泣く女と慌てる男
九条ホオズキは、滅多に泣かない。
少なくとも、黒崎剛士はそう思っていた。
銃撃戦の最中に頬を弾丸が掠めても泣かない。
骨にひびが入っていても、「問題ない」と言う。
仲間が危険な状況に置かれれば誰よりも必死になるが、その感情を表に出すことはほとんどない。
ヤタガラスの代表。
元特殊部隊員。
冷静沈着。
何事にも動じない女。
――そのはずだった。
「……映画?」
休日の午後。
待ち合わせ場所に現れたホオズキは、黒いニットに細身のパンツという、普段よりずっと簡素な格好をしていた。
ポニーテールもいつもより低めに結ばれている。
黒崎は腕時計を確認した。
「たまには普通のデートってもんをしてみようと思ってな」
「普通のデート」
「映画見て、飯食って、ちょっと歩いて帰る」
ホオズキは少し考えた。
「なるほど」
「なんだその作戦説明を受けたみたいな反応は」
「初めてだからな」
黒崎が固まった。
「……映画館が?」
「デートで映画館に行くのが」
「そういうことかよ」
黒崎は胸を撫で下ろした。
映画館そのものが初めてだった場合、ポップコーンから説明しなければならないところだった。
二人は並んで映画館へ入った。
上映作品はいくつかあった。
アクション。
戦争もの。
ホラー。
SF。
そして恋愛映画。
黒崎は当然のようにアクション映画を指さした。
「これでいいだろ。特殊部隊がテロリストを――」
「これ」
ホオズキが指さした。
黒崎が見る。
若い男女が雨の中で向かい合っているポスターだった。
題名は、
『君を忘れるその日まで』
どう見ても恋愛映画である。
黒崎はホオズキを見た。
「……これ?」
「ああ」
「恋愛ものだぞ」
「知っている」
「お前、こういうの見るのか?」
「たまにはいいだろう」
ホオズキは何でもないことのように言った。
黒崎は少し笑った。
「意外だな」
「何がだ」
「いや」
「言え」
「もっと爆発する映画選ぶと思ってた」
「私を何だと思っている」
「爆発が似合う女」
「褒めてないだろ」
チケットを買った。
黒崎は飲み物を二つ。
さらに巨大なポップコーンを買った。
ホオズキはその容器をじっと見た。
「そんなに食べるのか?」
「映画館じゃこれぐらい普通だ」
「本当か?」
「多分」
二人とも実は映画館デートに詳しくない。
上映が始まった。
物語そのものは、よくある話だった。
高校時代に知り合った男女。
すれ違いながらも結ばれ、結婚。
幸せな生活。
しかし妻が若年性の病を患い、少しずつ夫のことを忘れていく。
それでも夫は毎朝、
「初めまして」
と妻に声をかけ続ける。
そういう映画だった。
開始三十分。
黒崎はポップコーンを食べながら普通に見ていた。
隣のホオズキも静かだった。
四十分。
妻が夫の誕生日を忘れる。
黒崎は少し切なくなった。
ホオズキは動かない。
一時間。
妻が自分の結婚指輪を見て、
「誰からもらったの?」
と尋ねる。
黒崎が横を見る。
ホオズキは微動だにしない。
さすがだな、と黒崎は思った。
こういうところでも冷静らしい。
一時間二十分。
病状の進んだ妻が、夫へ手紙を書く。
『いつか忘れてしまうあなたへ』
映画館のあちこちからすすり泣きが聞こえ始めた。
黒崎も少し鼻がつんとした。
隣を見る。
ホオズキは俯いていた。
「……?」
黒崎は小声で呼んだ。
「ホオズキ?」
返事がない。
スクリーンの光がホオズキの横顔を照らす。
頬に光るものがあった。
黒崎は二度見した。
涙だった。
「お前……」
「見るな」
小声だった。
「いや」
「見るなと言っている」
「泣いてんのか?」
「泣いていない」
明らかに泣いていた。
しかも一滴二滴という話ではない。
頬を伝って次々落ちている。
黒崎は慌てた。
「ティッシュ」
ポケットを探す。
ない。
反対側。
ない。
ジャケット。
ない。
「待て」
黒崎は周囲を見回した。
映画館である。
当然暗い。
どうする。
黒崎剛士。
警察幹部。
数百人規模の部隊を指揮することもある男。
