ヤタガラス懇親会
九月の空は高かった。
多摩川の河川敷。
川面を渡ってきた風が、まだ少しだけ残る夏の熱をさらっていく。
その広い河原の一角に、どう考えてもバーベキューには似つかわしくない集団がいた。
黒いSUVが三台。
大型クーラーボックス。
折り畳み式テーブル。
タープ。
そして、軍隊の野営地かと思うほど几帳面に並べられた調理器具。
「……代表」
榊原宗一郎が腕時計を確認した。
「全員揃いました」
「よし」
九条ホオズキは頷いた。
黒いTシャツにカーゴパンツ。
いつもの戦闘服ではない。
髪も高い位置で簡単に束ねている。
しかし。
彼女の手には一枚の紙があった。
上には大きく、
《ヤタガラス懇親会・多摩川河川敷BBQ実施要領》
と書いてある。
榊原がそれを見た。
「……代表」
「なんだ」
「これは懇親会です」
「分かっている」
「作戦ではありません」
「分かっている」
紙には続けて、
一、目的
隊員相互の親睦を図る。
二、実施場所
多摩川河川敷。
三、実施時間
一一〇〇から一六〇〇。
四、任務分担
火力担当――榊原
食材担当――一乗寺
調理担当――御影
設営担当――神代、篠宮
通信・音響担当――久世
警備――全員
榊原は最後の項目を指差した。
「警備は必要でしょうか」
「必要だ」
即答だった。
「肉を奪うカラスがいるかもしれない」
「……なるほど」
榊原は深く考えず頷いた。
そこへ神代蓮司がテーブルを抱えながらやって来る。
「いやいやいや、代表」
「なんだ」
「河原でカラス相手に警戒態勢敷くPMCって何なんすか」
その後ろから篠宮レイナが顔を出した。
「レンジ」
「ん?」
「これ見て」
レイナが指差す。
タープのポールの一本に、小さな札が下がっている。
《本部》
「……野外指揮所じゃねえか」
「ホオズキさんが付けた」
「代表、楽しんでません?」
ホオズキは咳払いした。
「設営を続けろ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
その横で御影サヤが炭の入ったコンロを見ていた。
「榊原さん」
「なんだ」
「火、お願いします」
「承知した」
榊原が袖をまくる。
着火剤。
炭の配置。
空気の通り道。
すべて無駄がない。
レンジが横から覗き込んだ。
「さすが元軍人。火起こしまで戦術的っすね」
榊原は黙々と炭を組んだ。
「火は火だ」
「いや、それ煙の流れまで読んでません?」
「風向きは重要だ」
「BBQですよ?」
「だからだ」
五分後。
炭は見事に燃え上がった。
「おおー」
レイナが拍手する。
「榊原さん、キャンプ場で働けますよ」
「転職する予定はない」
少し離れたテーブル。
一乗寺アカネはスーパーのレシートを眺めていた。
「牛肉八千四百円」
電卓を叩く。
「豚肉三千二百円。鶏肉千九百八十円。野菜二千六百円。飲料四千……」
久世冬馬が折り畳み椅子に座りながら言った。
「楽しんでる?」
「楽しんでます」
アカネは即答した。
「どこが」
「予算内に収まっています」
「そう」
「しかも食材廃棄率を五%以下にできる見込みです」
久世は缶コーヒーを飲んだ。
「……君の場合、それが娯楽なんだね」
「久世さんこそ」
「何」
「せっかくBBQなのにパソコン持ってきたんですか?」
「仕事じゃない」
久世の膝の上には小さなノートPCがある。
画面には音楽プレイヤー。
「音響担当」
スピーカーからゆったりしたジャズが流れていた。
アカネは少しだけ感心した。
「意外です」
「何が」
「もっと電子音みたいなの聴く人かと」
「偏見だね」
「普段サーバールームにいますから」
