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死者は夜を歩くー後編ー

後編 ――帰る場所


 午前零時四十一分。


 旧湾岸物流地区。


 かつて巨大な物流拠点だった一帯は再開発の途中で、使用されていない倉庫がいくつも残っていた。


 雨が降り始めていた。


 警視庁の車両が次々と到着する。


 機動隊。


 捜査一課。


 警備部。


 特殊部隊は後方待機。


 その中にヤタガラスの車両が滑り込んだ。


「全員確認」


 ホオズキが言う。


 黒崎。


 紗夜。


 レイナ。


 神代。


 そして警察側の突入要員。


 久世は指揮車内。


 榊原はヤタガラス本部から通信参加。


『監視カメラ復旧しました』


 久世の声。


『対象は第七倉庫に侵入した可能性が高い』


「可能性?」


『自分で映像を一度切っています。その後復旧させた』


 黒崎が顔をしかめる。


「完全に誘ってるな」


「うん」


 ホオズキは倉庫を見る。


「ここを最後にするつもりなんだ」


 神代が自動小銃を確認する。


「代表」


「何?」


「刀相手に全員銃持ってるんだぞ」


「そうだね」


「普通なら三秒で終わる」


「普通ならね」


 黒崎が言った。


「撃つなよ」


「分かってる」


「お前に言ってる」


「信用ねえなあ」


 ホオズキが全員を見る。


「聞いて」


 空気が引き締まる。


「堂島直人は少なくとも六人を襲っている。非常に危険。接触した場合、躊躇しないこと」


 警察官たちが頷く。


「ただし」


 ホオズキは続けた。


「可能な限り生きて確保する」


 黒崎が横を見る。


「説得する気か」


「できるなら」


「もう話が通じない可能性もある」


「分かってる」


「だったら」


 ホオズキは黒崎を見る。


「それでも話す」


 黒崎は溜息をついた。


「代表ってのは面倒だな」


「今さら?」


     *


 第七倉庫。


 内部は暗かった。


 雨音が鉄骨屋根を叩く。


 警察部隊が二方向から侵入する。


 ホオズキたちは少し後ろ。


 黒崎が先頭。


「クリア」


 低い声が無線に流れる。


「左クリア」


「二階通路、異常なし」


 倉庫中央には古いコンテナが並んでいる。


 久世の声。


『熱源一』


「位置」


『中央奥。動いていません』


 黒崎が手を上げる。


 全員停止。


「堂島直人!」


 警察側の指揮官が呼びかけた。


「警察だ!」


 返事はない。


「武器を捨てろ!」


 雨音。


「堂島!」


 暗闇の奥。


 何かが動いた。


 男が一人、現れる。


 黒い服。


 濡れた髪。


 手には日本刀。


 五十一歳という年齢より遥かに老けて見えた。


 頬は痩せ、左側には古い傷。


 だが立ち姿だけは異様に静かだった。


 軍人。


 誰もが一目で理解した。


 十九年経っている。


 それでも身体に染みついたものは消えていない。


「堂島直人だな」


 黒崎が言った。


 男の視線が黒崎へ向く。


「……警察か」


「警視庁、黒崎剛士」


「階級は」


「警視」


 堂島が笑った。


 初めて笑った。


「偉いな」


「そうでもない」


「じゃあ分かるだろ」


「何がだ」


「命令だ」


 黒崎は答えない。


「命令だから撤退した」


「……」


「命令だから俺たちを置いていった」


 堂島は刀を下げたまま言う。


「命令だから」


 一歩。


「死んだことにした」


 警察官たちの銃口が動く。


「止まれ!」


 堂島が止まる。


 ホオズキが前へ出た。


「九条!」


 黒崎が低く言う。


 それでも彼女は一歩だけ進んだ。


「堂島さん」


 男がホオズキを見る。


「誰だ」


「九条ホオズキ」


「警察じゃないな」


「PMCヤタガラス代表」


 堂島の目がわずかに変わった。


「傭兵か」


「違うって言いたいけど、似たようなもの」


「代表」


「うん」


 堂島が笑った。


「お前が」


「そう」


「人に命令するのか」


 ホオズキは答えた。


「する」


「死ねとも?」


 一瞬。


 誰も呼吸しなかった。


「必要なら」


 黒崎がホオズキを見る。


 堂島の笑顔が消える。


「……そうか」


「でも」


