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休戦日のデート

午前九時十二分。


ヤタガラス本部の正面玄関。


黒崎剛士は腕時計を確認した。


九時集合。


すでに十二分が経過している。


黒崎は腕を組み、玄関横の壁にもたれていた。


身長百八十八センチ。


鍛え上げられた体格。


短く整えた髪。


普段なら機動隊の指揮官として、多数の警察官を一声で動かす男である。


その顔は今日も怖い。


かなり怖い。


通りかかった宅配業者が、一度黒崎を見てから露骨に視線を逸らした。


黒崎は小さく息を吐く。


「……遅い」


十二分。


作戦行動なら重大な遅延だ。


だが今日は作戦ではない。


デートである。


その事実を思い出して、黒崎は再び腕時計を見た。


「九条……」


その瞬間。


玄関が開いた。


「待たせた」


黒崎が顔を上げる。


そして――固まった。


そこにいたのは九条ホオズキだった。


だが、いつもの彼女ではない。


黒い戦闘服もない。


プレートキャリアもない。


拳銃もない。


通信機もない。


腰に刀もない。


黒髪はいつもの高いポニーテールではなく、少し低い位置でまとめられている。


白いシャツ。


黒いロングスカート。


小さな革のショルダーバッグ。


それだけだった。


どこから見ても普通の二十六歳の女性だった。


――普通ではないほど美人である、という一点を除けば。


ホオズキが眉を寄せる。


「何だ」


「いや」


黒崎は視線を逸らした。


「……似合ってる」


「そうか」


「……」


「……」


沈黙。


ホオズキが黒崎を見る。


黒崎もホオズキを見る。


二人とも戦闘や交渉ならいくらでも言葉が出てくる。


だが恋愛になると、驚くほど弱い。


やがてホオズキが言った。


「十二分遅れた。すまない」


「何してた」


「服が決まらなかった」


黒崎の眉がわずかに動いた。


ホオズキが服に悩む。


それは黒崎にとって、敵組織壊滅より珍しい現象だった。


「意外だな」


「うるさい」


少しだけ頬が赤い。


黒崎は笑った。


「行くか」


「ああ」


そうして二人は歩き出した。


今日一日だけ。


PMCヤタガラス代表、九条ホオズキでもなく。


警察幹部、黒崎剛士でもなく。


ただの男女として。


――過ごす予定だった。


予定では。


---


最初の目的地は水族館だった。


「……黒崎」


「何だ」


「後ろの男」


「気付いてる」


「入口から三十メートル。灰色のパーカー。ずっと同じ距離を取っている」


黒崎は振り向かない。


「右後方の女もだ」


「気付いていたか」


「ああ」


二人は歩きながら会話を続ける。


「挟撃か」


「可能性はある」


「出口を確認する」


「非常口は左右二箇所」


「警備員は三名」


「監視カメラ六台」


黒崎が低い声で言った。


「俺が男を抑える。お前は女を」


「ああ」


二人は同時に振り返った。


「――動くな」


灰色のパーカーの男が凍りついた。


隣にいた女性も凍る。


黒崎の手が男の肩を掴む。


ホオズキが女の進路を塞ぐ。


完全な連携だった。


男が震えながら言った。


「あ、あの……」


「誰だ」


黒崎の声が怖い。


「いや……その……」


男は女性を指差した。


「彼女です」


「……」


「……」


女性がおずおずと頭を下げた。


「すみません……私たちも普通に水族館へ来ただけで……」


沈黙。


ホオズキと黒崎は顔を見合わせた。


五秒。


十秒。


ホオズキが静かに頭を下げた。


「……申し訳ない」


黒崎も頭を下げた。


「すまん」


カップルは高速で去っていった。


ホオズキはぼそりと言った。


「職業病だな」


「重症だ」


「今日は禁止しよう」


「何を」


「周囲の警戒」


黒崎が即答する。


「無理だ」