暴動鎮圧にも対応する。
立てこもり事件にも対応する。
しかし、
彼女が恋愛映画で泣いた場合の対処要領など、一度も訓練したことがなかった。
「これ使え」
黒崎は自分のハンカチを渡した。
ホオズキは無言で受け取った。
「……ありがとう」
その直後。
映画の中で、夫が妻へ言った。
『忘れていい。俺が何度でも君を好きになるから』
ホオズキの肩が震えた。
「……っ」
黒崎の目が丸くなる。
「おい」
「……」
「おい、大丈夫か」
「……大丈夫だ」
まったく大丈夫ではない。
映画の妻が夫の名前を忘れた。
ホオズキの涙がさらに増えた。
夫が微笑んだ。
ホオズキが鼻をすすった。
黒崎は完全にパニックだった。
「水飲むか?」
首を横に振る。
「外出るか?」
首を横に振る。
「ポップコーン食うか?」
ホオズキが黒崎を睨んだ。
目が真っ赤だった。
「なぜ今ポップコーンなんだ」
「俺もわからん」
映画はクライマックスへ向かう。
妻はほとんど夫を覚えていない。
雪の降る病院の庭。
老いた夫が妻の隣に座る。
「こんにちは」
妻が尋ねる。
「あなたは?」
夫が笑う。
「君を好きな男です」
ホオズキが、
「うぅ……」
と言った。
黒崎は凍りついた。
今のは間違いなくホオズキの声だった。
戦場で銃弾を浴びても声を上げない女が。
「ホオズキ?」
「……だめだ」
「何が」
「これは……卑怯だ」
「映画だからな」
「こんなの……」
ホオズキが両手で顔を覆った。
「可哀想すぎるだろ……」
黒崎はどうしていいかわからなかった。
結果。
とりあえず頭を撫でた。
ホオズキは抵抗しなかった。
数分後。
映画終了。
照明が明るくなる。
観客たちが立ち上がる。
黒崎も立とうとした。
しかし。
ホオズキは座ったままだった。
「帰らんのか?」
「待て」
「なんで」
「顔が戻らない」
黒崎はホオズキを見る。
確かに戻っていない。
目が真っ赤。
鼻も少し赤い。
何より表情が完全にしおれている。
いつもの九条ホオズキの威厳は消滅していた。
黒崎は笑いそうになった。
「笑うな」
「笑ってねえ」
「口元が笑っている」
「いや、意外すぎて」
「何が」
「お前、こういうので泣くんだな」
ホオズキはハンカチで目元を押さえた。
「悪いか」
「悪くない」
黒崎は笑った。
「むしろ安心した」
「何がだ」
「ちゃんと普通の女なんだなと思って」
ホオズキの眉が動いた。
「……それはどういう意味だ」
「あ」
黒崎は自分の失言に気づいた。
「違う」
「普段の私は普通の女ではないと?」
「いや」
「説明してもらおうか、黒崎警視」
「階級で呼ぶな」
「説明しろ」
「待て待て」
先ほどまで号泣していた女が、もう尋問を始めている。
黒崎は両手を上げた。
「強いところばっかり見てるからだよ」
ホオズキが黙った。
「銃撃戦でも冷静で、部下が怪我すりゃ自分より先にそいつの心配して、何があっても代表だからって顔してるだろ」
黒崎は言った。
「だから、映画見て泣いてるお前見て、なんか……安心しただけだ」
ホオズキはしばらく黙っていた。
「……そうか」
「そうだ」
「なら許す」
「助かった」
映画館を出た。
ホオズキはまだ少し目が赤い。
二人で歩く。
しばらくして黒崎が聞いた。
「そんなに刺さったのか?」
「何が」
「映画」
ホオズキは少し考えた。
「……忘れるというのが嫌だった」
「忘れる?」
「ああ」
歩きながらホオズキは言った。
「人間は死ぬ。それは理解している」
黒崎は黙って聞いた。
「戦場では何人も見た。昨日まで話していた人間が、次の日にはいないこともある」
「……ああ」
「だから死ぬこと自体は、ある程度受け入れられる」
少し間を置いた。
「だが、生きているのに忘れていくのは……怖いな」
黒崎は横を見る。
ホオズキは前を向いていた。
「家族も、仲間も、自分が何をしてきたかも」
その声が少しだけ弱くなる。
「好きだった人間まで忘れるのは、嫌だ」
黒崎は歩みを止めた。
ホオズキも止まる。
「ホオズキ」
「なんだ」
