アカネのNISA講座
― 非課税は魔法じゃない ―
午後七時。
ヤタガラス本部、休憩室。
任務を終えた隊員たちが夕食を済ませ、思い思いにくつろいでいた。
篠宮レイナはソファに寝転がりながら、スマートフォンを眺めている。
その隣では猫の少佐が丸くなっていた。
「……NISA……」
レイナが呟いた。
向かいの席でコーヒーを飲んでいた一乗寺アカネの眉が、わずかに動いた。
「今、何て?」
「NISA」
「その次は?」
「え?」
「何を調べてるの?」
レイナはスマートフォンを見せた。
画面には、
『今買うべきNISA銘柄ランキング!』
という派手な文字が踊っている。
アカネは三秒間、無言だった。
そして静かに眼鏡を押し上げた。
「レイナ」
「はい」
「会議室に来て」
「なんで!?」
「緊急講習」
「嫌だ!」
「拒否権はない」
「横暴!」
そのやり取りを聞いていた神代レンジが笑った。
「はは。たかがNISAだろ?」
アカネが振り返る。
「レンジも参加」
「え」
「今ので受講決定」
「待て待て」
さらに奥で新聞を読んでいた真壁仁が顔を上げた。
「NISAって、あれだろ?」
三人が見る。
仁は自信満々に言った。
「国がやってる、絶対儲かる株だ」
アカネの目から光が消えた。
「仁さんも参加」
「なんで俺まで!?」
こうして十分後。
ヤタガラス本部会議室には、
一乗寺アカネ。
篠宮レイナ。
神代レンジ。
真壁仁。
そして、なぜか少佐。
四人と一匹が集まっていた。
ホワイトボードの前に立ったアカネが、ペンを持つ。
そして大きく書いた。
『NISA』
「では問題です」
アカネが振り返る。
「NISAとは何でしょう?」
仁が即答した。
「絶対儲かる株」
「零点」
「早えよ」
レンジが手を挙げる。
「税金がかからない投資?」
「七十点」
「お」
レイナがおそるおそる言う。
「投資の商品……?」
「三十点」
「仁さんより上だ!」
「比較対象が低すぎる」
「おい」
アカネはホワイトボードに四角を描いた。
「一番大事なことから覚えて」
四角の中に、
非課税口座
と書く。
「NISAは金融商品じゃない」
レイナが瞬きをした。
「違うの?」
「違う。NISAという名前の株も投資信託も存在しない」
アカネは四角を指した。
「簡単に言えば――」
少し間を置く。
「税金がかからなくなる箱」
レンジが顎に手を当てる。
「箱?」
「そう」
アカネは別の場所に、
株式
投資信託
と書いた。
「普通の口座で投資して利益が出れば、原則として約二割の税金がかかる」
「二割?」
仁が顔をしかめた。
「百万円儲けても?」
「税金を考える必要がある」
「国、取りすぎじゃねえか?」
「税制への文句は財務省に言ってください」
「電話していい?」
「やめてください」
レンジが吹き出した。
アカネは続ける。
「でもNISA口座の対象商品で得た利益なら、一定の条件のもとで非課税になる」
仁の目が光った。
「つまり最強じゃねえか!」
「はい、出ました」
アカネは赤いペンを取った。
NISA=儲かる
その文字に巨大なバツを書く。
「これが初心者によくある勘違い」
「なんでだよ」
「NISAは税金を取らない制度であって、損失を防いでくれる制度じゃないから」
仁が固まる。
アカネは淡々と言った。
「百万円で買った株が五十万円になれば?」
「……五十万円」
「NISAなら?」
「……?」
「五十万円」
「助けてくれねえの?」
「誰が?」
「国」
「助けません」
「冷てえ国だな!」
「投資とはそういうものです」
少佐が、
「にゃあ」
と鳴いた。
レイナが少佐を撫でながら言う。
「じゃあ、NISAを使えば安全ってわけじゃないんだ」
「その通り」
アカネが頷いた。
「NISAは防弾チョッキじゃない。税制上有利な入れ物」
レンジが笑う。
「ヤタガラスらしい例えだな」
アカネはホワイトボードに二つの枠を書いた。
つみたて投資枠
成長投資枠
「現在のNISAには大きく二つの投資枠がある」
レイナがスマホにメモし始める。
「つみたて投資枠は年間百二十万円」
アカネが書く。
120万円/年
「成長投資枠は年間二百四十万円」
240万円/年
「両方使えるので、年間では最大三百六十万円」
仁が目を丸くした。
「三百六十万!?」
「最大ですよ。全部使えという意味じゃありません」
「使わねえともったいなくないか?」
その瞬間。
アカネが仁を指差した。
「それ」
「何だよ」
「今日二番目に覚えてほしいこと」
アカネは大きく書いた。
枠を埋めることを目的にしない。
「年間三百六十万円投資できるからといって、三百六十万円投資する必要はない」
「でも非課税枠が……」
「生活費を削って?」
「……」
「緊急資金まで投資して?」
「……」
「暴落したときに怖くなって売る?」
「……嫌だな」
「だから順番が逆」
アカネは言った。
「投資額をNISAの枠から決めるんじゃない」
ホワイトボードを叩く。
「自分の家計から決める。」
