一条寺アカネという女
PMCヤタガラス本部、経理財務室。
午後十一時四十七分。
建物の大部分はすでに静まり返っていた。
作戦部の人間は仮眠室へ入り、情報システム部のモニターだけが青白い光を放っている。
そんな中。
一条寺アカネのデスクだけは、まだ明るかった。
「……三十二円」
眼鏡の奥で、アカネの目が細くなる。
モニターには今月の経費精算一覧。
その横には請求書。
さらに横には領収書。
アカネは三枚の数字を順番に見比べた。
もう一度。
「三十二円……合わない」
普通なら誤差で済ませる。
年間数十億規模の契約を扱うPMCにとって、三十二円など誤差という言葉すら大げさだった。
しかしアカネは席を立った。
そして数分後。
作戦部の休憩室。
ソファで寝ていた男の肩を叩く。
「起きてください」
「……敵襲?」
「もっと悪いです」
男が飛び起きた。
「何だ?」
アカネは一枚の領収書を突きつける。
「あなた、先週の出張でコーヒー買いましたね」
「……は?」
「申請額百八十円。領収書百四十八円」
沈黙。
「三十二円多いです」
男はしばらく瞬きをした。
「……一条寺さん」
「はい」
「今、夜中の十二時だぞ」
「だから何ですか?」
「三十二円だぞ?」
アカネは真顔で答えた。
「三十二円を笑う人間は、三十二万円も、そのうち笑います」
「いや……」
「訂正してください」
「明日じゃ駄目?」
「今です」
男は頭を抱えた。
そこへ通りかかった篠宮レイナが吹き出した。
「かわいそー」
「篠宮さん」
アカネが振り返る。
「なに?」
「あなたの先月の潜入任務。バーでの接待費について確認があります」
レイナの笑顔が消えた。
「……おやすみなさい」
「逃がしません」
廊下を走るレイナ。
追うアカネ。
それを見送った隊員が呟いた。
「敵より怖え……」
ヤタガラスでは、それが一条寺アカネという女だった。
金に細かい。
数字に厳しい。
書類の一円を許さない。
そして――
誰よりも、
金というものが人間を殺すことを知っていた。
---
アカネが数字に興味を持ったのは、子供の頃だった。
数学が好きだったわけではない。
家が裕福だったわけでもない。
理由はもっと単純だった。
父親が、小さな町工場を経営していた。
従業員十八名。
旋盤三台。
古い溶接機。
夏は暑く、冬は寒い工場だった。
だが父親はいつも言った。
「うちは小さいけどな。十八人の家族を食わせてる会社だ」
幼いアカネには、その言葉の意味がよく分からなかった。
会社とは父親のものだと思っていた。
けれど高校生になった頃。
工場の空気が変わった。
父親が家に帰らなくなった。
母親の笑顔が減った。
電話が頻繁に鳴るようになった。
銀行。
取引先。
税理士。
そしてある晩。
居間の机に大量の書類を広げた父親が、頭を抱えていた。
アカネは何気なく一枚を手に取った。
「お父さん」
「ん?」
「この会社……先月も同じ請求してるよ」
父親が顔を上げた。
「何?」
仕入先の請求書だった。
同じ品目。
同じ数量。
違う請求番号。
父親が黙り込む。
それが始まりだった。
調べれば調べるほど出てきた。
架空の仕入れ。
水増しされた設備費。
存在しないコンサルティング料。
父親が信頼して経理を任せていた人間と取引先が、何年もかけて少しずつ会社から金を抜いていた。
一回の額は小さい。
数万円。
数十万円。
だから気づかなかった。
積み上がった額は、
会社を潰すには十分だった。
父親は必死に立て直そうとした。
だが銀行は融資を止めた。
取引先は離れた。
最後の日。
工場のシャッターが降りる前。
父親は十八人の従業員を集めた。
そして一人ずつ頭を下げた。
「すまない」
誰も父親を責めなかった。
だからこそ、
アカネはその光景を忘れられなかった。
父親が最後に言った言葉も。
「もっと早く気づいていればな」
その夜。
アカネは工場の事務所に一人で座っていた。
机には古い帳簿が積まれている。
電卓を叩いた。
一件。
二件。
十件。
百件。
