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境界線の向こう側



――九条ホオズキと黒崎剛士、最初の夜


雨が降っていた。


東京湾岸を叩く、冷たい雨だった。


コンテナ埠頭の照明が、水煙の向こうで滲んでいる。


午前二時十三分。


人影の消えた物流倉庫の二階で、九条ホオズキは窓の外を見つめていた。


二十六歳。


PMC《ヤタガラス》代表。


かつて軍の特殊部隊で小隊を率い、今は国家にも企業にも属さない小さな組織を率いている女だった。


黒い戦闘服の上に薄手のコートを羽織り、濡れた黒髪を後ろで束ねている。


その横で、一人の男が震えていた。


「……本当に、出られるんですね」


男の名は、三崎隆文。


五十二歳。


生体材料研究の第一人者として知られる研究者だった。


だが今夜の彼は、世界的な研究者には見えなかった。


眼鏡は曇り、髪は乱れ、両手は小刻みに震えている。


ホオズキは窓から目を離さなかった。


「契約ではそうなっています」


「契約……」


三崎が苦笑する。


「命がかかってるっていうのに、ずいぶん事務的ですね」


「命がかかっているからです」


ホオズキは答えた。


「感情で仕事をすると、人が死にます」


三崎は黙った。


彼がヤタガラスへ持ち込んだ依頼は単純だった。


――国外へ逃がしてほしい。


数日前、三崎は自分の所属していた研究機関から資料を持ち出し逃亡した。


研究成果そのものではない。


彼が持ち出したのは、研究資金の不正流用と、人体への無許可試験を示す内部資料だった。


少なくとも本人はそう主張している。


その資料を国外の調査機関へ提出しないと、自分は消される。


三崎はそう訴えた。


実際、彼の自宅は荒らされていた。


協力者の一人は行方不明。


そして三崎自身にも、正体不明の男たちが接触していた。


ヤタガラスは依頼を受諾した。


ただし。


問題が一つあった。


三崎隆文を追っているのは、裏社会の人間だけではなかった。


警察もまた、彼を追っていた。


研究資料の不正持ち出し。


機密情報の国外流出。


さらに研究機関の職員一名に対する傷害事件。


本人は否定している。


真相は分からない。


それでも――警察には警察の理由があった。


そして今。


その警察が、ここまで来ていた。


「代表」


無線から声が入る。


御影紗夜だった。


『南側道路に車両六。大型二、小型四』


ホオズキの目が細くなる。


「所属は」


『警察』


一瞬の沈黙。


『……機動隊です』


「人数」


『少なく見積もって三十』


ホオズキは息を吐いた。


その時だった。


倉庫の外。


闇の中から、拡声器の声が響いた。


『建物内の者に告げる』


低い男の声。


雨音を押し退けるような声だった。


『警視庁だ』


ホオズキは窓際から一歩離れた。


『三崎隆文を保護する。武装している者は武器を捨て、建物から出ろ』


神代蓮司の声が無線に割り込む。


『うわ。ずいぶん真面目そうな声だな』


「黙って」


『はいよ』


再び声。


『こちらは警視庁警備部――黒崎だ』


その名前を聞いた瞬間。


榊原宗一郎が短く反応した。


『……黒崎剛士か』


「知っている?」


『名前だけなら』


榊原の声には珍しく警戒があった。


『現場指揮で有名な男だ。強硬だが、無茶はしない』


「面倒ね」


『非常にな』


ホオズキは窓から外を覗いた。


雨の向こう。


警察車両の前に、一人の男が立っていた。


大きい。


遠目にも分かる。


百九十センチ近い巨体。


防護装備を身につけているが、後方に隠れる様子はない。


自分が部下より前に出ている。


ホオズキはその一点だけで、男の性格をある程度理解した。


「……指揮官が前に立つタイプか」


『代表と同じですね』


久世冬馬がぼそりと言った。


「余計な分析はいらない」


『事実です』


外から再び黒崎の声。


『九条ホオズキ』


ホオズキの眉がわずかに動く。


調べられている。


『聞こえているな』


ホオズキは近くに置かれていた拡声器を取った。


「聞こえている」


その声に。


外の男が顔を上げた。


二人の視線が、雨の夜を挟んで初めてぶつかった。


『三崎を渡せ』


「拒否する」


即答だった。


『逮捕状が出ている』


「こちらには護衛契約がある」


『民間の契約が逮捕状より上だと思っているのか』