 ホオズキは続けた。


「帰ってこいとも言う」


 堂島の顔から感情が消えた。


「俺たちは帰れなかった」


「知ってる」


「知ったような口を利くな!」


 声が倉庫に響いた。


 一瞬で別人になった。


「お前に何が分かる!」


 刀を握る手が震える。


「無線で呼んだ!」


 一歩。


「何度も呼んだ!」


「堂島!」


 警官が叫ぶ。


「止まれ!」


「座標も送った! 負傷者もいた! 弾もなかった!」


 二歩。


「なのに!」


「止まれ!」


「誰も来なかった!」


 堂島が吠えた。


「誰も!」


 次の瞬間。


 動いた。


 速かった。


 五十一歳とは思えない。


 右側の警官へ突進。


 黒崎が叫ぶ。


「散れ!」


 警官が後退。


 刀が防護盾を叩く。


 金属音。


 堂島は止まらない。


 二撃。


 三撃。


 盾を持った警官が押し込まれる。


「スタン!」


 別の隊員が距離を詰めようとする。


 堂島は一瞬で方向を変えた。


「来る!」


 紗夜が叫ぶ。


 刀が横薙ぎに走る。


 紗夜は身体を沈めた。


 刃が頭上を通過。


 ホオズキが踏み込む。


 堂島の手首へ蹴り。


 しかし堂島は読んでいた。


 刀を引く。


 柄頭がホオズキの肩へ。


「っ!」


 黒崎が割って入る。


 防護盾で押し返す。


 堂島が後ろへ跳ぶ。


「いい動きだ」


 堂島が言った。


 息が荒い。


「まだこんなのがいるのか」


 ホオズキは肩を押さえながら立つ。


「刀を捨てて」


「嫌だ」


「これ以上やれば」


「殺すか?」


「……」


「撃て」


 堂島は両腕を広げた。


「撃てよ」


 銃口が彼を囲んでいる。


「それが国だろ」


 誰も撃たない。


「撃て!」


 堂島が叫んだ。


「俺を殺せ!」


 ホオズキは息を整える。


「嫌」


 堂島が止まった。


「何?」


「嫌だ」


「何を言ってる」


「あなたの言う通りにしない」


 堂島の顔が歪む。


「俺は人を殺した!」


「知ってる」


「六人だ!」


「一人は生きてる」


「五人殺した!」


「だから捕まえる」


「死刑になるかもしれないぞ!」


「それを決めるのは私じゃない」


「だったらここで殺せ!」


「嫌だ」


「なぜだ!」


 ホオズキは堂島を見る。


「十九年前」


 静かに。


「誰も迎えに行かなかった」


 堂島の目が揺れる。


「だから今日は」


 一歩。


 黒崎が止めない。


「迎えに来た」


 堂島は何も言わない。


「堂島直人」


 ホオズキは名前を呼んだ。


「帰ろう」


 男の手から力が抜けた。


 ほんの一瞬。


 刀身が下がった。


 黒崎がそれを見た。


「今だ」


 低い声。


 しかし。


 堂島が突然、自分の頭を殴りつけた。


「うるさい!」


 ホオズキが止まる。


「堂島さん?」


「うるさい……」


 男は誰もいない場所を見ていた。


「分かってる」


 誰かと話している。


「分かってるよ」


「誰と話してる」


 黒崎が訊く。


「違う」


 堂島は首を振る。


「俺は逃げてない」


 空間を見る。


「お前らを置いて逃げてない」


 ホオズキは理解した。


 仲間。


 十九年前に死んだ仲間たち。


「違う……」


 堂島は泣いていた。


「置いていったのは俺じゃない」


 刀が上がる。


「俺じゃない!」


 そして再び暴れた。


     *


 制圧は困難を極めた。


 堂島はもはや逃げようとしていなかった。


 殺されようとしていた。


 銃を持つ警官へ突進する。


 刀を振り回す。


 撃たせるために。


「撃つな!」


 黒崎が叫ぶ。


「距離を取れ!」


 堂島がコンテナを蹴り、方向を変える。


 レイナが横から入る。


 警棒で手首を狙う。


 避けられる。


「速っ!」


「下がれ!」


 神代がレイナを引いた。


 刀が二人の前を通る。


「マジで五十過ぎかよ!」


「喋ってる暇あるなら動け!」


 紗夜が怒鳴る。


 警察とヤタガラスが少しずつ包囲を狭める。


 射線を切る。


 逃げ道を一つだけ残す。


 誘導する。


 堂島は気づいている。


 それでも動く。


 黒崎が盾を構えた。


「九条!」


「分かってる!」


