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久世トウマという男

ヤタガラス本部、情報システム部。


午前二時十三分。


人間が最も判断を誤りやすい時間帯に、久世冬馬はコーヒーを淹れていた。


「……班長」


後ろから若いオペレーターの声が飛ぶ。


「第三監視セグメントで異常通信です。EDRが三台同時に反応。外向きの接続先が――」


「声が大きい」


久世は振り返らなかった。


細身の身体に黒いシャツ。


少し長めの黒髪。


黒縁眼鏡のレンズには、壁一面のモニターから流れるログが反射している。


「す、すみません」


「謝らなくていい。報告して」


「はい。外部C2と思われるIPへの通信を確認。端末三台。うち一台は作戦部ネットワークと接続履歴があります」


室内の空気が変わった。


作戦部。


つまり、実働部隊が使用する端末だ。


そこには配置計画、移動経路、連絡網、場合によっては依頼人の情報まで入っている。


若手たちの指が速くなる。


一人がキーボードを叩きながら言った。


「ネットワーク切りますか?」


「まだ」


「ですが――」


「切った瞬間、相手はこちらが気づいたと知る」


久世はコーヒーを一口飲んだ。


「泳がせる」


「侵入されているのにですか?」


「侵入されたからだ」


声色は変わらない。


心拍数が上がっているようにも見えない。


久世冬馬という人間を知らない者が見れば、冷たい男だと思うだろう。


実際、入社したばかりの社員の多くはそう思う。


感情がない。


怖がらない。


焦らない。


何を考えているのか分からない。


だが、古参は知っている。


久世は焦らないのではない。


焦ることが、どれほど高くつくのかを知っているのだ。


「通信コピー開始」


「はい」


「DNS問い合わせ履歴も全部取る。認証ログ、VPN、メールゲートウェイ、直近七十二時間」


「了解」


「榊原副代表には?」


「まだ報告しなくていい」


若手が目を丸くした。


久世は付け加えた。


「五分後にする。五分で状況を整理する」


そこで初めて、彼は椅子に座った。


「推測じゃなく、事実を持っていく」


その言葉だけは、少し重かった。


――十五年前。


まだ久世冬馬が二十歳そこそこの頃。


彼は大手通信企業のセキュリティ部門にいた。


当時から優秀だった。


いや。


優秀という言葉では足りなかった。


他人が何時間もかけて追う異常を、数分で見つけた。


パケットを眺めれば通信の癖が分かった。


ログを見れば、人間の操作なのか自動処理なのかを見抜いた。


暗号、認証、ルーティング、OS。


分からないものがあれば、その日のうちに理解した。


上司は言った。


「お前には才能がある」


久世は答えた。


「才能ではありません。パターン認識です」


若かった。


そして、自分が正しいことを疑わなかった。


数年後。


久世は政府系サイバーセキュリティ組織へ移った。


そこでは、攻撃の規模が違った。


企業の情報漏洩ではない。


国家。


重要インフラ。


防衛。


外交。


一つの判断が、数万人の生活を左右する。


そして冬。


十二月二十一日。


後に内部で、


《冬至事案》


と呼ばれる事件が起きた。


始まりは、たった一件の認証失敗だった。


午前三時四十二分。


管理者権限を持つアカウントへのログイン失敗。


一回。


それだけなら、珍しいものではない。


だが久世は違和感を覚えた。


失敗した時刻。


使用された端末。


認証要求の間隔。


「……人間じゃない」


隣の担当者が言った。


「ボット?」


「違う」


久世は画面を拡大した。


「人間の操作を真似ている」


そして三分後。


別のネットワークで異常が出た。


さらに二分後。


もう一つ。


攻撃は静かだった。


派手なマルウェアもない。


大規模な通信もない。


正規アカウント。


正規プロトコル。


正規ツール。


攻撃者は、普通の職員になりすまして歩いていた。


久世は即座に遮断を提案した。


だが上層部は迷った。


「確証はあるのか」


「ありません」


久世は答えた。


「ですが可能性が高い」


「可能性で国家システムを止めるわけにはいかない」


時間が過ぎた。


五分。


十分。


十五分。


異常は増えていった。


久世の頭の中には答えがあった。


切るべきだ。


今すぐ。


しかし彼は、承認を待った。


それが規則だったからだ。


そして午前四時十九分。


一つの重要システムが落ちた。


復旧はできた。


被害も最終的には限定された。


世間に知られるような大事故にはならなかった。


だが、対応中。


別拠点にいた技術者が一人、倒れた。


四十八時間近い連続勤務。


心疾患だった。


彼は助かった。


しかし現場には戻れなくなった。


その技術者は、事件の数時間前に久世へメッセージを送っていた。


《こっちは任せろ。そっちはそっちで判断しろ》


久世は、その文面を何年も消せなかった。


事件後、調査委員会が開かれた。


誰か一人の責任ではなかった。


むしろ報告書には、


「適切な手順に従って対応した」


と書かれた。


その一文を読んだ時、久世は初めて報告書を机に叩きつけた。


適切。


手順通り。


誰も悪くない。


だからこそ、久世は納得できなかった。


「手順通りなら正しい?」


誰も答えなかった。


「結果が出てから説明できる理屈に、何の意味がある」