「思っていない」


ホオズキは言った。


「ただし、依頼人の生命が保証されない状態で引き渡すつもりもない」


黒崎の声が少し低くなる。


『警察を信用しないと?』


「組織ではなく状況を信用していない」


沈黙。


雨だけが落ちてくる。


黒崎は答えた。


『俺も同じことを言う』


ホオズキの目が細くなった。


『三崎の話だけを信用して、犯罪の可能性を無視するつもりはない』


「……なるほど」


奇妙だった。


腹が立つ。


なのに。


言っていることには納得できる。


黒崎も同じだった。


倉庫の窓の向こうに立つ女。


もっと無法者じみた人間を想像していた。


傭兵会社の代表。


元軍人。


警察から見れば、危険人物と言っていい。


だが。


話し方が違う。


感情で反発しているわけではない。


こちらの言い分も理解したうえで。


拒否している。


黒崎は無線機を握った。


「突入班」


『はい』


「三崎以外は可能な限り生かせ」


部下が一瞬黙った。


『……抵抗された場合は』


「必要以上にやるな」


「了解」


黒崎は倉庫を見上げる。


「向こうも多分、同じ命令を出してる」


そして。


その予想は当たっていた。


---


「全員聞いて」


ホオズキは振り返った。


ヤタガラスの隊員たちが彼女を見る。


「警察官への致命的な攻撃は禁止」


蓮司が肩をすくめる。


「撃たれたら?」


「撃たせない」


「簡単に言うなあ」


「あなたならできるでしょう」


蓮司は笑った。


「了解、代表」


紗夜が尋ねる。


「突破しますか」


ホオズキは腕時計を見る。


国外へ出る手段は、あと四十分で失われる。


「する」


その瞬間。


倉庫の照明が消えた。


暗闇。


直後。


金属音。


紗夜が叫ぶ。


「突入!」


次の瞬間。


扉が吹き飛んだ。


警察部隊が流れ込んでくる。


閃光。


怒号。


盾。


無線。


足音。


暗闇の倉庫は一瞬にして戦場になった。


「三崎さん!」


ホオズキが男の腕を掴む。


「走って!」


「は、はい!」


階段を駆け下りる。


一階では既にヤタガラスと警察が衝突していた。


蓮司が警察官の盾を蹴り飛ばす。


「悪いな!」


「止まれ!」


「それは無理!」


別の場所では紗夜が二人の警察官をいなし、床へ転がしている。


致命傷は与えていない。


警察側も同じだった。


だが。


殺さないからといって。


優しい戦いになるわけではない。


鉄と肉のぶつかる鈍い音。


割れるガラス。


床を滑る人間。


怒号。


ホオズキは三崎を連れ、裏口へ向かう。


そこで。


巨大な影が立っていた。


黒崎剛士。


「……九条ホオズキ」


初めて間近で見る男は、想像以上に大きかった。


百八十八センチ。


分厚い肩。


雨に濡れた防護服。


鋭い目。


そして。


ひどく不機嫌そうな顔。


ホオズキは三崎を背後にかばった。


「黒崎剛士」


「その男を渡せ」


「断る」


「二度目だな」


「何度でも同じ答えよ」


黒崎は盾を部下へ渡した。


そして一歩出る。


ホオズキも一歩前へ出た。


後ろで蓮司が気づく。


「代表!」


「来るな!」


ホオズキが叫んだ。


黒崎も同時に言う。


「手を出すな!」


警察官たちが止まる。


雨の中。


二人だけが向き合った。


黒崎が言う。


「最後に聞く」


「どうぞ」


「退く気は」


「ない」


「俺もだ」


「でしょうね」


次の瞬間。


黒崎が踏み込んだ。


速い。


巨体から想像できない速度だった。


ホオズキが腕を受け流す。


重い。


まともに受けたら骨が折れる。


「っ――!」


肘。


かわす。


黒崎の拳が壁へ当たり、鈍い音がする。


ホオズキが懐へ入る。


掌底。


脇腹。


膝。


黒崎は二発目を腕で受け止めた。


「軽いな」


「女性に言う台詞じゃないわね」


ホオズキが足を払う。


黒崎の体勢が崩れる。


そこへ肘を落とす。


だが。


掴まれた。


「しま――」


身体が浮いた。


直後。


ホオズキの背中が床へ落ちる。


「ぐっ!」


息が抜ける。


黒崎が押さえ込もうとする。


ホオズキは身体を捻り、抜けた。


距離を取る。


黒崎が立ち上がる。


「……やるな」


「あなたも」


