名前を捨てなかった女
『名前を捨てなかった女』
――九条ホオズキという人間
九条ホオズキには、いくつかの妙な癖がある。
報告は結論から言わせる。
会議は三十分を超えると露骨に機嫌が悪くなる。
「検討します」という言葉を嫌う。
許可を求める部下には、しばしばこう言う。
「あなたは現場にいるのでしょう。なら、あなたが決めなさい」
そして何より。
救援要請に対する返答だけは、異様なほど早かった。
ヤタガラス本部。
夜。
作戦室の大型モニターには、国外で実施中の警護任務の状況が表示されていた。
『こちら第三班。予定経路上で車両事故を確認』
無線から隊員の声が響く。
『民間車両一台。炎上の危険あり。内部に二名。任務対象ではありません』
オペレーターがホオズキを見る。
「代表。契約対象外です。予定時刻にも遅れます」
「第三班」
ホオズキは即答した。
「救助して」
『了解』
その間。
三秒もなかった。
オペレーターが少し驚いた顔をする。
「確認しなくていいんですか?」
「何を?」
「依頼主への連絡とか……追加費用とか……」
ホオズキはモニターを見たまま答えた。
「人間が燃えるまで待たせるの?」
「いえ」
「なら終わり」
十分後。
民間人二名救出。
第三班、任務復帰。
それだけの出来事だった。
翌日。
経理担当の一乗寺アカネが追加費用の処理で頭を抱えることになるのだが――それは別の話だ。
ただ。
古参の社員たちは知っている。
九条ホオズキが救援判断だけは絶対に遅らせない理由を。
それは彼女が優しいからではない。
少なくとも本人はそう言う。
慈善家でもない。
英雄でもない。
彼女はただ。
一度だけ。
待ったことがある。
命令を。
許可を。
上の判断を。
そして。
その数十分で。
何十人もの人間を失った。
---
九条ホオズキは、華族・九条家の長女として生まれた。
古い家だった。
広い屋敷。
長い廊下。
手入れされた庭。
磨き上げられた家具。
代々受け継がれた書画。
幼い頃のホオズキは、それらが永遠に存在するものだと思っていた。
朝になれば使用人が障子を開け。
母が庭を眺めながら茶を飲み。
父は新聞を読み。
自分は家庭教師に叱られる。
そんな毎日が。
ずっと続くのだと。
「ホオズキ」
ある日。
父が娘を呼んだ。
「はい、お父様」
「九条という名前をどう思う?」
幼い彼女は首を傾げた。
「名字です」
父は笑った。
「そうだな」
「違うのですか?」
「いや。それでいい」
父は庭を見る。
「名前に価値があるのではない」
「では、何に?」
「その名前を持つ者が、どう生きるかだ」
幼いホオズキには、まだ意味が分からなかった。
だが。
後になって。
その言葉だけは何度も思い出すことになる。
---
先の大戦が始まった。
最初は。
屋敷の外の出来事だった。
新聞に載る戦況。
街を走る軍用車。
配給。
灯火管制。
遠くで鳴る警報。
やがて。
それは近づいてきた。
ある夜。
九条家の屋敷は炎に包まれた。
爆撃だった。
窓が割れる。
天井が崩れる。
使用人たちの悲鳴。
父の怒鳴り声。
母の手。
「走りなさい!」
ホオズキは走った。
何度転んだか分からない。
振り返ったとき。
屋敷の半分が燃えていた。
その後の記憶は断片的だった。
避難所。
白い布。
名前を確認する兵士。
負傷者。
泣く子供。
そして。
家族の名前が書かれた紙。
父。
母。
親族。
使用人。
失われた人々。
戦争が終わったとき。
九条ホオズキは。
屋敷を失っていた。
家族を失っていた。
財産を失っていた。
華族という身分も。
かつて彼女を守っていたものは。
何一つ残っていなかった。
ある親戚筋の男が言った。
「九条の名など、もう何の役にも立たん」
ホオズキは黙って聞いていた。
「名前を変えた方が生きやすいぞ」
少女は聞いた。
「なぜですか」
「古い時代の名前だからだ」
「だから?」
「もう価値がない」
その瞬間。
父の言葉を思い出した。
――名前に価値があるのではない。
――その名前を持つ者が、どう生きるかだ。
ホオズキは男を真っ直ぐ見た。
「では」
静かな声だった。
「これから私が価値を作ります」
男は何も言えなかった。
「私は九条ホオズキです」
その日。
少女は。
家を失った。
だが。
