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アカネのiDeCo講座

『その金、六十まで人質です』


――アカネのiDeCo講座


午後八時。


ヤタガラス本部、休憩室。


テーブルの中央には、コンビニのプリンが四つ並んでいた。


一条寺アカネは、そのうち一つをスプーンですくいながら、タブレットを眺めていた。


向かいでは篠宮レイナがスマートフォンを睨んでいる。


「……アカネ」


「何?」


「iDeCoって、やった方がいいの?」


アカネのスプーンが止まった。


隣でコーヒーを飲んでいた久世冬馬が、静かに顔を上げる。


ソファで寝ていた猫――少佐も目を開いた。


「……その質問」


アカネはプリンを置いた。


「一番危険な聞き方よ」


「え?」


「投資に“やった方がいい?”なんて質問は存在しないの」


「いや、普通にあるでしょ」


「存在しない」


「怖い怖い」


アカネは眼鏡を押し上げた。


「あるのは――」


テーブルに指を一本置く。


「あなたに向いているか」


二本目。


「向いていないか」


三本目。


「それだけ」


レイナは嫌な予感がした。


「……講義始まる?」


「始めたのはあなたよ」


久世が無言でノートPCを閉じた。


長くなる。


彼には分かっていた。


---


一 iDeCoとは何か


アカネはホワイトボードに大きく書いた。


iDeCo


その下に、


個人型確定拠出年金


と書く。


レイナが眉をしかめる。


「もう難しい」


「まだ名前しか書いてない」


「漢字が多い」


「特殊偵察班副班長でしょうが」


「漢字と偵察は別技能よ」


アカネは無視した。


「簡単に言うと、自分で作る老後資金」


「貯金?」


「違う。自分で毎月お金を積み立てて、そのお金で投資信託とか定期預金なんかを選んで運用する制度」


「NISAみたいな?」


「似てるけど全然違う」


アカネが即答した。


「ここ、試験に出ます」


「何の試験?」


「人生」


「規模がでかい」


アカネはホワイトボードを二つに分けた。


左に、


NISA


右に、


iDeCo


と書く。


「NISAは基本的に、投資で増えた利益が非課税」


「うん」


「iDeCoも運用益に税制上のメリットがある。でも最大の特徴はそこじゃない」


アカネは赤ペンで書いた。


掛金が所得控除


レイナが首を傾げる。


「所得控除?」


「税金を計算するときの元になる所得を減らせるってこと」


「つまり?」


アカネはレイナを指した。


「税金が安くなる」


「先にそれ言って」


「仕組みを理解しなさい」


---


二 節税という名の即効性


アカネは電卓を取り出した。


「例えば毎月二万円積み立てるとする」


「年間二十四万円」


「そう。その二十四万円が所得控除になる」


レイナの目が少し変わった。


「……毎年?」


「基本的にはね」


「強くない?」


「強い」


アカネはあっさり認めた。


「所得税と住民税を払っている人にとっては、かなり強力」


「じゃあ全員やればいいじゃん」


「そこでそう言うから素人なのよ」


「今日厳しくない?」


「金融商品を褒めるだけの人間は信用しない方がいい」


