死者は夜を歩くー前編ー
前編 ――死んだ男の足跡
最初の犠牲者が発見されたのは、午前四時十三分だった。
東京都内。
まだ夜の名残を残す住宅街の路地裏で、新聞配達員が倒れている男性を見つけ、警察へ通報した。
四十七歳、会社員。
財布も腕時計も残っていた。
所持品に荒らされた形跡はない。
争った様子も、ほとんどない。
ただ一つ。
致命傷は刃物によるものだった。
そして、その傷は妙に正確だった。
それから十一日後。
二人目。
さらに六日後、三人目。
四人目が出た時点で、警視庁は一連の事件を同一犯による連続殺人事件と断定した。
マスコミはすぐに名前をつけた。
――令和の辻斬り。
犯人は夜間、一人で歩く人間を狙った。
年齢も性別も職業も一定しない。
金品を奪うこともない。
通行人を待ち伏せ、極めて短時間で襲撃し、そのまま姿を消す。
事件現場付近の防犯カメラには、何度か黒い人影が映っていた。
しかし顔は見えない。
歩き方も一定しない。
ある映像では老人のように猫背だった。
別の映像では酔客のようにふらついていた。
さらに別の映像では、普通の会社員にしか見えなかった。
犯人は、自分の歩き方さえ偽装している。
そこから警視庁が導き出した結論は、一つだった。
これは、素人ではない。
*
「以上が、現時点までの概要です」
ヤタガラス本部地下の作戦会議室。
大型ディスプレイの前に立っている黒崎剛士が、低い声で説明を終えた。
室内には九条ホオズキ、榊原宗一郎、御影紗夜、篠宮レイナ、久世冬馬、一乗寺アカネ、神代蓮司が揃っていた。
ディスプレイには都内地図。
そこに五つの赤い印が浮かんでいる。
「五人目が出たのは昨日の午前三時二十分」
黒崎が言う。
「これまでと同様、金品には手をつけていない。被害者同士の直接的な繋がりも現時点では確認されていない」
神代が椅子を後ろへ傾けた。
「無差別か」
「そう判断するにはまだ早い」
久世が眼鏡を押し上げた。
「完全な無作為にしては、妙に犯行区域が限定されている」
「限定?」
レイナが地図を見る。
久世は端末を操作した。
五つの赤い点が線で結ばれる。
「直線距離だけなら散らばって見える。しかし公共交通機関、防犯カメラの密度、警察署と交番の位置を重ねると違う」
別のレイヤーが表示される。
ホオズキが目を細めた。
「警察の監視が薄い場所を通っている」
「正確には」
久世が言った。
「警察が監視していることを、犯人が知っているように動いている」
榊原が腕を組んだ。
「軍人か警察官か。それに類する訓練を受けた人間」
「警視庁も同じ見方です」
黒崎が答えた。
ホオズキは資料を閉じた。
「それで、どうしてうちに?」
「警視庁から正式な協力要請が出た」
「民間軍事会社に?」
神代が笑った。
「世も末だな」
「笑い事じゃない」
黒崎は神代を一瞥した。
「犯人が元軍人である可能性が高い。そして警察側には、軍事訓練を受けた人間の行動を読む経験が少ない」
榊原が静かに言う。
「逆に我々は、捜査の専門家ではない」
「ああ」
黒崎が頷いた。
「だから合同だ」
ホオズキが口を開いた。
「警察が捜査。ヤタガラスは犯人の行動分析と、必要なら確保支援」
「その通り」
「依頼者は?」
「警視庁警備部」
一瞬、室内が静かになった。
黒崎が続ける。
「俺が窓口になる」
神代が小さく口笛を吹いた。
ホオズキは地図を見る。
赤い点が五つ。
五人。
五つの人生。
地図の上では、ただの点だった。
「受ける」
ホオズキが言った。
榊原が彼女を見る。
「よろしいのですか」
「人が死んでる」
「……承知しました」
「黒崎」
「なんだ」
「警察には一つだけ伝えて」
ホオズキは赤い点から目を離さなかった。
「犯人が誰であっても、生きて捕まえる」
黒崎は数秒黙った。
「ああ」
*
合同捜査本部は警視庁内ではなく、都内某所の警察施設に設置された。
ヤタガラスの参加人数は限定された。
ホオズキ、黒崎、久世、紗夜、レイナ。
榊原は本部で全体の分析を担当する。
一乗寺は過去の資金記録。
神代は機動支援。
初日の合同会議で、警察側の何人かは露骨にヤタガラスを警戒した。