ホオズキは唇の端の血を拭った。


「警察官にしては」


「余計だ」


またぶつかる。


拳。


肘。


膝。


組み。


投げ。


雨に濡れた床を、二人が何度も転がった。


黒崎の力が上。


ホオズキの速度が上。


互いに決定打を許さない。


やがて黒崎がホオズキの腕を取り、壁へ押しつけた。


「終わりだ」


顔が近い。


息がかかる距離だった。


ホオズキは黒崎を見る。


妙な男だと思った。


力では圧倒している。


なのに。


必要以上に痛めつけようとはしない。


腕を折れる。


折らない。


頭を壁へ叩きつけられる。


しない。


理由は簡単だった。


任務に必要ないから。


――私と同じだ。


そう気づいた瞬間。


ホオズキは少しだけ笑った。


黒崎の眉が動く。


「何がおかしい」


「別に」


「言え」


「あなた、意外と優しいのね」


「……は?」


その一瞬だった。


ホオズキの膝が上がる。


黒崎が反応する。


しかし遅い。


体勢が崩れた。


ホオズキが腕を抜く。


そして逆に黒崎を壁へ押しつける。


「油断したわね」


「お前……」


「女と喧嘩するときに顔を近づけすぎよ」


「関係あるか!」


「あるわ」


黒崎が力任せに振りほどく。


二人が再び離れた。


なぜか。


両方とも少し笑っていた。


その時だった。


乾いた銃声。


ホオズキの表情が変わった。


黒崎も同時に動く。


「伏せろ!」


三崎の近くの床が弾けた。


警察ではない。


ヤタガラスでもない。


倉庫上部。


第三の銃撃者。


黒崎が叫ぶ。


「狙撃手!」


ホオズキは三崎へ走る。


黒崎も同時に走った。


二人がほぼ同時に三崎へ飛びつく。


床へ倒す。


再び銃声。


コンクリートが砕ける。


「誰だ!」


黒崎が怒鳴った。


ホオズキが三崎を見る。


「あなたを狙っていた連中でしょうね」


三崎の顔が青ざめる。


警察無線が飛ぶ。


『外部に武装者! 所属不明!』


状況が一変した。


黒崎は即座に決断した。


「警察部隊! 外周の第三勢力を制圧!」


ホオズキも叫ぶ。


「ヤタガラス! 三崎を守る!」


二人の声が重なる。


互いに顔を見る。


一秒。


それだけだった。


もう説明はいらなかった。


今まで敵だった二つの組織が。


次の瞬間には同じ方向を向いていた。


---


十分後。


戦闘は終わった。


襲撃者たちは退却した。


倉庫の裏。


三崎はヤタガラスの車両へ向かっている。


黒崎がその前に立った。


ホオズキも立つ。


再び。


二人は敵になった。


「……渡せ」


黒崎が言う。


「断る」


ホオズキは答えた。


つい数分前まで背中を預け合っていた。


それでも。


立場は変わらない。


黒崎は銃を抜かなかった。


ホオズキも武器を構えない。


「九条」


「何」


「三崎は容疑者だ」


「知ってる」


「海外へ行けば、捜査は難しくなる」


「それも知ってる」


「じゃあなぜだ」


ホオズキは三崎を見た。


「この人が犯罪者かどうかは、私には分からない」


「なら――」


「でも」


黒崎を見る。


「今夜、この人を殺そうとした人間がいた」


黒崎は黙る。


「だからまず、生かす」


雨が二人の間へ落ちる。


「裁くのはそのあとよ」


黒崎の目が細くなった。


その言葉を。


彼は否定できなかった。


なぜなら。


自分も同じだったからだ。


犯罪者であろうと。


容疑者であろうと。


まず生かす。


裁くのは法廷だ。


現場ではない。


「……気に入らんな」


黒崎が言った。


「奇遇ね」


ホオズキは答えた。


「私もよ」


「お前みたいな奴が民間で好き勝手してるのがな」


「あなたみたいな融通の利かない警察官がいること?」


「そうだ」


「私も同じ」


「真似するな」


「してない」


二人は睨み合った。


しかし。


どこかおかしかった。


敵意だけではない。


興味。


警戒。


そして。


互いに自分と似た何かを感じてしまった者同士の、奇妙な引力。


三崎を乗せた車が動き出す。


黒崎は追わなかった。


追えなかった。


外周でまだ第三勢力への対応が続いていた。


それは彼の判断だった。


警察官として。


ホオズキへの情などではない。


まだ。


この時には。


