幽霊より怖いもの
そのホテルには、幽霊が出るという。
山間部を抜ける旧国道から、さらに細い脇道を十五分ほど入った場所に、その建物はあった。
かつては温泉客で賑わったという七階建ての観光ホテル。
名を――白鷺ホテル。
二十年前に閉館。
その後、所有会社も倒産し、建物だけが山の中に取り残された。
割れた窓。
崩れた看板。
植物に呑み込まれた駐車場。
夜になると、最上階の窓に女の影が立つ。
誰もいないはずの廊下を、裸足で歩く音がする。
そして。
地下から、子供の泣き声が聞こえる。
そんな噂が広がり始めたのは、一か月ほど前からだった。
肝試しに入った若者が、青ざめた顔で逃げ帰った。
別の者は、廊下の奥で白い服の少女を見たと言った。
警察にも何度か通報された。
だが、建物の所有関係が複雑なうえ、通報内容はどれも曖昧だった。
そこで近隣の土地管理会社が、安全確認を兼ねた内部調査を民間に依頼した。
そして、その依頼が回ってきた先が――。
PMCだった。
◇
「……幽霊退治?」
作戦室。
神代レンジが資料をめくりながら、眉をひそめた。
「うち、いつから祈祷サービス始めたんです?」
「始めていない」
九条ホオズキが即答する。
黒髪をいつものようにポニーテールにまとめ、テーブルの上にホテルの平面図を広げていた。
隣では篠宮レイナがスマートフォンを見ている。
「口コミ、なかなかすごいですよ。『午前三時になると七階から女の歌声が聞こえる』」
「風だろ」
「『廊下を歩いていたら後ろから肩を叩かれた』」
「落下物」
「『地下から女の子の泣き声が――』」
「……待て」
ホオズキが顔を上げた。
レイナの指が止まる。
「今の、もう一度」
「地下から女の子の泣き声が聞こえた、です」
「投稿者は?」
「三日前。肝試しに入った大学生ですね」
ホオズキは数秒黙った。
その表情から、先ほどまでの半ば呆れた空気が消えていた。
「ホテルの地下構造は?」
「厨房、機械室、従業員用倉庫。あと非常用発電設備」
御影サヤが図面を指さす。
「ただし図面が古い。増改築されてる可能性があります」
「侵入者の形跡は?」
「あります」
久世冬馬がノートPCから顔を上げた。
「ここ半年ほど、周辺で不法投棄と盗難が増えています。それと――」
画面が切り替わる。
監視カメラの画像だった。
ホテルへ続く旧道。
午前二時十三分。
一台の白いバンが写っている。
「この車両、過去一か月で少なくとも八回ここを通っています」
室内が静かになる。
レンジが笑みを消した。
「……幽霊にしては、ずいぶんマメだな」
ホオズキは立ち上がった。
「装備を準備」
「幽霊相手に?」
「人間相手だ」
ホオズキは平面図を畳んだ。
「幽霊は車を運転しない」
◇
午前零時四十七分。
白鷺ホテル。
雨が降っていた。
懐中電灯を消すと、本当に何も見えない。
街灯など当然ない。
雨粒が木々を叩く音だけが、山中に響いている。
ホオズキ、サヤ、レイナ、レンジ。
四人がホテル裏手から建物へ接近した。
今回は調査任務。
服装は黒系の軽装タクティカル装備。
必要以上に重武装はしていない。
ただし――全員が武器を携行していた。
「代表」
サヤが囁く。
「足跡」
泥濘。
複数人の靴跡。
新しい。
しかも、一つや二つではない。
「少なくとも八人以上」
ホオズキがしゃがむ。
「荷物を運んだ跡もある」
ホテル裏口のチェーンは切断されていた。
扉を開ける。
ぎい――。
長い軋み音。
暗闇。
カビ。
湿気。
腐った木材。
古いホテル特有の臭いが鼻を刺した。
レンジが小声で言う。
「こういうところってさ」
「何?」