「民間人を捜査本部に?」
捜査一課の管理官が言った。
「しかもPMCだと」
黒崎が前へ出る。
「捜査権は警察にあります。彼らはあくまで分析と技術支援です」
「黒崎警視」
男は苦い顔をした。
「あなたまで、ずいぶん変わりましたな」
「立場は変わっても、殺人犯を捕まえる目的は同じです」
男は何も答えなかった。
その横でホオズキは黙って資料を見ていた。
彼女はこういう視線には慣れている。
若い。
女。
民間人。
PMC代表。
疑われる理由はいくらでもある。
結果を出せばいい。
「質問していいですか」
ホオズキが言った。
捜査員たちが彼女を見る。
「どうぞ」
「遺体の傷について」
空気が少し変わった。
「五件とも同じ刀ですか」
「断定はできないが、刃幅や形状はほぼ一致する」
「振り方も?」
管理官が眉を動かした。
「振り方?」
「刃物は同じでも、使う人によって傷は変わる」
黒崎がホオズキを見た。
彼女は続けた。
「右から左。左から右。踏み込むか、待つか。手首を使うか、腰を使うか」
鑑識担当者が資料を開いた。
「すべて右利きと思われます」
「身長は?」
「推定百七十五から百八十五」
「筋力はかなり強い」
「そう考えています」
ホオズキは一枚の写真を指した。
「この人だけ違う」
室内が静まった。
「何が?」
「三人目」
ホオズキが言った。
「この時だけ、犯人は二回攻撃している」
刑事が答えた。
「被害者が抵抗したからだろう」
「たぶん違う」
「根拠は?」
「最初の一撃が浅い」
ホオズキは写真を見つめる。
「失敗したんじゃない」
「どういう意味だ」
「迷った」
数人が顔を見合わせた。
「犯人は、この人を斬る瞬間だけ迷った」
黒崎が資料を引き寄せた。
「三人目の職業は」
「……自衛官です」
全員が止まった。
「陸上自衛隊。三等陸佐」
ホオズキが顔を上げる。
「所属歴を洗ってください」
*
三人目の被害者――川村英治。
四十八歳。
陸上自衛隊。
現在は地方の部隊勤務。
過去の経歴は一見すると普通だった。
普通すぎた。
そのことに気づいたのは久世だった。
「十九年前の記録が変です」
深夜。
合同捜査本部には缶コーヒーの匂いが漂っていた。
「どう変なんだ」
黒崎が聞く。
「川村三佐は十九年前、約七か月間だけ所属先が空白になっている」
「出向じゃないのか」
「表向きは研修扱いです」
久世がモニターを切り替える。
「ただし給与支給元と旅費精算記録が一致しない」
「どこにいた」
「そこが消されています」
「消されてる?」
「意図的に」
ホオズキが久世の横へ立つ。
「復元できる?」
「ネット上なら。これは閉鎖系の記録です」
「無理?」
「俺に無理と言わせたいなら、せめてもう少し難しい案件を持ってきてください」
レイナが笑った。
「久世さん、そういうところだよ」
「何がです」
数時間後。
一乗寺から連絡が来た。
『見つけたわ』
「何を?」
『川村英治が十九年前に受け取った特殊勤務手当。金額がおかしい』
ホオズキはスピーカーを入れた。
『公式記録上は国内研修。でも当時の為替で計算すると、海外派遣者向けの危険地域手当と一致する』
黒崎の目が険しくなる。
「非公式任務か」
『おそらくね』
「場所は?」
『まだ分からない。でも関連する名義を七つ拾った』
七人。
そのうち二人は既に死亡。
一人は退官。
一人は現在も自衛官。
川村英治。
残り三人。
その中に奇妙な名前があった。
――堂島直人。
「死亡?」
ホオズキが訊く。
久世が頷いた。
「十八年前、死亡扱い」
「任務中?」
「事故死」
「遺体は?」
久世の指が止まった。
「……ありません」
*
堂島直人。
当時三十二歳。
陸上自衛隊。
戦闘職種。
射撃、近接戦闘、野外生存、偵察。
複数の特殊教育課程を修了。
十九年前の非公式任務を最後に、公的記録から消えた。
一年後。
海外での訓練中に事故死したことになっている。
遺骨なし。
遺品なし。
葬儀は家族だけ。
補償金のみ支払われた。
「これは事故死じゃない」
黒崎が呟いた。
榊原の声がスピーカーから聞こえる。
『私もそう考えます』
「榊原さん?」
『当時、似た噂を聞いたことがある』
