榊原ソウイチロウという男
――榊原宗一郎、その人となりと過去
午後九時二十三分。
PMCヤタガラス本部、作戦指揮室。
大半の職員が帰宅し、照明の落とされた室内には、サーバーラックの低い唸りだけが残っていた。
その中央で、一人の若い隊員が困った顔をしていた。
「……あの」
久世冬馬がモニターから目を離さないまま答える。
「何です」
「榊原副代表って……何者なんですか?」
キーボードを叩く音が止まった。
隣の机で経費資料を整理していた一条寺アカネまで顔を上げる。
「何者、とは?」
「いや、その……」
若手は言いにくそうに頭を掻いた。
「怖くないじゃないですか」
「失礼ですね」
アカネが笑う。
「いや、そういう意味じゃなくてですね」
若手は慌てた。
「代表は怖いです」
「それ本人の前で言えます?」
「絶対無理です」
「でしょうね」
「黒崎警視なんてもっと怖いですし、真壁さんも怒らせたら絶対駄目そうだし、御影班長なんか静かすぎて逆に怖いし……」
「全員怖いじゃないですか」
「でも榊原副代表って、いつも穏やかですよね」
そこで若手は首を傾げた。
「なのに、あの人が『やめろ』って言ったら、全員止まるんです」
冬馬が眼鏡を押し上げた。
「良い観察です」
「それに代表まで」
若手は声を小さくした。
「九条代表って、誰かに意見されても簡単には引かないでしょう?」
「あの人は自分で決めますからね」
「でも副代表が言うと、ちゃんと聞く」
少し間があった。
「だから……何なんだろうって」
アカネが椅子の背にもたれた。
「説明すると長いですよ」
「聞きたいです」
「久世さん」
「私は説明役ではありません」
「一番資料持ってるでしょう」
「持っていますが」
冬馬は数秒考えた。
そして端末を操作した。
大型モニターに、一枚の古い写真が映った。
今より二十年以上若い榊原宗一郎。
迷彩服。
短い黒髪。
泥で汚れた顔。
右眉の上には、まだ傷がない。
彼は笑っていなかった。
その代わり、十数名の兵士たちの一番後ろに立っていた。
「これ……副代表?」
「二十代後半」
冬馬が言った。
「当時は部隊勤務です」
若手が写真を見る。
「意外ですね。もっと……」
「何です?」
「最初から偉い人かと」
「そんな人間はいません」
背後から声がした。
三人が振り返る。
入り口に榊原宗一郎が立っていた。
「げっ」
若手の顔が固まる。
榊原は紙コップを片手に、いつもの穏やかな顔で入ってきた。
「続けてください」
「副代表、これはその」
「私の悪口大会でしょう」
「違います!」
「残念です」
わずかに口角が上がった。
榊原は空いている椅子に腰を下ろす。
五十八歳。
百八十三センチの長身。
年齢を感じさせない厚い肩。
短く刈った髪には白いものが増え、こめかみはほとんど銀色だった。
右眉の上には古い傷。
左肩にも、服の下に古い銃創がある。
だが彼を最も特徴づけるものは、傷でも体格でもなかった。
目だった。
人の話を最後まで聞く目。
そして――
言い逃れを絶対に許さない目。
「私が何者か、でしたか」
若手が観念して頷いた。
「はい」
「ただの年寄りですよ」
アカネが即答する。
「その回答は禁止です」
「では久世君、続きを」
冬馬は淡々と次の資料を開いた。
「榊原副代表の経歴には、公開できない部分がかなりあります」
「その言い方すると余計怖いですよ」
「実際そうなので」
画面が切り替わる。
詳細の伏せられた報告書。
日時。
部隊番号。
そして、
《車列襲撃事案》
という文字。
若手が黙った。
冬馬が説明する。
「任務中、榊原副代表の所属部隊が襲撃を受けました」
榊原は何も言わない。
冬馬は続けた。
「複数名負傷。一名死亡」
室内の空気が少し変わった。
「このとき、撤退命令が出ています」
若手が画面を見る。
「撤退……」
「しかし負傷者の一人が取り残された」
「じゃあ……」
「榊原副代表は戻りました」
若手が榊原を見る。
「命令違反?」
「厳密には」
冬馬は答える。
「かなり黒に近いグレーです」
「言い方を選びなさい」
榊原が苦笑した。
「でも、どうして」
若手が尋ねる。
榊原は紙コップのコーヒーを見つめた。
「若かったからです」
「それだけ?」
「それだけですよ」
少し沈黙したあと、彼は続けた。
「当時の私は、今ほど物事を考えていませんでした」
炎。
煙。
撃ち込まれる銃弾。
動かなくなった車両。
無線から響く撤退命令。
そして遠くから聞こえる声。
――まだ一人いる。
あのときのことを、榊原は今でも夢に見る。
「部隊を動かすということを、私は戦術だと思っていました」
彼は言う。
「正しい位置に兵を置き、正しい時間に動かし、敵より早く決断する。それが指揮官だと思っていた」
榊原は若手を見る。
「違いました」
「何がです?」
「命令というのは」
榊原はゆっくり言った。