「君だって普段数字しか見てない」
「失礼ですね」
「事実だよ」
その頃。
サヤの前では肉が焼け始めていた。
じゅうううう。
脂が炭へ落ちる。
香ばしい煙が立つ。
「サヤ」
ホオズキがやって来た。
「はい」
「状況は」
「牛カルビ、第一陣。あと一分半です」
「了解」
レンジが遠くから叫ぶ。
「だから報告が作戦なんだって!」
レイナがその横で笑っている。
やがて肉が焼けた。
サヤが皿へ移す。
「どうぞ」
その瞬間。
一斉に人が動いた。
レンジ。
レイナ。
アカネ。
久世。
ホオズキ。
「待て」
低い声。
全員止まる。
榊原だった。
榊原はトングを持っている。
「野菜も食べろ」
「……」
沈黙。
レンジが言った。
「榊原さん、お父さんみたいっすね」
「神代」
「はい」
「ピーマン」
「俺ピーマン嫌いなんすよ」
「食え」
「三十五歳にする指導じゃないでしょ」
レイナが笑いながら皿にピーマンを載せた。
「はいレンジ」
「お前絶対楽しんでるだろ」
そこへ新しい車が止まった。
黒崎剛士だった。
大柄な身体に、今日は珍しくポロシャツ姿。
片手に大きな袋を持っている。
「遅くなった」
ホオズキの表情が少し変わった。
「黒崎」
「差し入れだ」
袋の中から大量の海鮮が出てきた。
エビ。
ホタテ。
イカ。
レイナが目を輝かせる。
「黒崎さん最高!」
「安かったから買ってきただけだ」
レンジがホオズキを見る。
「代表、今ちょっと嬉しそうでしたよね」
「神代」
「はい」
「薪割りを命ずる」
「薪ないですよ」
「探せ」
「横暴!」
笑い声が広がった。
さらに十分後。
もう一人の男が現れた。
真壁仁。
サングラス。
派手なアロハシャツ。
片手に酒。
「よう」
黒崎の眉が動く。
「……なぜお前がいる」
仁も黒崎を見る。
「それはこっちの台詞だ、警察屋」
「俺は招待された」
「俺もだ」
二人がホオズキを見る。
ホオズキは肉を食べながら言った。
「今日は懇親会だ」
「だから?」
「喧嘩禁止」
仁と黒崎が同時に言う。
「別にしねえよ」
「するつもりはない」
一秒後。
仁が黒崎の皿を見る。
「その肉、焼きすぎだろ」
「これくらいがいい」
「肉が泣いてるぞ」
「お前に肉の気持ちが分かるのか」
「お前よりはな」
「何だと」
サヤが無言で二人の間にトングを差し込んだ。
「喧嘩したら」
サヤは静かに言った。
「肉、なしです」
二人とも黙った。
レンジが小声で言う。
「サヤ最強説」
レイナが頷く。
「あると思う」
時間が経つにつれ、空気は緩んでいった。
誰かが肉を焼き。
誰かが川を眺め。
誰かが笑う。
レイナとレンジは水辺まで行って石を投げ始めた。
「見ろ!」
レンジが石を投げる。
水面を、
一回。
二回。
三回。
四回。
跳ねた。
「四回!」
「へえ」
レイナが石を拾う。
軽く投げる。
一回。
二回。
三回。
四回。
五回。
六回。
七回。
レンジが固まった。
「……お前、偵察員の能力そういうところで使うなよ」
「負け惜しみ?」
「もう一回」
「いいよ」
二人は延々と石を投げ始めた。
少し離れたところでは。
黒崎がホオズキの皿へ焼いたホタテを置いていた。
「食え」
「自分で取れる」
「知ってる」
「ならなぜ載せる」
「食わせたいからだ」
ホオズキが一瞬黙る。
「……そうか」
「そうだ」
ホオズキはホタテを食べた。
「うまい」
黒崎が少し笑う。
その様子を仁が遠くから見ていた。
「ケッ」
アカネが隣で聞いた。
「嫉妬ですか?」
「違う」
「では羨ましい?」
「もっと違う」
「会計上はどちらも似たようなものですね」
「どんな会計だ」