「どんな?」
一拍。
『国外で邦人救出を目的とした極秘作戦が存在した、と』
室内が静まる。
『公式には存在しない。派遣された部隊も存在しない。だが、情勢悪化により途中で政治判断が変わった』
「撤退?」
『正確には切り捨てです』
ホオズキの目が動いた。
榊原は淡々と続けた。
『現地に残った協力者、現地部隊、そして一部の日本人要員。そのすべてを置いて撤収したという噂です』
「堂島がそこにいた?」
『可能性は高い』
「救助は?」
『なかった』
「なぜ?」
榊原はしばらく答えなかった。
『作戦の存在そのものが、政治的問題になるからです』
ホオズキは無言になった。
黒崎が訊く。
「堂島は生存していた可能性がある」
『ええ』
「国はそれを知っていた?」
『それはまだ分からない』
ホオズキが小さく言った。
「死んだことにした方が都合が良かった」
誰も否定しなかった。
*
翌朝。
六人目が出た。
だが今回は死者ではなかった。
襲われた男性は重傷を負いながらも生存していた。
六十二歳。
元防衛省職員。
十九年前。
問題の非公式任務に関係していた人物だった。
無差別ではない。
少なくとも最初は。
事件は復讐だった。
「じゃあ最初の二人と四人目、五人目は?」
レイナが聞いた。
久世が答える。
「直接関係はない」
「なんで殺したの」
誰もすぐには答えなかった。
ホオズキが言った。
「変わっていったんだと思う」
「何が?」
「対象が」
彼女は地図を見る。
「最初は自分を見捨てた人間だった」
一つ目の印。
「次に、その組織にいた人間」
二つ目。
「その次は、制服を着る人間」
三つ目。
「そして最後には」
ホオズキは街全体を見る。
「自分を助けなかった国そのものになった」
黒崎が静かに言った。
「国は人間じゃない」
「だから」
ホオズキは答えた。
「この国にいる人間全部を斬ればいいと思い始めた」
長い沈黙。
黒崎の携帯が鳴った。
「黒崎だ」
数秒後。
彼の表情が変わる。
「場所は?」
全員が立ち上がった。
「分かった。触るな」
通話を切る。
「何があった」
ホオズキが訊いた。
「新宿のコインロッカーから荷物が出た」
「何の?」
「刀」
一瞬。
誰も動かなかった。
「ただし犯行に使われたものじゃない」
黒崎は言った。
「別の刀だ」
*
押収された刀は古いものだった。
高価な美術刀ではない。
実用本位。
柄は何度も巻き直され、鞘には無数の傷があった。
鞘の内側から、小さな紙片が見つかった。
そこには手書きで一文だけ書かれていた。
――我々は、帰還した。
我々。
「複数犯?」
警察側が緊張する。
しかしホオズキは首を振った。
「違う」
「なぜ分かる」
「たぶん、この人は一人じゃない」
「意味が分からん」
「死んだ仲間と一緒にいる」
黒崎が彼女を見る。
ホオズキは刀を見つめていた。
「自分の中では」
*
堂島直人の過去が少しずつ見えてきた。
彼が派遣された地域では、武装勢力と政府軍が入り乱れる内戦状態が続いていた。
任務は邦人技術者の救出。
部隊は現地協力者と合流し、山岳地帯を移動。
途中で作戦中止命令が出た。
理由は政情の急変。
他国との外交問題。
存在を認められない部隊。
撤退命令。
ところが堂島ら四名は、現地協力者を守りながら前線の反対側に取り残された。
救出部隊は送られなかった。
通信記録の最後。
『こちら第二班。負傷者二名。座標送信済み。回収を要請する』
応答なし。
『本部、応答せよ』
ノイズ。
『聞こえているはずだ』
ノイズ。
『……俺たちはまだ生きている』
そこで記録は終わっていた。
ホオズキはイヤホンを外した。
会議室には誰も喋る者がいなかった。
「四人のうち」
久世が説明する。
「現地で二人死亡。一人は消息不明。堂島だけが約一年後、隣国の難民収容地域で目撃されている」
「助けられたのか」
「違います」
久世が首を振る。
「自力で出た」
ホオズキは目を閉じた。
一年。
一年間。
誰も迎えに来なかった。
誰も名前を呼ばなかった。
国は彼を死んだことにした。
帰る場所をなくした男は、それでも生きて戻った。
「その後は?」