レイナが振り返る。
「なんで絶対、扉が『ギィィィ……』って鳴るんだろうな」
「油差してないから」
「夢がないな、お前」
「仕事中だから」
そのとき。
――コン。
全員が止まった。
廊下の奥。
――コン。
何かが鳴った。
さらに。
――コン。
レンジの表情が固まる。
「……レイナ」
「何」
「これ何?」
「配管」
「即答すんな」
「怖いの?」
「怖くねえよ」
――コン。
「…………」
「怖いんだ」
「怖くねえ」
ホオズキが手を上げた。
二人が黙る。
廊下の床。
ホオズキはしゃがんだ。
埃の積もった床の一部分だけが、不自然に綺麗になっている。
「頻繁に人が通ってる」
その先。
サービス階段。
下へ続いている。
「地下だ」
◇
地下へ降りるにつれて、空気が変わった。
廃墟の臭いではない。
煙草。
食品。
人間の生活臭。
そして。
何か化学的な刺激臭。
サヤが足を止める。
「代表」
「分かってる」
ホオズキも気づいていた。
非常灯が点いている。
ホテルそのものの電気は死んでいるはずだった。
だが地下では、発電機が動いている。
小さな振動。
低い機械音。
そして――。
男たちの話し声。
外国語だった。
ホオズキは手信号を送る。
四人が散開。
廊下の角から覗く。
従業員食堂だった場所。
男が三人。
カードをしている。
テーブルには酒瓶。
拳銃らしきもの。
その向こう。
段ボール箱が大量に積まれていた。
白い粉末の入った袋。
錠剤。
小分けされたパッケージ。
レンジが眉を上げる。
「……なるほど」
レイナが囁く。
「幽霊ホテルじゃないね」
「犯罪者ホテルだな」
ホオズキはさらに周囲を見る。
問題は――。
人数が読めない。
「久世」
小型無線。
『聞こえてます』
「内部に複数人。違法薬物らしきものを確認。武器あり」
『警察へ通報します』
「まだ待て」
一瞬の沈黙。
『理由は?』
ホオズキが廊下の奥を見る。
「泣き声の確認が先」
◇
四人は地下をさらに進んだ。
途中で、男二人を発見。
一人はサヤが背後から制圧。
もう一人はレンジが口を塞ぎ、そのまま床へ転がした。
音を出させない。
拘束。
武器を回収。
さらに奥。
古い倉庫。
扉には、外側から新しい南京錠。
ホオズキの目が細くなる。
「開ける」
レイナが工具を取り出す。
数十秒。
カチリ。
扉が開いた。
暗闇。
最初に聞こえたのは――。
息を呑む音だった。
ホオズキがライトを下げる。
刺激しないよう、床だけを照らす。
「大丈夫」
日本語で言った。
「助けに来た」
返事はない。
ゆっくり光を上げる。
部屋の隅。
一人の少女がいた。
制服。
十代半ば。
手首を結束されている。
口元にテープ。
頬には殴られた痕。
ホオズキの顔から、一切の感情が消えた。
あまりに静かな変化だった。
だからこそ、レンジは知っていた。
これは危険な状態だ。
代表が、本気で怒っている。
サヤが少女のところへ駆け寄った。
「もう大丈夫」
テープを剥がす。
少女の唇が震えた。
「……たす……け……」
「うん」
サヤが頷く。
「助けに来たよ」
少女は泣き始めた。
「ほかに誰かいる?」
少女が震える指で壁の向こうを指した。
「……女の人……もう一人……」
ホオズキが立つ。
「レンジ」
「了解」
二人が次の部屋へ向かう。
そこにも一人いた。
二十代くらいの女性。
衰弱していたが、生きている。
ホオズキは無線を取った。
「久世」
『はい』
「警察へ連絡。拉致監禁被害者二名確認」
一拍置く。
『了解』
「それと救急」
『手配します』
レンジが壁にもたれている女性を抱き起こした。