一瞬だけ、アカネの声音が低くなった。


「メリットだけ話す人間は、大抵その商品を売りたい人間だから」


久世が小さく頷いた。


レイナも少し真面目な顔になる。


「……デメリットは?」


「最大のものがある」


アカネはホワイトボードに、巨大な文字を書いた。


原則、60歳まで引き出せない


沈黙。


レイナが瞬きをした。


「……は?」


「原則六十歳まで引き出せない」


「もう一回言わなくていい」


「大事だから」


「例えばさ」


レイナが身を乗り出す。


「車欲しくなったら?」


「無理」


「家の頭金」


「無理」


「海外旅行」


「無理」


「緊急でお金必要になったら?」


「無理」


「ヤタガラスが倒産したら?」


部屋の奥から声が飛んできた。


「縁起でもないことを言うな」


榊原宗一郎だった。


いつから聞いていたのか分からない。


レイナは軽く頭を下げる。


「すみません副代表」


榊原はコーヒーを淹れながら言った。


「続けろ。一条寺」


「はい」


アカネはレイナへ向き直った。


「つまりiDeCo最大の欠点は、流動性が極端に低いこと」


「流動性?」


「使いたい時に使えない」


「それ怖くない?」


「だから生活防衛資金もない人間が、節税だけ見て全力で突っ込む制度じゃない」


アカネは言った。


「明日の生活費を削って老後資金を作るなんて、本末転倒でしょう」


---


三 節税は“儲け”ではない


レイナが腕を組む。


「でも税金が安くなるなら、やっぱ得じゃない?」


「得ではある」


「ほら」


「ただし」


来た。


レイナはもう分かっていた。


アカネの「ただし」は長い。


「“節税できる=儲かる”ではない」


「違うの?」


「違う」


アカネは机の上のプリンを指した。


「百五十円のプリンが三十円引きだったとする」


「買う」


「嫌いな味でも?」


「……買わない」


「そういうこと」


「どういうこと?」


「節税になるからという理由だけで必要のない金融商品を買うなら、割引だから嫌いな物を買うのと同じ」


久世が横から言った。


「珍しく分かりやすい例えだな」


「珍しく?」


「いや」


アカネが久世を睨んだ。


彼は再びコーヒーへ視線を落とした。


---


四 何に投資するか


レイナがスマートフォンを操作する。


「じゃあiDeCo始めたら、勝手に増えるの?」


アカネが止まった。


完全に止まった。


「……今、何て言った?」


「勝手に増えるの?」


「増えません」


即答。


「iDeCoは魔法の貯金箱じゃない」


「でも投資するんでしょ?」


「だから商品を自分で選ぶの」


アカネは再びボードに書いた。


定期預金


保険


投資信託


「何を選ぶかで結果は全然違う」


「全部同じ制度じゃないの?」


「制度は箱」


アカネは言った。


「中身は自分で選ぶ」


レイナが少し考える。


「弾倉みたいなもの?」


「……まあ」


アカネは微妙な顔をした。


レイナは嬉しそうに続ける。


「iDeCoがマガジンで、中に何の弾を詰めるか選ぶ」


「PMCらしい例えになったわね」


「徹甲弾は?」


「ない」


「曳光弾」


「ない」


「焼夷――」


「金融講座よ」


---


五 NISAとどっち?