「私もだ」


二人は深いため息をついた。


その直後だった。


巨大な水槽の前を、小さな子供が走っていく。


ホオズキの視線が自然とそちらへ向く。


「……綺麗だな」


巨大なエイがゆっくり頭上を泳いでいる。


青い光がホオズキの顔を照らした。


黒崎は水槽ではなく、彼女を見ていた。


「そうだな」


「魚を見ろ」


「見てる」


「嘘をつけ」


ホオズキが少し笑った。


その笑顔を見て。


黒崎も笑った。


---


昼。


二人は小さな洋食店に入った。


ホオズキはメニューを開く。


「オムライス」


黒崎が言った。


「即決だな」


「好きなんだ」


「初耳だ」


ホオズキが顔を上げる。


「言ってなかったか」


「聞いたことない」


「そうか」


黒崎は少し考えた。


ヤタガラスの代表としてのホオズキについてなら、黒崎はかなり知っている。


戦術。


射撃。


格闘。


指揮。


交渉。


そして意外なほど面倒見がいいことも知っている。


だが。


好きな料理。


好きな映画。


好きな音楽。


休日に何をしたいか。


そういったことは意外と知らない。


「ホオズキ」


「何だ」


「お前、休日は何してる」


ホオズキは真剣な顔で考え始めた。


「装備整備」


「仕事じゃねえか」


「訓練」


「仕事だ」


「報告書を読む」


「仕事」


「……猫と遊ぶ」


黒崎が頷く。


「やっと休日らしいのが出たな」


ホオズキは少しムッとした。


「黒崎はどうなんだ」


「筋トレ」


「仕事みたいなものだろう」


「酒」


「健康に悪い」


「寝る」


「老後か」


「うるせえ」


二人は笑った。


やがてオムライスが運ばれてくる。


ホオズキはスプーンを入れた。


一口食べる。


目がわずかに大きくなる。


「……美味しい」


黒崎はその反応を見逃さなかった。


「好きなんだな」


「ああ」


「そんなに?」


「ああ」


もう一口。


いつもの冷静な代表の顔ではない。


完全に普通の女性の顔だった。


黒崎は頬杖をつく。


「今度作ってやる」


ホオズキの手が止まる。


「作れるのか」


「舐めるな」


「警察の機動隊指揮官がオムライスを?」


「独身生活長いんだよ」


「なるほど」


「なんだその納得の仕方」


ホオズキが笑う。


「楽しみにしている」


黒崎は一瞬黙った。


「……おう」


今度。


その言葉が妙に嬉しかった。


---


午後。


二人は商店街を歩いていた。


ホオズキが店先で足を止める。


小さな雑貨屋だった。


「どうした」


「いや」


店頭に猫のキーホルダーが並んでいる。


黒崎が一つ取った。


黒猫。


「少佐に似てるな」


「そうだな」


黒崎はそのままレジへ向かった。


「買うのか」


「ああ」


「黒崎が?」


「悪いか」


「似合わん」


「お前にだよ」


ホオズキが止まる。


「私?」


「バッグにつけろ」


「……」


黒崎は支払いを済ませ、黒猫のキーホルダーを渡した。


ホオズキはしばらくそれを眺めている。


小さな黒猫。


百円玉数枚で買える程度の物だった。


だが。


「ありがとう」


その声は少し柔らかかった。


ホオズキはバッグにつけた。


黒猫が歩くたびに揺れる。


黒崎が言った。


「似合う」


「さっきからそればかりだな」


「本当だから仕方ない」


ホオズキが少しだけ黒崎の腕に近づいた。


肩が触れる。


黒崎は何も言わなかった。


ホオズキも何も言わなかった。


そのまま歩いた。


---


夕方。


川沿いのベンチ。


二人並んで座っていた。


空が赤く染まっている。


しばらく誰も喋らなかった。


ホオズキが言った。


「今日は妙な感じだ」


「何が」


「武器を持っていない」


「俺もだ」


「仕事の話もしていない」


「午前中に一般人を敵性人物扱いしたけどな」