「九条ホオズキ」


去ろうとするホオズキを呼び止める。


彼女が振り返る。


「何?」


黒崎は言った。


「次に会ったら逮捕する」


ホオズキは数秒黙った。


そして。


笑った。


初めて見せる、少し意地の悪い笑顔だった。


「できるものなら」


車のドアが閉まる。


ヤタガラスは夜の雨へ消えていった。


黒崎はしばらくその方向を見ていた。


部下が近づいてくる。


「黒崎さん」


「なんだ」


「……すごい女でしたね」


「…………」


「黒崎さん?」


「仕事しろ」


「はい」


黒崎は歩き出す。


だが。


妙に。


口元が緩んでいた。


---


三日後。


黒崎剛士は、霞が関近くの喫茶店にいた。


テーブルには一冊の資料。


三崎隆文事件。


結局。


三崎は国外の捜査機関に資料を提出した後、日本側の弁護士を通じて事情聴取に応じる意思を表明した。


逃亡ではなかった。


証拠隠滅でもない。


少なくとも現段階では。


そして。


あの夜、三崎を襲撃した連中と研究機関との繋がりも出始めている。


黒崎はコーヒーを飲んだ。


「……食えない女だ」


「誰が?」


聞き覚えのある声。


黒崎が顔を上げる。


九条ホオズキが立っていた。


私服だった。


黒いシャツ。


細身のパンツ。


髪はポニーテール。


戦場で見た女と同じなのに。


印象がまるで違う。


黒崎が眉をひそめる。


「なぜここにいる」


「喫茶店だから」


「そういう意味じゃない」


「コーヒーを飲みに」


「……」


「警察官って、喫茶店に来るにも理由が必要なの?」


黒崎の眉間に皺が寄る。


ホオズキが少し笑った。


「冗談よ」


そして。


向かいの席を指差す。


「座っていい?」


「勝手にしろ」


「では失礼」


ホオズキが座る。


ウェイトレスが来る。


「コーヒーを」


「かしこまりました」


黒崎は資料を閉じた。


「俺を尾行したのか」


「してない」


「偶然だと?」


「あなたこそ私を尾行してた?」


「するか」


「なら偶然ね」


沈黙。


雨上がりの午後。


店内には静かな音楽が流れていた。


戦場の夜とはあまりにも違う。


ホオズキが言う。


「三崎さん、事情聴取を受けるそうね」


「知ってるのか」


「依頼終了後も多少は」


「余計なことを」


「最後まで確認するのが契約」


黒崎はコーヒーを置いた。


「なぜPMCなんてやってる」


ホオズキが目を上げる。


「取り調べ?」


「ただの質問だ」


「答える義務は?」


「ない」


「なら聞かないで」


「……」


黒崎の額にまた皺が増える。


ホオズキはとうとう笑った。


「あなた、すぐ顔に出るのね」


「喧嘩売ってるのか」


「あなたには高く売れそう」


「本当に食えない女だな」


しばらくして。


ホオズキが静かに言った。


「昔、間に合わなかったことがあるの」


黒崎が見る。


笑顔は消えていた。


「組織が判断している間に、人が死んだ」


それ以上は言わなかった。


黒崎も聞かなかった。


「だから?」


「だから私は、自分で決める場所を作った」


「独善だな」


「そうね」


即答だった。


黒崎は少し驚いた。


ホオズキはカップを見ながら続ける。


「だから怖いわ」


「何が」


「自分の判断が正しいと思い始めること」


黒崎は黙った。


「組織は遅い。でも、一人の判断は間違える」


ホオズキは言った。


「どちらも嫌い」


黒崎が鼻で笑った。


「わがままだな」


「知ってる」


「そんな都合のいい組織はない」


「だから作ってる途中」


黒崎は。


初めて彼女を少し理解した気がした。


そして。


理解したからこそ。


厄介だと思った。


自分も。


似たことを考えていたからだ。


黒崎は警察という巨大な組織にいる。


命令。


法律。


規則。


組織としての判断。


それを守る。


守らなければならない。


だが同時に。


現場で最後に決めるのは人間だということも知っている。


部下の命。


市民の命。


容疑者の命。


判断が一秒遅れれば、人は死ぬ。


だから。


黒崎もまた。


自分で決めてきた。


組織の中で。


ホオズキは組織の外で。


「……似てるのかもな」


黒崎が呟いた。


ホオズキが首を傾げる。


「誰と誰が?」