いつもの軽薄な笑顔はない。
「代表」
「何」
「こいつら……」
「ああ」
ホオズキが廊下を見る。
足音。
複数。
気づかれた。
「全員拘束する」
◇
「誰だ!」
怒声。
男たちが地下廊下へ飛び出してきた。
一人。
二人。
五人。
さらに奥から。
「武器!」
レイナが叫ぶ。
直後。
乾いた破裂音。
弾丸が壁を叩いた。
サヤが被害者を部屋の奥へ押し戻す。
ホオズキは柱の陰へ。
「レンジ、右!」
「了解!」
レンジが回り込む。
レイナは消火器を蹴った。
廊下中央へ転がる。
男の注意が一瞬逸れる。
それだけで十分だった。
ホオズキが距離を詰める。
拳銃を持った手首を逸らす。
肘。
腹。
膝。
三動作。
男が崩れる。
銃が床へ落ちる。
別の男が鉄パイプを振り上げた。
横からサヤ。
腕を取る。
重心を崩す。
男の身体が壁へ叩きつけられる。
「動かないで」
低い声。
男が暴れる。
サヤは無表情のまま、さらに腕を締めた。
「動かないでと言いました」
「――ッ!」
抵抗が止まった。
一方。
「おっと」
レンジが振り下ろされたナイフをかわす。
「危ねえな!」
拳。
相手の顎が跳ねる。
「刃物はやめようぜ。話し合おう」
もう一人が背後から襲いかかる。
レンジは振り返りもせず、その足を払った。
「まあ、話し合う気はないけど」
「レンジ」
レイナ。
「何?」
「後ろ」
「え?」
ゴン。
「いってえええ!」
木の棒がレンジの背中に当たった。
「言うの遅え!」
「避けると思った」
「俺を何だと思ってんだ!」
「元特殊部隊」
「元特殊部隊でも棒で殴られたら痛えんだよ!」
さらに三人。
ホオズキが前へ出る。
男たちは一瞬だけ躊躇した。
小柄な日本人女性。
そう見えたのだろう。
最初の一人が掴みかかる。
次の瞬間。
男の身体が床へ落ちた。
ホオズキが腕を極めたまま、淡々と言う。
「一つだけ忠告する」
男が呻く。
「この先に行けば被害者がいる」
視線が冷たい。
「だから――」
さらに力を加える。
「一歩も通さない」
◇
十七分後。
地下にいた男たちは全員拘束されていた。
合計十一名。
薬物。
拳銃。
刃物。
偽造書類。
大量の現金。
そして二名の拉致被害者。
ホテルは、複数の犯罪に利用されていた。
やがて。
遠くからサイレンが聞こえ始める。
赤色灯。
山道を上ってくる複数の警察車両。
「お迎えだ」
レンジが拘束した男たちを見る。
「幽霊じゃなくて残念だったな」
レイナが言った。
「レンジ」
「ん?」
「本当に幽霊だったらどうしてた?」
「帰る」
即答だった。
「PMCだぞ、うちは。除霊業者じゃねえ」
ホオズキが横を通る。
「今度、本部に盛り塩しておこうか」
「代表までやめてください」
◇
一時間後。
白鷺ホテル前。
警察。
救急。
鑑識。
それまで死んだように静かだった廃ホテルが、今では多数の照明に照らされている。
拘束された男たちが、一人ずつ警察車両へ乗せられていく。
救出された少女も、毛布に包まれて救急車へ向かっていた。
その途中。
少女が立ち止まった。
振り返る。
ホオズキを見る。
「……あの」
「?」
「ありがとう……ございました」
深く頭を下げる。
ホオズキは少しだけ表情を柔らかくした。
「無事でよかった」
少女を乗せた救急車が走り去っていく。
それを見送っていると。
「相変わらず無茶をするな」
低い声がした。
振り返る。
黒崎剛士が立っていた。
警察側の指揮官として現場に来たらしい。
大柄な身体。
険しい顔。
こんな廃ホテルの前に立っていると、幽霊より彼のほうがよほど怖い。
「無茶はしていない」
ホオズキが答える。