 堂島が突っ込む。


 盾と刀。


 激しい衝撃音。


 黒崎が踏ん張る。


「重い……!」


 堂島の身体がぶつかる。


 黒崎は一歩も引かない。


「今だ!」


 紗夜が腕へ飛びつく。


 堂島が振り払う。


 神代が反対側。


 三人でも止まらない。


 堂島が叫ぶ。


「離せ!」


「嫌だね!」


 神代が歯を食いしばる。


「帰れって言われてんだよ!」


 堂島が神代を殴る。


「ぐっ!」


 それでも離さない。


 黒崎が腕を掴む。


「刀を離せ!」


「殺せ!」


「断る!」


「殺せ!」


「しつこい!」


 黒崎の拳が堂島の顔に入った。


 堂島がよろめく。


 ホオズキが踏み込んだ。


 両手で刀を持つ腕を押さえる。


「堂島さん!」


「離せ!」


「帰るよ!」


「俺にはない!」


「何が!」


「帰る場所なんか!」


 ホオズキは叫んだ。


「じゃあ警察署でいい!」


 一瞬。


 堂島が止まった。


 神代まで止まりかける。


「代表、それ今言う?」


「他に思いつかなかった!」


 黒崎が怒鳴った。


「馬鹿! 力抜くな!」


「はい!」


 堂島の口元が動いた。


 笑ったのか。


 泣いたのか。


 分からなかった。


 その一瞬だった。


 黒崎が刀を奪う。


 紗夜が腕を固定。


 警察官二名が脚を押さえる。


 堂島は地面に倒れた。


「離せ!」


 まだ暴れる。


「俺は帰れない!」


 手錠。


「俺は死んだ!」


 二つ目。


「俺は――!」


 黒崎が押さえつける。


「堂島!」


 男の顔が上がった。


「生きてる!」


 黒崎が怒鳴った。


「うるせえくらい生きてる!」


 堂島の動きが止まった。


「十九年も!」


 黒崎の息も荒い。


「勝手に死ぬな!」


 堂島が黒崎を見る。


 やがて。


 力が抜けた。


 倉庫に雨音だけが残った。


     *


 午前三時十九分。


 堂島直人、逮捕。


 負傷者十二名。


 重傷者ゼロ。


 死者ゼロ。


 救急車へ運ばれる直前。


 堂島が一度だけ振り返った。


「九条」


 ホオズキが近づく。


「何?」


「俺の仲間は」


 声は小さかった。


「あいつらは」


 少し間が空いた。


「帰れたのか」


 ホオズキは答えられなかった。


 嘘をつくこともできなかった。


「分からない」


 堂島は目を閉じた。


「そうか」


「でも」


 ホオズキは言った。


「探す」


 堂島が目を開く。


「名前も」


 ホオズキは続ける。


「記録も。全部」


「国が消した」


「じゃあ、こっちで見つける」


「……」


「死んだ人を生き返らせることはできない」


 堂島の目に涙が溜まる。


「でも」


 ホオズキは言った。


「最初からいなかったことにはさせない」


 堂島は何も言わなかった。


 救急車の扉が閉じた。


     *


 事件から三日後。


 正式な記者会見が開かれた。


 警察は堂島直人の逮捕を発表。


 過去の任務については「確認中」。


 防衛省も「調査する」とだけ回答した。


 十九年前の作戦の詳細は依然として機密扱いだった。


 五人の命は戻らない。


 堂島の罪も消えない。


 彼が見捨てられたことと、人を殺したことは別の問題だ。


 同情だけで赦すことはできない。


 だが国が彼を見捨てた事実まで消してよい理由にもならない。


 ヤタガラス本部。


 深夜。


 ほとんどの職員が帰った後。


 ホオズキは屋上にいた。


 また東京の夜景を見ている。


「お前、本当に屋上好きだな」


 黒崎だった。


「黒崎もよく来るじゃん」


「お前がいるからだ」


 ホオズキが少し振り返った。


「何それ」


「問題児の監視」


「二十台に言う?」


「二十台だから言う」


 黒崎は隣に立った。


 しばらく沈黙。


「堂島さん」


 ホオズキが言う。


「精神鑑定に入るって」


「ああ」


「事件について覚えてない部分もあるみたい」


「そうか」


「でも被害者の名前は全部覚えてた」


 黒崎は何も言わない。


「毎日、名前を言ってるらしい」


「……」


「謝ってる」


 風が吹く。


「黒崎」


「なんだ」


「私」


 ホオズキは夜景を見る。


「ずっと考えてた」


「何を」


「十九年前のこと」