「人間に何かをさせることです」
誰も口を挟まなかった。
「走れと言えば、その人間は走る。撃てと言えば撃つ。残れと言えば残る」
紙コップが机に置かれる。
「ならば命令を出した人間は、その結果を引き受けなければならない」
若手が呟いた。
「結果……」
「成功だけではありません」
榊原の声は穏やかだった。
「失敗もです」
その襲撃で、榊原は仲間を一人失った。
彼が出した配置命令だった。
戦術上は間違っていなかった。
上官もそう言った。
報告書にもそう書かれた。
『不可抗力』
『敵情判断困難』
『指揮官に過失なし』
それでも。
葬儀で、亡くなった隊員の母親を前にしたとき。
榊原は何も言えなかった。
母親は責めなかった。
ただ一言。
「息子は、怖がっていませんでしたか」
そう聞いた。
榊原は答えられなかった。
知らなかったからだ。
最後の瞬間、自分の部下が何を思ったのか。
指揮官なのに。
知らなかった。
その日から、榊原宗一郎は変わった。
部下の名前を覚えた。
家族構成を覚えた。
得意なこと。
苦手なこと。
無理をしているときの癖。
恐怖を隠すときの表情。
そして――
自分の命令で誰かが死んだなら、その事実から逃げないと決めた。
若手が黙って写真を見ていた。
「その後、副代表は政府系危機管理部門へ移っています」
冬馬が資料を切り替える。
今度はスーツ姿の榊原だった。
四十代。
会議室。
険しい顔をした役人たちの中で、一人だけ立っている。
「ここでも有名だったそうです」
アカネが言う。
「何で?」
「嫌われ者として」
榊原が笑った。
「否定はしません」
「何したんですか」
「会議で本当のことを言っただけです」
冬馬が補足する。
「ある災害対応で、現場判断の遅れが問題になったことがあります」
「はい」
「上層部は、現場責任者の判断ミスとして処理しようとした」
榊原の表情から笑みが消えた。
「しかし実際には、上層部の承認待ちで現場が動けなかった」
若手が察する。
「ああ……」
「榊原副代表は会議で証言しました」
冬馬が文書を読む。
「『現場に責任を押しつけるなら、まず私を処分してください』」
若手が振り返る。
榊原は肩をすくめた。
「言いましたかね」
「議事録があります」
「嫌な時代ですね。何でも残る」
「さらに続けて」
冬馬は読む。
「『判断権限を与えず、結果だけ現場に背負わせる組織に危機管理を名乗る資格はありません』」
「……強いな」
「強くありません」
榊原は言った。
「腹が立っていただけです」
その件で昇進は遅れた。
周囲からは、
融通が利かない。
組織人として未熟。
正論だけでは組織は回らない。
散々言われた。
それでも榊原は考えを変えなかった。
責任を下へ投げる人間。
失敗を部下に押しつける人間。
民間人の損害を数字でしか見ない人間。
仲間を消耗品と呼ぶ人間。
そういうものだけは、歳を取るほど嫌いになった。
若手が尋ねた。
「じゃあ、なんでヤタガラスに?」
榊原は少しだけ黙った。
アカネが微笑む。
「そこが一番面白いんですよね」
画面に一枚の写真が表示された。
若い九条ホオズキ。
現在より少し尖った目。
黒い戦闘服。
腕を組み、不機嫌そうにこちらを睨んでいる。
その隣に榊原。
「……代表、若い」
「本人に言わないほうがいいですよ」
「いつ頃です?」
「ヤタガラス草創期です」
当時。
榊原はホオズキを信用していなかった。
若い。
経験が足りない。
理想が強い。
組織を率いるには危うい。
正直に言えば、
数年で潰れると思っていた。
最初の会談でもそうだった。
「あなたの組織には問題が多い」
榊原は遠慮なく言った。
「財務基盤が弱い。指揮系統も未成熟。人員配置にも無駄がある」
ホオズキは眉ひとつ動かさなかった。
「それで?」
「このままなら死人が出ます」
そこで初めて。
彼女の目が変わった。
怒ったのではない。
真剣になった。
「どこですか」
榊原は少し驚いた。
「何がです」
「死人が出る可能性がある箇所です」
彼女は資料を引き寄せた。
「全部言ってください」
榊原は指摘した。
ホオズキは反論した。
二人は三時間以上言い争った。
最後には机の上が資料だらけになった。
そして翌日。
榊原が本部を訪れると。
彼が指摘した問題点の半分が、すでに修正されていた。
「……早いですね」
そう言うと。
ホオズキは徹夜明けの顔で答えた。
「隊員が死ぬ可能性があるんでしょう」
それだけだった。
榊原はそのとき初めて、
この若い代表を少しだけ信用した。
決定的だったのは、数か月後だった。
危険地域での護衛任務。
撤退条件に達した。
契約上は離脱可能。
だが一名が戻っていなかった。
顧客企業は撤退を要求した。
損害が増える。
契約外だ。
切り捨てろ。
ホオズキは無線を取った。
そして言った。
「戻ります」
榊原が確認した。
「契約上、撤退できます」