「銃持った連中十一人を四人で制圧して?」
「合理的判断」
「そういうところだぞ」
黒崎が溜息をついた。
だが。
ホオズキの肩や腕に怪我がないか、さりげなく確認している。
ホオズキは気づいていたが、何も言わなかった。
二人は並んでホテルを見上げた。
かつて女の幽霊が立つと言われていた七階の窓。
雨は止んでいた。
「で」
黒崎が言う。
「幽霊はいたのか?」
「いなかった」
「そうか」
「ただ」
ホオズキが少し考える。
「子供の泣き声は、本物だった」
黒崎の顔から笑みが消える。
「ああ」
「ああいう噂というのは、案外馬鹿にできないな」
黒崎がホオズキを見る。
「珍しいな。お前が怪談を信じるなんて」
「信じてはいない」
ホオズキはホテルへ視線を戻した。
「ただ、噂の裏には何かがある」
割れた窓。
黒い廊下。
長い間、人から忘れられていた建物。
そこを利用した者たちがいた。
「幽霊が出ると言えば、人は近づかない」
ホオズキが呟く。
「犯罪者には都合がいい」
「確かにな」
少しの沈黙。
黒崎がポケットから缶コーヒーを一本出した。
「飲むか」
「もらう」
ホオズキが受け取る。
温かかった。
二人で缶を開ける。
遠くでは警察官たちが忙しく動き回っている。
「しかし」
黒崎が言った。
「幽霊ホテル、か」
「怖い?」
「馬鹿言え」
即答。
「俺がそんなもん怖がるか」
「そう」
「お前は?」
「私は――」
ホオズキが少し考える。
そして。
「今日、分かった」
「何が?」
ホオズキは缶コーヒーを一口飲んだ。
「幽霊より、生きている人間のほうがよほど怖い」
黒崎が黙った。
しばらくして。
「……違いない」
低く答える。
「死んだ人間は、薬を売らん」
「ああ」
「人を攫わん」
「ああ」
「子供を閉じ込めたりもしない」
ホオズキは救急車が去っていった山道を見る。
「だから――」
ほんの少しだけ、笑った。
「私たちの仕事になる」
黒崎も小さく笑った。
「そういうところは、本当に変わらんな」
「嫌い?」
「まさか」
即答だった。
ホオズキが横目で見る。
「……そう」
「なんだ、その顔は」
「別に」
「絶対なんかあるだろ」
「ない」
二人の背後。
廃ホテルの七階。
割れた窓のカーテンが――。
風もないのに。
ふわり。
と、揺れた。
ホオズキと黒崎は気づかない。
少し離れたところにいたレンジだけが、それを見た。
「…………」
レンジは硬直した。
「レイナ」
「何?」
「今……七階……」
レイナが見上げる。
何もない。
「何?」
「いや……」
「幽霊いた?」
「…………帰ろう」
「怖いんだ?」
「怖くねえ」
「顔、真っ青だけど」
「寒いだけだ」
「七階、見に行く?」
「絶対行かない」
レイナが笑った。
レンジは全力で首を横に振った。
その夜。
ヤタガラスは、一つの犯罪拠点を潰した。
二人の人間を救出し。
十一人の犯罪者を警察へ引き渡した。
そして。
白鷺ホテルの幽霊騒動も、これで終わった。
――はずだった。
翌朝。
警察の鑑識担当者が撮影した写真の一枚。
七階の窓。
誰も立ち入っていないはずの客室。
割れたガラスの向こうに。
白い服を着た女らしき影が写っていた。
黒崎は「光の反射だ」と言った。
久世は画像解析を始めた。
レイナは面白がった。
サヤは無言だった。
レンジは二度と白鷺ホテルには行かないと宣言した。
そして九条ホオズキは。
写真を数秒眺めたあと。
静かに言った。
「……少なくとも、こっちは人を攫ってはいない」
そう言って。
写真を机に置いた。
幽霊より怖いものを。
彼女たちはもう、知っていた。




