う。


「紳士なんですよ、俺」


もちろん、それも半分は嘘だった。


本当はただ。


越えない線を決めているだけだ。


---


数年後。


自衛隊を離れた蓮司は、いくつかの仕事を経てPMCヤタガラスへ辿り着いた。


面接の日。


九条ホオズキは彼の経歴書を見ながら言った。


「神代蓮司」


「はい」


「問題行動歴あり」


「若気の至りです」


「命令違反」


「情熱的だったんですよ」


「勝手な救出行動」


「女性を放っておけない性格でして」


ホオズキが顔を上げる。


「ふざけているの?」


「少しだけ」


隣に座っていた榊原宗一郎が、わずかに口元を緩めた。


ホオズキは資料を閉じた。


「聞きます」


「どうぞ」


「同じ状況になったら、今度はどうする?」


蓮司の笑顔が消えた。


ほんの一瞬。


相馬の顔が浮かぶ。


雪。


血。


銃声。


笑顔。


――線を決めろ。


蓮司は答えた。


「まず命令系統を使います」


「それでも救出許可が出なかったら?」


「作戦を再提案します」


「却下されたら?」


「別案を出します」


「全部却下されたら?」


蓮司は少し笑った。


「代表」


「何」


「それでも仲間を置いていく組織なら、最初から俺は入りません」


部屋が静かになった。


ホオズキは数秒、蓮司を見つめた。


やがて。


「採用」


「早いですね」


「ただし」


「はい」


「勝手に動いたら私が撃つ」


蓮司は笑った。


「美人に撃たれるなら悪くないですね」


「不採用にするわよ」


「すみません」


榊原が小さく咳払いした。


笑いを堪えている。


蓮司は椅子から立ち上がった。


そのとき、壁に掲げられていたヤタガラスの標語が目に入った。


仲間を置き去りにしない。


蓮司は少しだけ立ち止まった。


「どうしたの?」


ホオズキが訊く。


蓮司は振り返る。


いつもの笑顔。


軽薄で。


胡散臭くて。


人を食ったような笑顔。


「いい会社だなと思いまして」


「まだ入社初日よ」


「長く勤められそうです」


そして部屋を出る。


廊下を歩きながら、蓮司は誰にも聞こえない声で呟いた。


「なあ、先任」


返事はない。


「俺、まだ人間やってますよ」


窓の外では、雨が降っていた。


蓮司はポケットに手を入れたまま歩く。


もう振り返らない。


ただし。


置いていかない。


絶対に。


それだけは。


あの日、笑いながら死んだ男との約束だった。

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