金を抜いた人間は、
最初から大金を盗んだわけではなかった。
三千円。
一万円。
二万円。
小さな数字から始まっている。
誰も気にしない額。
誰も確認しない数字。
そこから少しずつ大きくなっていった。
アカネはその日から、
数字を信用するようになった。
正確には――
人間より先に、数字を見るようになった。
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大学では会計と金融を学んだ。
成績は常に上位。
公認会計、企業財務、金融工学、税務、国際会計、内部統制。
必要だと思ったものは片っ端から勉強した。
卒業後は大手監査法人へ。
企業の帳簿を調べ続けた。
二十代半ばには、
数字を見るだけで会社の空気が分かるようになっていた。
利益率。
在庫回転率。
人件費。
外注費。
キャッシュフロー。
その数字の崩れ方には、
必ず理由がある。
経営不振。
粉飾。
横領。
裏金。
賄賂。
資金洗浄。
数字は喋らない。
だが、
嘘もつかない。
ある企業の監査で、
アカネは不自然な送金を見つけた。
海外の小さな警備会社へ、毎月一定額。
契約内容は曖昧。
成果物なし。
担当者不明。
通常なら追加資料を求めて終わる案件だった。
だがアカネは追った。
送金先から、
さらに別会社。
そこから財団。
そこから輸入業者。
七社。
三か国。
十九口座。
複雑に分散された資金。
最終的にたどり着いた先は、
武装組織だった。
上司は言った。
「そこまででいい」
アカネは聞き返した。
「なぜですか」
「我々は捜査機関じゃない」
「ですが資金洗浄です」
「疑いだ」
「証拠があります」
「一条寺」
上司の声が低くなった。
「世の中には、触らないほうがいい数字もある」
アカネは机の向こうの男を見つめた。
その言葉が、
嫌いだった。
数字に、
触っていいものと悪いものがある。
そんな理屈を認めれば、
父親の工場を食い潰した数万円と何も変わらない。
その夜。
アカネは資料をコピーした。
翌朝、
内部通報窓口と関係当局へ提出した。
結果。
数か月後に事件は表沙汰になった。
幹部数名が逮捕。
企業は行政処分。
だがアカネ自身も会社を去った。
円満退職ではない。
送別会もなかった。
誰かが最後に言った。
「正義感が強すぎると生きづらいぞ」
アカネは答えた。
「正義感じゃありません」
「じゃあ何だ?」
「計算が合わないだけです」
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その後、
アカネは企業再生、国際金融、フォレンジック会計の世界を渡り歩いた。
破綻企業。
犯罪組織。
汚職案件。
秘密資金。
マネーロンダリング。
金の流れを追えば、
表向き善人の人間が何をしているのか分かった。
そして反対に。
世間から悪人と呼ばれる人間が、
誰かを守るために金を使っていることもあった。
だからアカネは、
人を肩書きで判断しなくなった。
見るのは、
何を言ったかではない。
何に金を使ったか。
「金の使い方には、その人間の本性が出る」
それが彼女の持論になった。
そんなアカネのもとへ、
ある日、一件の依頼が来た。
依頼主。
PMCヤタガラス。
面接の日。
黒いスーツを着たアカネは、
九条ホオズキの前に座った。
ホオズキは履歴書を見て言った。
「随分と転職が多いな」
「はい」
「職場と揉めるタイプか?」
「不正を隠す会社とだけです」
ホオズキが少しだけ口元を緩めた。
「なるほど」
机に一冊のファイルを置く。
「うちの帳簿だ」
アカネは開いた。
十分。
二十分。
三十分。
ホオズキは黙って待った。
やがてアカネが言った。
「ひどいですね」
「何がだ」
「経費管理です」
即答だった。
ホオズキの眉が動く。
「作戦部門の現地購入品。領収書の不足が十五件。車両整備費の分類間違いが七件。外貨換算基準も統一されていません」
ページをめくる。
「それから弾薬管理と会計データが連動していない」