「地下に潜ったようです。偽名で各国を転々としている。警備員、船員、傭兵。十年前から記録がほぼない」
黒崎が写真を見る。
三十二歳だった男。
軍服姿。
笑っていた。
現在なら五十一歳。
「十九年か」
黒崎が呟いた。
*
七件目は起きなかった。
代わりに、犯人から連絡が来た。
警視庁代表電話。
午後十一時二十三分。
録音された声が捜査本部に流れる。
『聞こえるか』
低い。
乾いた声。
『今度は聞こえているか』
ホオズキの表情が変わった。
十九年前の通信。
――聞こえているはずだ。
『俺たちは死んだ』
堂島は言った。
『お前たちが殺した』
電話担当者が交渉を試みている。
『堂島直人さんですか』
沈黙。
『……その名前を』
呼吸音。
『まだ知っている人間がいたのか』
初めて声が揺れた。
『堂島さん』
『その名前は死んだ』
『あなたは生きています』
長い沈黙。
『違う』
堂島が言った。
『俺はあの日、死んだ』
電話は切れた。
その直後。
久世が叫んだ。
「発信位置を取った!」
「どこだ!」
「移動中です!」
「車か?」
「いや」
位置情報が地図上を移動している。
「電車?」
レイナが言う。
「違う」
久世の指が止まった。
点は地下鉄駅。
次の瞬間、消えた。
「囮です」
「端末だけ電車に乗せた?」
「恐らく」
黒崎が歯を食いしばる。
「完全にこちらの捜査方法を読んでる」
ホオズキは録音をもう一度再生した。
『俺たちは死んだ』
止める。
「黒崎」
「なんだ」
「この人」
ホオズキは静かに言った。
「自分を捕まえてほしいんじゃないかな」
黒崎が眉をひそめる。
「どういう意味だ」
「本当に逃げたいなら電話なんかしない」
「挑発かもしれない」
「それもある」
ホオズキは録音波形を見る。
「でも十九年前と同じ言葉を使ってる」
――今度は聞こえているか。
「助けを呼んでる」
「六人斬っておいてか」
警察の刑事が言った。
ホオズキはその男を見た。
「助けてほしい人間が、必ず助けてもらうに値する行動をするとは限らない」
「……」
「でも」
ホオズキは続けた。
「だからって、やったことが消えるわけじゃない」
*
その夜。
ホオズキは一人で屋上にいた。
ビル群の向こうに東京の灯が広がっている。
「寝ないのか」
黒崎だった。
「黒崎こそ」
「俺は歳だから寝なくても平気だ」
「逆じゃない?」
「うるさい」
ホオズキが少し笑った。
黒崎は缶コーヒーを差し出した。
「甘いやつ」
「ありがと」
二人でしばらく夜景を見る。
「黒崎」
「なんだ」
「十九年前」
「うん」
「もし、救出命令を出す側に自分がいたら」
黒崎は何も言わなかった。
「政治的に大きな問題になる。部隊を送れば、もっと大勢が死ぬかもしれない」
「……」
「それでも四人は生きてる」
ホオズキは缶を握った。
「私ならどうすると思う?」
「知らん」
即答だった。
ホオズキが横を見る。
「知らないの?」
「十九年前のお前はその場所にいない」
「でも――」
「後からなら何とでも言える」
黒崎が夜景を見る。
「全員助ける。誰も見捨てない。命令なんか無視する。綺麗な答えはいくらでも言える」
ホオズキは黙った。
「でも現場では情報が足りない。時間もない。何を選んでも誰かが死ぬ」
「……」
「だから指揮官は、選んだ後も生きるんだ」
「生きる?」
「自分が選んだ結果を背負ってな」
ホオズキは遠くを見る。
「重いね」
「ああ」
「代表辞めようかな」
「明日辞表持ってこい。榊原さんが喜ぶ」
「絶対喜ばないでしょ」
ほんの少しだけ、空気が軽くなった。
だがその瞬間。
黒崎の無線が鳴った。
『対象と思われる人物を確認!』
二人の表情が一変する。
『場所は旧湾岸物流地区! 刃物所持!』
黒崎が無線を掴む。
「追うな!」
『しかし――』
「追うな! そいつは誘ってる!」
ホオズキが走り出した。
「全員招集」
「ホオズキ」
「うん」
彼女は振り返らない。
「今度こそ」
その声だけが、夜の屋上に残った。
「こっちが迎えに行く」
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