その日から。


久世冬馬は変わった。


いや。


正確には、自分を作り直した。


焦って判断すれば、情報を見落とす。


恐怖に飲まれれば、可能性を事実だと思い込む。


責任を怖がれば、決断を他人に預ける。


だから彼は決めた。


感情を消すのではない。


感情にCPUを使わせない。


焦りを認識する。


恐怖を認識する。


そして、その上で切り離す。


数年後。


久世は政府組織を去った。


理由を聞かれた時、彼はこう答えた。


「守る対象より、責任の所在を守る人間が増えたからです」


そしてPMCヤタガラスへ来た。


面接の日。


九条ホオズキは、久世の経歴書を最後まで読んでから聞いた。


「あなた、命令に従える?」


普通なら、


はい。


そう答える質問だった。


久世は違った。


「合理的なら」


ホオズキの眉が動いた。


「合理的じゃなかったら?」


「反対します」


「私の命令でも?」


「代表だからこそ」


数秒。


二人は黙って見つめ合った。


横にいた榊原宗一郎は、止めるでもなく腕を組んでいた。


やがてホオズキが言った。


「採用」


榊原が少しだけ笑った。


久世は眼鏡を直した。


「随分早いですね」


「私に逆らえる人間は必要よ」


ホオズキは書類を閉じた。


「ただし」


視線が鋭くなる。


「間違ったら、あなたも責任を取る」


久世は即答した。


「当然です」


それが彼がヤタガラスに残った理由だった。


午前二時十八分。


現在。


五分が経った。


久世は立ち上がった。


「感染端末三台。起点は経理部の共有端末。侵入経路は偽装された更新通知」


「作戦部端末は?」


「二次感染です」


若手が聞く。


「遮断しますか?」


久世は一秒だけ考えた。


「する」


指示が飛ぶ。


「対象三台隔離。認証トークン失効。VPNセッション切断。ファイアウォールに暫定ルール。DNSシンクホールへ誘導」


室内が一気に動いた。


「久世班長、相手が動きました!」


「想定内」


「別端末へ横展開を――」


「それも想定内」


久世の指がキーボードを叩く。


「そっちは囮だ」


次の瞬間。


モニターの一つに、新たな通信が表示された。


若手が息を呑む。


「本命……」


「そう」


久世が静かに言った。


「焦らせれば、人間は安全な道を捨てる」


追跡。


分析。


遮断。


二十七分後。


侵入経路は完全に封鎖された。


情報流出なし。


業務停止なし。


久世は報告書をまとめて立ち上がった。


「榊原副代表へ報告してくる」


若手が思わず聞いた。


「班長」


「何」


「怖くないんですか?」


久世の足が止まった。


「何が」


「こういう時です。もし自分の判断が間違ってたら、とか」


数秒の沈黙。


久世は少しだけ眼鏡を押し上げた。


「怖いよ」


室内が静かになった。


若手が目を見開く。


久世冬馬から、そんな言葉が出るとは思っていなかった。


「昔、一度だけ」


久世はモニターを見た。


「判断するのが怖くて、判断を他人に預けたことがある」


声はいつもと同じだった。


だが、その横顔だけが少し違っていた。


「それ以来、怖い時ほど自分で決めることにしてる」


若手は何も言えなかった。


久世は扉へ向かう。


途中で立ち止まり、


「あと」


振り返った。


「焦りはCPUを奪うだけだ」


若手が苦笑する。


「それ、班長の口癖ですよね」


「正確には経験則」


「同じじゃないですか」


「違う」


「どこがです?」


久世は少し考えた。


そして、ほんの僅かに笑った。


「口癖なら、もう少し格好いいものを選ぶ」


扉が閉まる。


残された若手たちは顔を見合わせた。


一人が呟く。


「……今、笑った?」


「見てない」


「いや絶対笑ったって」


「録画ある?」


「監視カメラ確認します?」


奥から年長のオペレーターが言った。


「やめとけ。自分の部署の監視カメラ覗いたら久世さんにログでバレるぞ」


全員が黙った。


数秒後。


誰かが静かに監視カメラの画面を閉じた。


廊下では。


久世冬馬が一人、歩いていた。


ポケットの中のスマートフォンには、十五年以上前から消していない文章が残っている。


《こっちは任せろ。そっちはそっちで判断しろ》


彼はそれを戒めとは思っていない。


遺言とも思っていない。


ただ。


自分が決断を他人に預けそうになった時に思い出す。


一人の技術者が、


一人の若い久世冬馬へ残した言葉。


だから今日も彼は考える。


数字を見る。


事実を見る。


可能性を並べる。


そして最後には、自分で決める。


冷たい男だからではない。


怖くない男だからでもない。


久世冬馬は知っているのだ。


戦場で撃たれる弾丸だけが、人を傷つけるわけではない。


たった一つの見落とし。


たった五分の躊躇。


たった一度の、


「誰かが決めてくれるだろう」


それだけで。


守れるはずだったものは、失われる。


だから彼は今日も椅子に座り、


黒縁眼鏡の向こうから無数のログを眺める。


誰より静かに。


誰より慎重に。


そして。


決めるべき時には、


誰より早く。


――久世冬馬。


コールサイン、RAVEN。


ヤタガラスの誰もが銃を構える前に、


戦場そのものを見つける男である。

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