「忘れろ」


黒崎が笑った。


少しの沈黙。


ホオズキは夕焼けを見る。


「なあ、黒崎」


「ん」


「私たちは変な関係だな」


黒崎は答えなかった。


「私は民間軍事会社の代表」


「ああ」


「お前は警察官だ」


「ああ」


「状況によっては敵になる」


「ああ」


ホオズキは手を膝の上で組む。


「任務なら私は、お前を止める」


「俺もお前を逮捕する」


即答だった。


ホオズキが黒崎を見る。


黒崎も彼女を見る。


そこに迷いはない。


だからこそ。


ホオズキは笑った。


「やっぱり変な関係だ」


「そうか?」


「そうだろう」


「俺は気に入ってる」


ホオズキが少し驚いた。


黒崎は川を見る。


「仕事でぶつかるなら、ぶつかればいい」


「……」


「お前はお前の責任を果たせ。俺は俺の責任を果たす」


「それで?」


黒崎はホオズキを見る。


「終わったら飯でも食えばいい」


ホオズキはしばらく黙っていた。


そして。


「単純だな、お前は」


「複雑にして何か得するのか」


「しないな」


「じゃあいい」


ホオズキは小さく笑う。


その横顔を夕陽が照らした。


やがて。


ホオズキの手がベンチの上を少し移動した。


黒崎の手に触れる。


黒崎は何も言わない。


その手を握った。


ホオズキも握り返した。


---


夜。


ヤタガラス本部前。


「今日はありがとう」


ホオズキが言う。


「楽しかったか」


「ああ」


「そうか」


「黒崎」


「ん?」


ホオズキは少し考えた。


それから言った。


「次は映画がいい」


黒崎が笑う。


「デートのお誘いか」


「悪いか」


「いや」


黒崎は少し身体を屈めた。


「嬉しい」


距離が近くなる。


ホオズキは逃げない。


黒崎も急がない。


互いの額が軽く触れる。


ほんの数秒。


それだけだった。


ホオズキが囁く。


「……黒崎」


「なんだ」


「今日はまだ終わっていない」


「?」


ホオズキは本部を指差した。


「中に来い」


黒崎の眉が上がる。


「ほう」


ホオズキは真顔だった。


「少佐の餌を買うのを忘れた」


「……」


「付き合え」


「お前な」


黒崎が頭を抱える。


ホオズキは笑った。


「それから」


「まだあるのか」


「夕食を食べていけ」


黒崎の動きが止まる。


「何作る」


「カレー」


「またカレーか」


「嫌なら帰れ」


「食う」


即答。


ホオズキが玄関を開ける。


「なら来い」


「ああ」


二人が本部へ入る。


その足元を。


一匹の猫が走ってきた。


「にゃあ」


「少佐」


ホオズキがしゃがむ。


黒崎もその隣にしゃがんだ。


少佐は二人を見比べ――


なぜか黒崎の膝へ飛び乗った。


「おい」


「気に入られたな」


「重い」


「我慢しろ」


「お前の猫だろ」


「ヤタガラス所属だ」


「猫まで組織人扱いか」


ホオズキが声を上げて笑った。


黒崎も笑った。


今日一日。


銃声はなかった。


怒号もなかった。


誰も傷つかなかった。


世界を救ったわけでもない。


犯罪者を捕まえたわけでもない。


ただ水族館へ行き。


オムライスを食べ。


小さなキーホルダーを買い。


夕陽を眺めた。


それだけの一日。


だが九条ホオズキにとって。


そんな一日は。


戦場で勝利するよりも、


ずっと手に入りにくいものだった。


そして黒崎剛士にとっても。


それは同じだった。


だから二人は約束する。


また次も。


仕事が終わったら。


立場を玄関に置いて。


ただの二人に戻ろう、と。


ホオズキのバッグにつけられた小さな黒猫が、


その夜遅くまで、


楽しそうに揺れていた。


――了

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