レイナがホワイトボードを見る。


「結局さ」


「うん」


「NISAとiDeCo、どっち優先?」


アカネは数秒考えた。


珍しく即答しなかった。


「人による」


「出た」


「逃げじゃない。本当に人による」


アカネは指を折った。


「近いうちに家を買いたい」


一本。


「教育費が必要」


二本。


「転職や独立を考えている」


三本。


「手元資金に余裕がない」


四本。


「こういう人は、六十歳までロックされるiDeCoに入れすぎると困る可能性がある」


「NISAなら売れば現金にできる」


「そう」


「逆に?」


「安定した収入があって、生活防衛資金もあって、老後まで使わないお金を積み立てられる。それで所得税や住民税をしっかり払っているなら――」


アカネは言った。


「iDeCoの節税効果はかなり魅力的」


「なるほどね」


レイナは珍しく真剣にメモを取った。


アカネはそれを見て少し笑った。


「ちなみにNISAとiDeCoは敵同士じゃないから」


「え?」


「“どちらか一つしか使えない”と思ってる人が時々いるけど、両方使える」


「併用?」


「そう」


「じゃあ最強じゃん」


「資金が無限ならね」


「現実は?」


「給料は有限」


「悲しい」


「人生最大の制約条件よ」


久世が呟いた。


「CPUより厳しいな」


---


六 受け取る時にも考える


レイナは少し安心したようだった。


「じゃあ老後になったら全部もらって終了?」


「まだある」


「まだあんの?」


「出口戦略」


レイナが机に突っ伏した。


「投資って入り口だけじゃダメなの?」


「むしろ出口の方が大事なこともある」


iDeCoは積み立て時だけではなく、将来受け取る時にも税金との関係を考える必要がある。


一時金として受け取るのか。


年金形式で受け取るのか。


退職金との兼ね合いはどうするのか。


制度や本人の退職状況によって、最適な受け取り方は変わる。


そこまで説明すると、レイナは頭を抱えた。


「無理」


「何が」


「二十四歳の私に六十歳の税金を考えろと言われても無理」


「正しい反応ね」


「え?」


アカネは笑った。


「今全部決める必要なんてない」


「でも出口戦略が――」


「将来の制度も税制も変わるかもしれない。今できるのは“出口にも税金が関係する”と知っておくこと」


「それだけ?」


「それだけ」


レイナは少し安心した。


---


七 アカネ式iDeCo三原則


アカネはホワイトボードを全部消した。


そして最後に三つだけ書いた。


①節税だけで始めない


②六十歳まで不要な金だけ入れる


③商品を理解して選ぶ


「これだけ覚えなさい」


レイナがスマートフォンで撮影する。


「意外とシンプル」


「金融って、本質は大抵シンプルよ」


「でも説明は長い」


「誰のせいよ」


すると、ソファから少佐が降りてきた。


猫は机に飛び乗り、アカネのプリンの匂いを嗅いだ。


「あ、少佐。それは駄目」


少佐はプリンを見た。


アカネを見た。


そして再びプリンを見た。


レイナが言った。


「少佐もiDeCoやった方がいい?」


「収入ないでしょう」


「ヤタガラスから給与出せば?」


榊原が即答した。


「却下だ」


「福利厚生で」


「猫だぞ」


少佐は不満そうに「ニャ」と鳴いた。


久世が真顔で言った。


「猫用確定拠出年金という市場は、未開拓だな」


「久世さん?」


「冗談だ」


その時。


休憩室のドアが開いた。


神代蓮司が顔を出した。


「何の話?」


レイナが答える。


「iDeCo」


「ああ、老後のやつ?」


「そう」


「俺、六十歳まで生きてるかな」


室内が静まり返った。


PMC勤務。


特殊作戦。


銃撃戦。


潜入任務。


誰も即答できなかった。


数秒後。


アカネが静かに言った。


「だからこそ、生きてる前提で準備するのよ」


蓮司が目を瞬く。


「……お」


「死ぬかもしれないから老後なんか考えない、なんて言ってたら」


アカネはプリンを一口食べた。


「本当に生き残った時に困るでしょう」


榊原がコーヒーカップを置いた。


少しだけ笑った。


「その通りだ」


蓮司も苦笑する。


「金融講座なのに妙に重いな」


「ヤタガラスだからね」


レイナが答えた。


そしてスマートフォンを見る。


「で、アカネ」


「何?」


「私の場合はいくら入れればいい?」


「まず家計簿見せて」


「え」


「収入、支出、現預金、投資額、予定してる大きな支出」


「そこまで?」


「当然」


レイナは露骨に目を逸らした。


アカネが目を細める。


「レイナ」


「はい」


「先月、服いくら買った?」


「…………」


「レイナ」


「…………経費」


「私服が?」


「潜入任務用」


「領収書ある?」


「…………」


久世が静かに席を立った。


「俺は戻る」


「逃げた」


レイナが言う。


「賢明ね」


アカネは答えた。


少佐もいつの間にか机から降りている。


「少佐まで逃げた!」


結局、その夜。


iDeCoの講義は三十分で終わったが、


レイナの家計診断は二時間続いた。


そして翌朝。


ヤタガラス本部の休憩室には、一枚の紙が貼られていた。


一条寺アカネ筆。


---


投資より先に、無駄遣いを減らせ。


---


その下には、レイナの字で小さく書き足されていた。


※服は必要経費です。


さらにその下。


アカネの赤字。


却下。


そして一番下には、


誰が押したのか分からない、


猫の肉球スタンプが一つだけ残されていた。

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