名前だけは。
捨てなかった。
---
戦後の生活は。
華族の娘に容赦しなかった。
食べ物がない。
金がない。
住む場所も安定しない。
かつて使用人に囲まれて暮らした少女が。
市場で値引きされた食料を探し。
安宿を転々とし。
服を繕って着る。
ある冬。
三日続けてまともな食事を取れなかった夜。
ホオズキは軍の募集広告を見た。
給与。
宿舎。
食事支給。
そこだけを見た。
翌日。
入隊志願書を提出した。
面接官に聞かれた。
「志望動機は?」
「生活のためです」
「……もう少し何かないのか」
「ありません」
「祖国への奉仕とか」
「食事は出ますか」
面接官は眉をひそめた。
「出る」
「宿舎は」
「ある」
「給与は」
「支給される」
「なら志望します」
それが。
九条ホオズキの軍歴の始まりだった。
---
入隊して。
すぐに分かった。
彼女は。
異常なほど軍人に向いていた。
体力。
射撃。
格闘。
地図判読。
状況判断。
記憶力。
どれも高水準。
何より。
混乱した状況ほど冷静だった。
教官が問う。
「味方が負傷。敵接近。撤退路二つ。どうする」
周囲の訓練兵が考え込む中。
ホオズキは即答した。
「負傷者を二名で搬送。残りが交互援護。東側経路で離脱」
「西の方が近い」
「敵からも近いです」
「命令が西なら?」
「従います」
「間違っていると思っても?」
一瞬。
ホオズキは黙った。
「命令なら」
その答えを。
後になって。
彼女は何度も後悔することになる。
---
数年後。
ホオズキは特殊部隊へ選抜された。
厳しい訓練だった。
脱落者は多かった。
彼女は残った。
そして。
若くして小隊長を任された。
二十代前半。
自分より年上の隊員を率いることも珍しくない。
最初は反発もあった。
「お嬢さんが小隊長か」
ある古参隊員が笑った。
ホオズキは答えた。
「不満なら訓練で私に勝ってください」
翌日。
射撃。
格闘。
行軍。
全部負けた男が言った。
「……隊長と呼びます」
「最初からそうして」
そんな女だった。
冷静。
合理的。
厳しい。
だが。
部下には妙に好かれた。
理由は簡単だった。
無茶な命令を出さない。
危険な仕事を部下だけにやらせない。
失敗の責任は自分で取る。
手柄は部下に渡す。
そして。
絶対に。
置いていかない。
「隊長」
国外派遣中。
若い隊員が聞いたことがある。
「もし俺が敵地で動けなくなったら、どうします?」
ホオズキは装備を点検しながら答えた。
「回収する」
「無理だったら?」
「無理かどうかは私が決める」
「作戦中止になったら?」
「命令に従う」
そう言って。
ほんの少しだけ。
続けた。
「……多分」
隊員は笑った。
「そこは多分なんですね」
ホオズキも。
少しだけ笑った。
---
その国外任務が。
彼女の人生を変えた。
政情不安が続く小国。
武装勢力が都市部へ侵入。
軍施設への攻撃。
暴動。
停電。
通信障害。
ホオズキの小隊は。
現地の友好勢力支援任務に就いていた。
午後。
偵察情報が入った。
市街地の一角に。
民間人が取り残されている。
学校を臨時避難所にしていた。
子供。
老人。
負傷者。
約五十名。
武装勢力が接近中。
ホオズキは地図を見る。
距離。
道路状況。
敵勢力。
自隊戦力。
計算する。
「間に合う」
副官が言った。
「救出しますか」
「当然」
ホオズキは通信兵を見る。
「司令部へ。民間人救出の許可を」
通信兵が送信する。
返答。
『待機せよ』
ホオズキは時計を見る。
十四時十二分。
五分。
十分。
返答なし。
「再度送れ」
『現在検討中』
「何を検討しているの」
誰も答えられない。
救出地点まで。
車両で十五分。
武装勢力到達予測。
二十五分。
まだ。
間に合う。
十四時二十二分。
『上級司令部の承認待ち』
ホオズキの眉が動く。
「現地司令官は?」
「判断権限なしとのことです」
「救出に判断権限がいるの?」
副官が黙る。
十四時二十八分。
ドローン映像。
学校の周囲に。
住民が集まっている。
子供の姿。
ホオズキは拳を握る。
「もう出る」
副官が止める。
「隊長」
「何」
「命令違反になります」
「知ってる」
「軍法会議もあり得ます」
「知ってる」
その瞬間。
無線。
『九条小隊長。現位置を維持せよ』