午後三時。
食材もだいぶ減ってきた。
久世がいつの間にかPCを閉じ、川を見ている。
アカネは家計簿のような記録を付けるのをやめていた。
サヤはレイナと話している。
榊原は椅子に座り、紙コップのお茶を飲んでいた。
ホオズキはその光景を少し離れた場所から眺めていた。
「珍しいですね」
榊原が言った。
ホオズキが振り向く。
「何がだ」
「あなたがこういう催しを企画するとは」
「……必要だと思った」
「懇親が?」
「ああ」
少し沈黙。
川の音。
遠くで子供が笑う声。
炭がぱち、と弾ける。
ホオズキは仲間たちを見る。
「普段は」
静かに言った。
「誰かが死ぬかもしれない場所で会うことが多い」
榊原は黙って聞いている。
「作戦室」
「現場」
「車内」
「病院」
「……そんな場所ばかりだ」
レンジとレイナが笑っている。
サヤが二人を呆れた顔で見ている。
アカネが仁に何か説教している。
久世は猫の動画を見ている。
黒崎は焼きそばを作っていた。
ホオズキは言った。
「たまには」
ほんの少し笑った。
「誰も撃たれない場所で全員集まってもいいだろう」
榊原も川を見た。
「ええ」
そして珍しく。
ごく柔らかい声で言った。
「いい部隊になりましたな」
「部隊ではない」
ホオズキが言う。
「会社だ」
「そうでした」
「PMCだぞ」
「承知しております」
しばらくして。
「集合!」
ホオズキの声が響いた。
全員が振り向く。
「記念写真を撮る」
「えー」
レンジが言った。
「代表そういうの好きでしたっけ」
「記録は必要だ」
久世がぼそっと言う。
「絶対欲しいんだよ」
「久世」
「何も言ってない」
スマートフォンを三脚に固定する。
タイマー十秒。
全員が並ぶ。
榊原。
久世。
アカネ。
サヤ。
レイナ。
レンジ。
仁。
黒崎。
そして中央にホオズキ。
「仁、もっと寄れ」
「近えよ警察屋」
「お前が広がってるんだ」
「黒崎さん身体でかいんですよ!」
「レンジ、しゃがんで!」
「俺だけ!?」
「あと三秒!」
久世が言う。
「二」
レイナが笑う。
「一!」
カシャ。
写真が撮られた。
そこには。
戦闘員も。
元軍人も。
警察官も。
ハッカーも。
会計屋も。
裏社会の男もいなかった。
ただ。
河川敷で肉を食べて。
くだらない話をして。
笑っている人間たちが写っていた。
夕方。
撤収を終えたホオズキは、最後に河川敷を振り返った。
何も残っていない。
ゴミも。
炭も。
痕跡も。
榊原が言った。
「代表」
「なんだ」
「次はいつにしますか」
ホオズキは少し考えた。
「……冬だな」
レンジが叫ぶ。
「寒いっすよ!」
レイナが言う。
「鍋でいいじゃん」
アカネが即座に答える。
「鍋なら一人当たり予算千八百円程度で――」
久世が言う。
「もう計算してる」
サヤが小さく笑った。
黒崎がホオズキの隣を歩く。
仁がその後ろで煙草を探す。
榊原が全員を見守る。
夕焼けの多摩川沿いを、
ヤタガラスの面々はゆっくり歩いていった。
銃声のない一日。
命令もない。
敵もいない。
ただ肉を焼いて、食べて、笑っただけの一日。
だが。
きっと。
こういう日のために。
彼らは普段、戦っているのだ。
――ヤタガラス懇親会。
参加者九名。
負傷者ゼロ。
消費した肉、大量。
レンジとレイナの水切り勝負。
篠宮レイナ、十四勝三敗。
そして。
九条ホオズキの机には後日、
一枚の写真が飾られることになる。
多摩川の青空を背景に。
全員が笑っている写真が。
彼女は誰にも言わなかったが。
その写真は、
ヤタガラスのどんな作戦記録よりも、
少しだけ大切な一枚になった。