さらにめくる。
「あと食堂」
「食堂?」
「食材廃棄率が高すぎます」
「……」
「二・八パーセント改善できます」
ホオズキは椅子にもたれた。
「面白い女だな」
アカネは眼鏡を押し上げる。
「褒め言葉として受け取ります」
ホオズキはしばらく彼女を見ていた。
そして聞いた。
「一つだけ質問する」
「どうぞ」
「会社の利益と隊員の命。どちらを取る」
アカネは考えなかった。
「比較になりません」
「理由は?」
「人間を失った損失は、帳簿上の数字だけでは計算できないからです」
ホオズキの目が変わった。
アカネは続けた。
「育成費。経験。組織内の信頼。士気。家族への補償。そして、その人間が今後生み出すはずだった価値」
指を折る。
「全部含めれば、隊員を使い捨てる会社は経営的にも三流です」
数秒の沈黙。
ホオズキが言った。
「採用だ」
「まだ条件の話をしていません」
「給与か?」
「権限です」
アカネはホオズキを真っ直ぐ見た。
「代表相手でも、金の使い方に問題があれば止めます」
ホオズキは即答した。
「好きにしろ」
こうして。
ヤタガラスに、
最も銃を撃たない戦闘員が加わった。
---
数年後。
ヤタガラス本部。
深夜一時十三分。
アカネはようやく三十二円の修正を確認した。
「はい。合いました」
隊員が疲れ切った顔で言う。
「なあ一条寺さん」
「何ですか」
「本当に三十二円がそんな大事か?」
アカネは少しだけ考えた。
昔なら、
即答しただろう。
だが今は違った。
机の上の領収書を見る。
「三十二円そのものは、どうでもいいです」
男が目を丸くする。
「え?」
「でも」
アカネは言った。
「誰も見ていないから適当でいい、という考え方は嫌いなんです」
静かな声だった。
「小さな誤魔化しを許す組織は、いつか大きな誤魔化しをします」
父親の工場を思い出す。
閉じるシャッター。
頭を下げる父。
十八人の従業員。
もっと早く気づいていれば。
あの日聞いた言葉を、
アカネは今でも忘れていない。
「だから私は」
一枚の領収書をファイルへ入れる。
「小さい数字を見るんです」
男はしばらく黙っていた。
やがて苦笑した。
「……分かったよ」
「ありがとうございます」
「次からちゃんとする」
「当然です」
「そこは優しく言ってくれよ」
その時。
入口から声がした。
「まだやっていたのか」
九条ホオズキだった。
「代表」
「もう寝ろ、一条寺」
「あと十四件あります」
「明日にしろ」
「代表」
アカネが眼鏡を押し上げる。
「過労による生産性低下を問題視していたのは、どなたでしたか?」
「……私だな」
「では代表もお休みください」
ホオズキは少し黙る。
それから小さく笑った。
「分かった」
部屋を出ていこうとして、
一度足を止めた。
「一条寺」
「はい」
「いつも助かっている」
アカネの指が一瞬だけ止まった。
「……給与分の仕事をしているだけです」
「そうか」
ホオズキはそれ以上何も言わなかった。
扉が閉まる。
誰もいなくなった経理財務室。
アカネは再びモニターを見る。
十四件。
普通なら、
面倒な仕事だ。
だがアカネには分かっていた。
帳簿とは、
ただの数字の集合ではない。
給与の数字の向こうには、
隊員の家族がいる。
補給費の向こうには、
戦場へ行く仲間がいる。
医療費の向こうには、
帰ってきた負傷者がいる。
保険料の向こうには、
帰ってこなかった者の家族がいる。
だから。
数字を見る。
一円まで見る。
誰かが、
「もっと早く気づいていれば」
と言わなくて済むように。
アカネは新しい請求書を開いた。
眼鏡を押し上げる。
「……さて」
電卓を叩く。
乾いた電子音が、
静かな部屋に響いた。
一条寺アカネは兵士ではない。
銃撃戦もしない。
突入もしない。
敵陣へ潜入することもない。
だがヤタガラスの誰もが知っている。
この組織が戦場で仲間を置き去りにしないのなら――
彼女は、
帳簿の中で、
一人も置き去りにしない。
それが。
一条寺アカネという女だった。