上官からだった。
『政治判断が必要だ』
「民間人がいます」
『把握している』
「敵は接近しています」
『把握している』
「なら救出を」
沈黙。
『待て』
ホオズキの目が冷たくなる。
「いつまで」
『決定が出るまでだ』
「決定が出る頃には」
声が低くなる。
「救出する人間がいなくなります」
『九条』
「はい」
『これは命令だ』
長い沈黙。
ホオズキは。
答えた。
「……了解」
その二文字を。
彼女は。
生涯忘れなかった。
---
十四時四十一分。
爆発。
ドローン映像の中で。
学校の一角から煙が上がった。
武装勢力が到達した。
「隊長」
通信兵が震える声で呼ぶ。
銃声。
逃げる民間人。
ホオズキは画面を見る。
何もできない。
目の前に。
装備がある。
兵士がいる。
車両がある。
救える力がある。
なのに。
命令がない。
十五時零三分。
ようやく無線が入る。
『救出作戦を承認する』
誰も動かなかった。
ホオズキは聞いた。
「今?」
返事はない。
「今から?」
副官が目を伏せる。
ホオズキは。
静かに命令した。
「出る」
現場に着いたとき。
戦闘は終わっていた。
建物は焼け。
廊下には。
救出を待っていた人々が倒れていた。
隊員たちが生存者を探す。
「こちら一名!」
「担架!」
「こっちは駄目です!」
ホオズキは。
崩れた教室に入った。
机の下。
小さな女の子がいた。
動かない。
その手には。
古びた人形。
ホオズキはしゃがむ。
触れる。
冷たい。
あと。
三十分。
いや。
二十分。
自分たちが早く動いていれば。
助けられた。
ホオズキは。
少女の人形を拾った。
何も言わなかった。
その夜。
救出できた民間人。
七名。
死亡確認。
三十六名。
行方不明。
九名。
作戦報告書には。
そう記録された。
---
帰国後。
調査委員会が開かれた。
長い机。
何人もの高官。
分厚い資料。
ホオズキは。
制服姿で座っていた。
「現場判断に問題はなかったと考えるか」
「ありません」
「救出許可を求めた時点では、敵勢力との交戦可能性がありました」
「戦場ですから」
「政治的影響も考慮する必要がある」
「子供が殺されるより重要ですか」
室内の空気が変わった。
「九条一尉」
「はい」
「発言に注意しなさい」
「質問に答えてください」
誰も答えない。
別の高官が資料をめくる。
「しかし最終的には救出命令が出ている」
ホオズキは。
その男を見る。
「四十一分後に」
「必要な調整時間だった」
「三十六人が死にました」
「結果論だ」
その瞬間。
ホオズキの中で。
何かが切れた。
怒鳴りはしなかった。
机も叩かなかった。
ただ。
静かに聞いた。
「では」
「……何だ」
「次も同じことをしますか」
沈黙。
「同じ状況で」
ホオズキは続ける。
「現場が救出可能と判断し」
「民間人が助けを待っていて」
「あと二十分で敵が到達すると分かっていて」
「それでも」
「四十分会議しますか」
誰も答えない。
それが。
答えだった。
---
数週間後。
九条ホオズキは。
除隊届を提出した。
上官が驚いた。
「本気か」
「はい」
「特殊部隊での評価は高い。将来もある」
「そうでしょうね」
「ならなぜ辞める」
ホオズキは少し考えた。
「大きすぎるんです」
「何が」
「組織が」
上官は眉をひそめる。
「大組織には大組織の理由がある」
「知っています」
「政治も外交もある」
「知っています」
「現場だけで決められないこともある」
「それも知っています」
「なら――」
「知っていて」
ホオズキは遮った。
「嫌になりました」
上官が黙る。
「正しい判断をする人間が何十人いても」
「決裁印が一つ遅れれば」
「人は死ぬ」
彼女は制服の胸章を見る。
「私は」
静かに言った。
「もう待ちたくありません」
---
除隊後。
九条ホオズキは。
小さな事務所を借りた。
中古の机。
中古の椅子。
安い端末。
壁の塗装は剥げていた。
資金も少ない。
社員も少ない。
看板すらなかった。
最初に来た男が聞いた。
「会社名は?」
ホオズキは。
紙に三文字を書いた。
八咫烏。
ヤタガラス。
「三本足の烏?」
「ええ」
「なぜ?」
「導く鳥だから」
「どこへ?」
ホオズキは少し考えた。
「帰る場所へ」