「知っています」
「利益が飛びます」
「知っています」
「最悪の場合、部隊そのものを失います」
「それも承知しています」
「ならば何故」
ホオズキは答えた。
「ヤタガラスに、置き去りという言葉はありません」
榊原は。
二十年以上前の炎を思い出した。
聞こえていた声。
取り残された仲間。
撤退命令。
そして、
戻った自分。
しばらく沈黙したあと。
榊原は無線を取った。
「全隊、反転」
その日から。
彼は九条ホオズキを、
一度も「お嬢さん」と呼ばなかった。
一度も「若い代表」と呼ばなかった。
必ず、
「九条代表」
と呼んだ。
それは礼儀ではない。
認めたからだ。
年齢ではなく。
経歴でもなく。
決断の結果を自分で背負う人間だと。
現在。
作戦指揮室。
若手はしばらく黙っていた。
「……なるほど」
やがて言う。
「だから代表も、副代表の話を聞くんですね」
榊原は首を振った。
「違います」
「え?」
「九条代表は、私だから聞くのではありません」
そのとき。
廊下から足音がした。
「まだ残っていたの?」
九条ホオズキが入ってきた。
書類を片手にしている。
若手が反射的に背筋を伸ばす。
「お疲れさまです!」
「……何してるの?」
アカネが笑った。
「榊原副代表の昔話です」
ホオズキが榊原を見る。
「また武勇伝?」
「私は話していません」
「久世」
「事実のみです」
「あなたがやると情報量が多いのよ」
ホオズキはため息をついた。
若手が思い切って尋ねる。
「あの、代表」
「何?」
「どうして榊原副代表を、副代表にしたんですか?」
榊原が少し眉を上げた。
ホオズキは数秒考えた。
そして答えた。
「私に反対するから」
若手がぽかんとする。
「……はい?」
「私が間違っていれば、この人は止める」
ホオズキは淡々と言った。
「私が怒っていても。焦っていても。全員が賛成していても」
榊原は何も言わない。
「組織のトップになるとね」
ホオズキが若手を見る。
「だんだん、自分に『違う』と言う人間が減っていくの」
静かな声だった。
「それは、とても危険なことよ」
若手は聞き入っていた。
「榊原は、私がどれだけ不機嫌になっても言う」
ホオズキが少し笑った。
「『九条代表、それは間違っています』ってね」
「実際、間違っていることがありますので」
「一言余計」
「副代表ですから」
二人は目を合わせた。
長い年月を共にした者だけに分かる。
奇妙な信頼がそこにはあった。
若手が思わず笑う。
「じゃあ副代表って、代表を止める役なんですね」
榊原は首を振った。
「それも違います」
「まだ違うんですか?」
「副代表の仕事は」
榊原宗一郎は立ち上がった。
「代表を止めることではありません」
ジャケットを羽織る。
「代表が決断できるようにすることです」
若手が黙る。
「迷う材料があるなら出す」
「……はい」
「危険があるなら伝える」
「はい」
「間違っていると思えば反対する」
「はい」
「それでも代表が決めたなら」
榊原はホオズキを見る。
ホオズキも彼を見る。
「最後は一緒に責任を負う」
それが。
榊原宗一郎という男だった。
先頭に立ちたがる男ではない。
英雄になりたいわけでもない。
褒められたいわけでもない。
ただ。
誰かが決断しなければならない場所に立ち。
誰かが責任を取らなければならない瞬間に残る。
そんな男だった。
若手は少し考えてから尋ねた。
「副代表」
「何です」
「今までで、一番後悔してる命令って何ですか?」
アカネが若手を見る。
冬馬の指が止まる。
ホオズキも何も言わなかった。
榊原はしばらく沈黙した。
やがて。
穏やかに答えた。
「覚えていない命令はありません」
若手は息を止めた。
榊原は時計を見る。
「さて」
そして、いつもの調子に戻る。
「二十一時四十七分です」
全員を見る。
「帰りなさい」
ホオズキが眉を寄せる。
「私はまだ仕事が」
「九条代表」
声は穏やかだった。
「帰りなさい」
「……まだ書類が三件」
「明日でも会社は潰れません」
「でも」
「睡眠不足の代表が誤った判断をするほうが高くつきます」
アカネが吹き出す。
冬馬が端末を閉じる。
若手も笑った。
ホオズキだけが不満そうな顔をしている。
「副代表命令?」
「助言です」
「拒否したら?」
榊原は少し笑った。
「黒崎警視に連絡します」
「卑怯者」
「危機管理です」
数分後。
作戦指揮室の照明が消えた。
最後に部屋を出た榊原が、誰もいない机を振り返る。
モニターにはまだ。
若い頃の集合写真が残っていた。
そこにはもういない者もいる。
名前も。
声も。
最後に交わした言葉も。
榊原は覚えている。
忘れるつもりはなかった。
それが。
生き残った者の責任だと。
彼はモニターの電源を落とした。
暗闇の中で、小さく呟く。
「……今日も全員帰ったな」
そして。
副代表は静かに扉を閉めた。