「独り言だ」


「気になる」


「知らん」


「ケチね」


「うるさい」


ホオズキが笑う。


黒崎はその顔を見て。


一瞬だけ。


言葉を失った。


戦場で初めて見た時から、綺麗な女だとは思っていた。


だが。


笑うと。


まるで別人だった。


ホオズキが気づく。


「何?」


「……なんでもない」


「見てたでしょう」


「見てない」


「見てた」


「証拠は」


「警察官がそれ言う?」


「証拠がないなら不起訴だ」


「便利ね」


黒崎はコーヒーを飲む。


ホオズキもコーヒーを飲む。


妙な沈黙だった。


嫌ではない。


それが。


二人とも少し気に入らなかった。


先に立ち上がったのはホオズキだった。


「じゃあ」


「帰るのか」


「仕事があるから」


「そうか」


数歩歩く。


そして。


ホオズキが振り返る。


「ああ、そうだ」


「なんだ」


「次に会ったら逮捕するって言ったわよね」


「ああ」


「今日は?」


黒崎は黙る。


ホオズキが笑う。


「逮捕しないの?」


「今日は逮捕状がない」


「真面目ね」


「警察官だからな」


「じゃあ」


彼女は少し考えた。


「逮捕状がない日に、また会いましょう」


黒崎の目がわずかに開く。


「……それは」


ホオズキはもう出口へ歩いている。


「どういう意味だ」


振り返らないまま手を振る。


「自分で考えて」


扉が開く。


ホオズキが外へ出る。


黒崎は一人残された。


しばらく。


無言。


そして。


小さく呟いた。


「……面倒な女だ」


なのに。


口元は笑っていた。


---


それから。


二人は何度か現場で会った。


一度目は敵として。


二度目は偶然。


三度目は半分仕事。


四度目は――


黒崎から連絡した。


「食事に行くぞ」


電話の向こうでホオズキが言った。


『取り調べ?』


「違う」


『情報交換?』


「違う」


『警察から正式依頼?』


「違う!」


『じゃあ何』


黒崎は長い沈黙のあと。


腹を括った。


「……飯だ」


『だから何の』


「デートだ!」


数秒。


完全な沈黙。


黒崎は人生で最も長い数秒を経験した。


そして。


電話の向こうから。


小さな笑い声。


『そう』


「……なんだ」


『やっと言った』


「お前な……!」


『いいわ』


黒崎が黙る。


『行きましょう、デート』


「……そうか」


『ただし』


「なんだ」


『遅刻したら帰る』


「警察官を舐めるな。五分前に着く」


『十五分前に来そう』


「うるさい」


電話が切れる。


黒崎はスマートフォンを見た。


そして。


誰もいない執務室で。


四十四歳の警察幹部が。


一人で。


拳を握った。


「よし」


翌日。


彼は三十分前に着いた。


もちろん。


ホオズキには言わなかった。


そして九条ホオズキもまた。


待ち合わせ場所から少し離れたところで。


十五分前から。


腕時計を確認していた。


敵として出会った二人だった。


片方は組織の中に立ち。


片方は組織の外に立つ。


法律を守る男。


依頼人を守る女。


進む道は違う。


時には。


再び銃口の向こう側に立つことさえあるかもしれない。


それでも。


二人は知っていた。


相手が決して。


守るべきものを軽く扱わない人間だということを。


恋と呼ぶには。


少し物騒すぎる始まりだった。


殴り合い。


銃声。


雨。


逮捕状。


そして。


一杯のコーヒー。


だが。


九条ホオズキと黒崎剛士には。


それくらいがちょうどよかった。


後に神代蓮司は二人の馴れ初めを聞いて、こう言ったという。


「普通、初デートの前に殴り合います?」


黒崎は答えた。


「うるさい」


ホオズキは答えた。


「不可抗力よ」


その場にいた篠宮レイナは。


少し考えてから。


静かに言った。


「……似た者同士ですね」


二人は同時に。


「どこが」


と言った。


だから。


誰も反論しなかった。


――九条ホオズキと黒崎剛士。


最初の夜。


二人は互いを敵だと思った。


そしてたぶん。


その時からもう。


誰よりも相手のことを理解し始めていた。

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