黒崎は少し迷ってから言った。
「お前が俺を忘れたら、また口説く」
ホオズキが瞬きをした。
「……何?」
「映画と同じだ」
「まさかお前」
黒崎が腕を組む。
「毎日自己紹介する」
「やめろ」
「黒崎剛士、職業警察官。趣味は九条ホオズキ」
「趣味にするな」
「特技、九条ホオズキを好きになること」
「気持ち悪いな」
「ひどいな」
ホオズキが少し笑った。
黒崎も笑う。
「まあでも」
黒崎が言った。
「何回忘れても、何回でも最初からやる」
ホオズキの笑顔が止まった。
「……」
「どうした」
「黒崎」
「ん?」
「そういうことを急に言うな」
「なんで」
ホオズキが顔を逸らした。
「また泣くだろうが」
黒崎が固まった。
そして。
ホオズキの目に再び涙が溜まり始めた。
「え」
「……」
「待て」
一滴。
「おい待て待て待て!」
黒崎が慌ててポケットを探す。
「あのハンカチ!」
「持っている」
「使え!」
「もう濡れている!」
「じゃあティッシュ買ってくる!」
黒崎が近くのコンビニへ走ろうとする。
ホオズキが腕を掴んだ。
「行くな」
「でも」
「ここにいろ」
「……はい」
警察幹部、即座に従った。
ホオズキは黒崎の腕に額を押しつけた。
「少しだけ、このまま」
「……わかった」
黒崎は動かなかった。
数秒。
十秒。
三十秒。
やがてホオズキが小さな声で言った。
「絶対に誰にも言うな」
「何を」
「今日のことだ」
黒崎がにやりと笑った。
「恋愛映画で号泣したこと?」
「殺すぞ」
「怖ぇよ」
「特にレンジとレイナには絶対言うな」
「わかってる」
「絶対だぞ」
「信用しろ」
三日後。
ヤタガラス本部。
神代レンジがスマートフォンを見ながら言った。
「代表ー」
「なんだ」
「『君を忘れるその日まで』って映画、知ってます?」
ホオズキの手が止まった。
篠宮レイナが顔を上げる。
「私それ見たいんですよね。めちゃくちゃ泣けるらしいですよ」
ホオズキがゆっくり黒崎を見る。
今日は仕事帰りにたまたま本部へ寄っていた黒崎は、コーヒーを飲んでいた。
目が合う。
黒崎は首を横に振る。
違う。
俺じゃない。
ホオズキの目が細くなる。
レンジが続けた。
「黒崎さん、代表と見に行ったんですよね?」
沈黙。
黒崎がコーヒーを噴いた。
「なんで知ってんだ!?」
レンジが笑った。
「映画館で二人見たって知り合いが」
「誰だそいつ!」
レイナが興味津々で聞いた。
「代表、泣きました?」
ホオズキ。
沈黙。
レンジ。
沈黙。
レイナ。
沈黙。
黒崎。
冷や汗。
猫の少佐だけが机の上で欠伸をした。
「……黒崎」
「俺じゃねえ!」
「まだ何も言っていない」
「顔が怖いんだよ!」
レンジが吹き出した。
レイナも笑う。
ホオズキの顔が赤くなる。
「全員、表に出ろ」
レンジが固まる。
「え?」
「訓練場だ」
「代表?」
「久しぶりに近接戦闘訓練をする」
レイナが後退する。
「私関係なくないですか?」
「連帯責任だ」
「理不尽!」
黒崎がそっと出口へ向かう。
「黒崎」
「……はい」
「お前もだ」
「俺警察なんだけど」
「今日は関係ない」
「私情挟みまくってんじゃねえか!」
その日。
ヤタガラス本部の訓練場から、
レンジの悲鳴。
レイナの笑い声。
黒崎の怒鳴り声。
そして珍しく楽しそうなホオズキの声が、
夜遅くまで響いていた。
なお後日。
黒崎の自宅の棚には、
『君を忘れるその日まで』
のBlu-rayが置かれることになる。
それを見つけたホオズキは言った。
「……買ったのか」
「ああ」
「もう見ないぞ」
「そうか」
「絶対見ない」
「わかった」
「……」
「……」
「黒崎」
「ん?」
「来週、空いているか」
黒崎は笑った。
「ああ」
ホオズキはBlu-rayを手に取った。
「……今度はティッシュを箱で用意しておけ」
「了解」
強い女は、泣かない女ではない。
泣いたあと。
また立ち上がれる女なのだ。
そしてその隣には、
彼女が泣くたびに誰より慌てながら、
それでも最後まで隣にいる男がいた。