男は笑った。
「PMCの名前にしては縁起がいい」
「死なれたら困るもの」
「金がかかるから?」
「それもある」
ホオズキは契約書を机に置く。
「でも」
一瞬。
あの学校を思い出す。
机の下。
古びた人形。
動かなかった少女。
「救える人間を」
ホオズキは言った。
「会議で殺す会社にはしない」
男は。
笑うのをやめた。
「それが社是?」
「いいえ」
「じゃあ何です?」
ホオズキはペンを差し出す。
「私の都合よ」
男は契約書に署名した。
それが。
PMCヤタガラス。
最初の契約だった。
---
現在。
ヤタガラス本部。
二十六歳になった九条ホオズキは。
自分の会社の廊下を歩いている。
かつての華族令嬢とは思えない。
黒い戦闘服。
使い込まれたブーツ。
手にはタブレット。
通信機から次々と報告が入る。
『第一班、帰投』
「了解」
『第二班、十分遅延』
「理由は?」
『負傷した民間人の搬送です』
「なら問題なし」
『第四班、判断を仰ぎたい案件があります』
ホオズキの足が止まる。
「現場情報は揃ってる?」
『はい』
「なら」
少しだけ。
声が厳しくなる。
「あなたが決めなさい」
『……自分が?』
「そう」
「あなたはヤタガラスの現場指揮官でしょう」
短い沈黙。
『了解』
通信が切れる。
背後から。
榊原宗一郎が歩いてきた。
「相変わらず、現場に任せますね」
ホオズキは振り返らない。
「私より現場の人間の方が情報を持ってるもの」
「失敗したら?」
「私が責任を取る」
「社員が判断を誤った場合でも?」
「その判断権を与えたのは私よ」
榊原は少し笑った。
「なるほど」
二人は歩く。
本部の壁には。
黒い三本足の烏。
その下。
小さな金属板に。
一つの言葉が刻まれている。
《決断を恐れるな》
榊原が聞く。
「九条代表」
「何」
「後悔していますか」
ホオズキが止まる。
「何を?」
「軍を辞めたことです」
しばらく。
答えなかった。
「いいえ」
「では」
榊原は穏やかに聞く。
「あの任務は?」
沈黙。
長かった。
ホオズキは。
窓の外を見る。
夕暮れ。
本部の車両が帰ってくる。
隊員たちが降りる。
誰かが笑っている。
誰かが仲間の肩を叩く。
全員。
帰っている。
「後悔してる」
ホオズキは言った。
珍しく。
言い訳しなかった。
「今でも」
榊原は何も言わない。
「あの時」
彼女は続ける。
「命令を無視していればって考える」
「結果は分かりません」
「分かってる」
「小隊員を失った可能性もある」
「分かってる」
「あなた自身が死んだ可能性も」
「それも分かってる」
ホオズキは。
小さく息を吐いた。
「でも」
窓の外。
帰還した隊員たちを見る。
「だから今は」
「待たない」
それだけだった。
---
夜。
執務室。
誰もいなくなったあと。
ホオズキは。
机の引き出しを開けた。
小さな箱。
中には。
古びた人形が入っている。
国外任務。
あの学校。
亡くなった少女が持っていたもの。
本来なら。
処分されるはずだった。
だが。
ホオズキは。
持ち帰った。
誰にも見せない。
誰にも話さない。
ただ。
決断に迷った時だけ。
見る。
あの日。
自分は待った。
上の決定を。
正しい手順を。
許可を。
そして。
間に合わなかった。
人形を箱に戻す。
引き出しを閉める。
机の上。
社員名簿。
そこには。
榊原。
御影。
篠宮。
久世。
一乗寺。
神代。
そして。
多くの社員たちの名前。
九条ホオズキは。
その一人一人を見る。
自分には。
もう家族はいない。
屋敷もない。
財産もない。
かつての身分もない。
残ったのは。
名前だけ。
九条。
父が言っていた。
名前そのものには。
価値などない。
持つ者が。
どう生きるか。
ホオズキは。
端末を閉じる。
立ち上がる。
部屋の照明を消す。
そして。
自分で作った居場所の廊下を歩く。
二十六歳。
九条家長女。
元軍特殊部隊小隊長。
PMCヤタガラス代表。
多くを失い。
一度。
救えるはずの人々を救えず。
だから。
誰よりも。
決断することを恐れない女。
彼女は。
九条という名前を。
捨てなかった。
そして今。
その名前に。
自分自身で。
新しい意味を与え続けている。
――九条ホオズキ。
それが。
彼女の名前だった。