 黒崎は予想していたのだろう。


 何も言わなかった。


「もし私が指揮官だったら」


「またそれか」


「うん」


「暇だな」


「真面目に聞いて」


「聞いてる」


 ホオズキはフェンスに手を置く。


「作戦続行すれば百人死ぬかもしれない」


「うん」


「撤退すれば四人を置いていく」


「うん」


「救出部隊を送れば、その人たちも死ぬかもしれない」


「ああ」


「私は」


 言葉が止まった。


「……どうしたらいいんだろう」


 黒崎はすぐには答えなかった。


 やがて言った。


「知らん」


「またそれ?」


「知らんものは知らん」


「経験者っぽい良いこと言ってよ」


「俺を何だと思ってる」


「頼れる四十四歳」


「都合のいい時だけ年上扱いするな」


 ホオズキが少し笑う。


 だがすぐに表情が戻る。


「怖くなった」


 黒崎が彼女を見る。


「何が」


「自分が」


 ホオズキは自分の手を見る。


「私、代表だから」


「知ってる」


「命令する」


「ああ」


「誰かを行かせる」


「そうだ」


「いつか」


 指先がわずかに震える。


「私も誰かを見捨てる判断をするのかな」


 黒崎は黙っていた。


「堂島さんを置いていった人だって」


 ホオズキは言う。


「最初から悪い人だったわけじゃないかもしれない」


「そうだろうな」


「家族がいて」


「ああ」


「部下がいて」


「ああ」


「たくさん考えて」


「……」


「それでも、置いていった」


 ホオズキの声が小さくなる。


「私も同じことするのかな」


 黒崎は腕を組んだ。


「するかもしれん」


 ホオズキが顔を上げた。


 慰めを期待していたわけではない。


 それでも、その答えには少し驚いた。


「否定してくれないんだ」


「できるわけないだろ」


「……」


「お前は代表だ」


 黒崎は街を見る。


「全員を助けられない日が来るかもしれない」


「うん」


「誰か一人を助けるために、誰かを危険に出せない日もある」


「うん」


「撤退を命じる日もある」


「……うん」


「その結果、誰かが帰ってこないことだってある」


 ホオズキは唇を噛んだ。


「でもな」


 黒崎が言った。


「一つだけ違う」


「何が?」


「お前は今、堂島のことで悩んでる」


「……」


「十九年前の話だぞ」


「そうだけど」


「自分の部下ですらない。敵ですらない。自分が生まれて何年も経ってない頃の話だ」


 黒崎はホオズキを見る。


「それでもお前は、置いていかれた四人のこと考えて眠れなくなってる」


「……」


「なら大丈夫だとは言わん」


「言わないんだ」


「言わん」


 黒崎は即答した。


「指揮官として正しい判断をする保証なんて、誰にもできない」


「うん」


「ただ」


 黒崎は続ける。


「お前がいつか誰かを置いていく決断をしたとしても」


 ホオズキが見る。


「その名前を忘れる人間にはならんだろ」


 風が止まったように感じた。


「……」


「忘れなければいい、なんて簡単な話じゃない」


 黒崎は言う。


「死んだ人間は帰ってこない。残された家族も救われない」


「うん」


「でもな」


 黒崎の声は静かだった。


「指揮官が一番やっちゃいけないのは、仕方なかったの一言で終わらせることだ」


「仕方なかった」


「ああ」


「便利な言葉だね」


「便利すぎる」


 黒崎はフェンスへ背を預けた。


「だから覚えてろ」


「何を?」


「顔」


「……」


「名前」


「……」


「命令を出した時の声」


「うん」


「帰ってこなかった奴の席」


「うん」


「全部だ」


 ホオズキは黙って聞いている。


「忘れずに、それでも次の命令を出せ」


 黒崎は言った。


「それが指揮官だ」


 長い沈黙。


 ホオズキが小さく息を吐く。


「しんどい仕事だね」


「今気づいたのか」


「代表ってもっと偉そうに椅子座ってればいいと思ってた」


「お前だいたいそうしてるだろ」


「失礼」


「事実だ」


 ホオズキが黒崎を肘で小さく押す。


 黒崎はびくともしない。


「硬い」


「人を壁みたいに言うな」


 少しだけ笑った。


 その後。


 ホオズキは再び街を見た。


「黒崎」


「ん?」


「今回さ」


「うん」


「堂島さんを撃たないって決めたの」


「ああ」


「間違ってた?」


 黒崎は数秒考えた。


「結果論なら正解だ」


「結果論じゃなくて」


「なら分からん」


 ホオズキが口を尖らせる。


「またそれ」


「ただし」


 黒崎は続けた。


「俺は撃てと言われても撃たなかったと思う」


 ホオズキが横を見る。


「なんで?」


「お前が帰すって言ったからだ」


 ホオズキは目を瞬く。


「……信じてたの?」


「勘違いするな」


「絶対そうじゃん」


「違う」


「信頼?」


「違う」


「尊敬?」


「調子乗るな」


「じゃあ何?」


 黒崎は面倒そうに頭を掻いた。


「俺も」


 一瞬だけ視線を逸らす。


「帰したかっただけだ」


 ホオズキはそれ以上何も言わなかった。


     *


 翌月。


 ヤタガラス本部。


 執務室の机の上に、一冊の薄いファイルが置かれた。


 表紙には四つの名前。


 堂島直人。


 佐伯隆之。


 西尾篤志。


 水谷浩平。


 十九年前、存在しない作戦へ投入された四人。


 佐伯と西尾は現地で死亡。


 水谷は依然として行方不明。


 堂島は帰還。


 ただし帰還したことさえ認められなかった。


 ファイルの最後には、ホオズキの手書きの文字があった。


 ――帰還者、一名。


 少し考え。


 その下に書き足す。


 ――未帰還者、三名。


 死亡者とは書かなかった。


 黒崎が執務室へ入ってくる。


「まだ仕事か」


「これで終わり」


「何だ、それ」


 ホオズキがファイルを閉じる。


「ヤタガラスの記録」


「何の?」


「忘れないための」


 黒崎は表紙を見る。


 四人の名前。


「勝手に保管していいのか」


「機密部分は抜いてある」


「そういう問題か?」


「アカネに怒られたら考える」


「怖いものの順番おかしいだろ」


 黒崎が出ていこうとする。


「あ」


 ホオズキが呼び止めた。


「黒崎」


「なんだ」


「もし」


 少しだけ間を置く。


「私がいつか変な命令出したら止めてね」


 黒崎が振り向く。


「どの程度だ」


「全員突撃ー、とか」


「殴る」


「もうちょっと優しく」


「却下」


「代表なんだけど」


「だから殴る」


 ホオズキが笑う。


 黒崎もほんの少しだけ口元を緩めた。


「じゃあ」


 ホオズキが言う。


「頼んだ」


「ああ」


 黒崎は扉を開ける。


 そこで一度だけ止まった。


「九条」


「何?」


「お前も」


「?」


「俺が間違えたら止めろ」


 ホオズキは少し驚いた。


 それから笑った。


「もちろん」


「容赦するなよ」


「全力で蹴る」


「お前はもう少し容赦しろ」


 扉が閉じる。


 一人になった執務室。


 ホオズキはもう一度、ファイルを見た。


 四つの名前。


 十九年前。


 誰にも呼ばれなくなった名前。


 誰にも迎えられなかった人間たち。


 国家。


 組織。


 命令。


 使命。


 正義。


 どれも大きすぎる言葉だった。


 大きな言葉の下では、人間の名前は簡単に消える。


 だからこそ。


 忘れてはいけない。


 ホオズキは机の引き出しへファイルを入れた。


 そこには以前から、一枚のくしゃくしゃになった千円札が保管されている。


 少女から受け取った、小さな依頼の報酬。


 その隣に。


 四人の名前が並んだファイルを置く。


 救えた人。


 救えなかった人。


 守れたもの。


 守れなかったもの。


 全部を抱えて。


 それでも次の依頼を受ける。


 それでも命令を出す。


 それでも仲間を送り出す。


 そして。


 帰ってきた者には言うのだ。


 おかえり、と。


 帰らなかった者の名前は。


 最後まで忘れない。


 九条ホオズキは引き出しを静かに閉じた。


 窓の外には、朝が来ようとしていた。


 あの夜、十九年前の堂島直人たちには来なかった朝。


 それでも世界は回り続ける。


 だからせめて。


 今度は聞き逃さない。


 助けを求める声を。


 どれほど小さくても。


 どれほど遅くても。


 ――聞こえている。


 そう答えるために。


                          ――了

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