レイナが小さく頷いた。
「なるほど……」
「家賃、食費、保険、教育費、急な出費。そういうものを考えて、それでも長期間使わないお金を投資する」
レンジが尋ねる。
「じゃあ毎月一万円でもいい?」
「もちろん」
「三千円は?」
「いい」
「千円」
「いい」
「百円」
「商品や金融機関によるけど、少額積立できるところもある」
仁が首を傾げる。
「そんな少額で意味あるのか?」
アカネは仁を見る。
「ある」
即答だった。
「投資で一番難しいのは、大金を入れることじゃない」
「じゃあ何だ?」
「続けること」
会議室が少し静かになった。
アカネは続ける。
「相場が上がっても続ける。下がっても続ける。ニュースが騒いでも、自分の計画を簡単に変えない」
レイナが言った。
「長期投資?」
「そう」
アカネは三つの言葉を書く。
長期
積立
分散
「この三つは資産形成の基本」
レンジが一つを指す。
「分散って、いろんな株を買う?」
「それも一つ」
「トヨタ、ホンダ、日産?」
アカネが首を横に振る。
「それ、全部日本の自動車」
「あ」
「業種を分ける。国を分ける。地域を分ける。資産を分ける。分散にはいろんな考え方がある」
仁が腕を組む。
「じゃあ俺なら百社くらい買えば最強か」
「管理できるんですか?」
「できねえ」
「でしょうね」
「即答すんな」
レイナが笑った。
アカネは話を戻した。
「つみたて投資枠の商品は、長期・積立・分散投資に向くよう一定の基準を満たした投資信託などに絞られている」
「じゃあ初心者向き?」
「比較的考えやすい。でも」
アカネの声が少し低くなる。
「商品が絞られているからといって、何を買っても絶対安全という意味じゃない」
「また絶対じゃないのか」
仁がぼやく。
「投資の世界で『絶対』って言う人間は?」
アカネが尋ねた。
レイナが答える。
「信用しない」
「正解」
レンジが笑う。
「この前の詐欺師と同じだな」
「そういうこと」
アカネは次に、
1,800万円
と大きく書いた。
「NISAでは、生涯にわたる非課税保有限度額が千八百万円」
「でけえな……」
仁が唸る。
「ただし成長投資枠で使える部分は、その内数として千二百万円まで」
レイナが手を挙げる。
「先生」
「はい」
「もし千八百万円使ったら、もう一生使えないの?」
アカネが微笑んだ。
「いい質問」
仁がぼそっと言う。
「俺の質問には一回も言わなかったな」
無視された。
アカネは説明する。
「NISAは買った金額――取得価額を基準に枠を管理する。そして保有商品を売却すると、その商品の取得価額分の枠が翌年以降に再利用できる」
レイナの目が輝く。
「復活するんだ」
「そう。ただし、売ったその年に即復活して年間投資枠が増えるわけじゃない」
「なるほど……」
レンジがニヤリとする。
「じゃあ売買しまくれば」
「その発想を捨てて」
「まだ最後まで言ってない」
「顔に書いてある」
そしてアカネはペンを置いた。
「ここからが一番重要」
三人がアカネを見る。
アカネはホワイトボードに一行だけ書いた。
何を買うかより、なぜ買うか。
「投資を始めると、みんな商品を聞く」
アカネは言う。
「どの株が上がる?」
「どの投資信託が一番儲かる?」
「今年のおすすめは?」
「でも、その前に決めることがある」
レイナが答えた。
「目的?」
アカネが頷いた。
「老後資金なのか」
「家を買う資金なのか」
「十年以上先に使うお金なのか」
「それとも単純に資産を増やしたいのか」
「目的によって、取れるリスクが違う」
仁が聞いた。
「じゃあ三年後に使う金は?」
「私は株式中心では運用しない」
「なんで?」
「三年後に暴落している可能性があるから」
「二十年後なら?」
「時間を味方につけやすくなる」
アカネは仁を見る。
「未来は誰にも分からない。でも、分からないからこそ、時間と分散を使う」
仁は少し黙った。
「……投資って、思ってたより地味だな」
アカネが笑った。
「正解」
「もっとこう……一発当てて億万長者みたいな」
「それは投資講座じゃなくて夢物語講座」
レンジが腹を抱えて笑った。
レイナも笑っている。
そのとき。
会議室の扉が開いた。
九条ホオズキだった。
「何をしている?」
「NISA講座です」
アカネが答える。
ホオズキはホワイトボードを見る。
そして数秒間考えたあと尋ねた。
「結論は?」
アカネは答えた。
「NISAは有利な制度です」
「うん」
「ですが、NISAを使ったから金持ちになるわけではありません」
「うん」
「自分の収入、支出、生活防衛資金、投資目的、期間、リスク許容度を考えた上で使うものです」
ホオズキは頷いた。
「つまり」
少し考える。
「装備と同じか」
アカネが首を傾げた。
「装備?」
「高性能なライフルを持ったからといって、射撃が上手くなるわけではない」
室内が静かになった。
ホオズキは続ける。
「道具が優秀でも、使う人間が無計画なら意味がない」
アカネが少し驚いた顔をする。
そして笑った。
「……百点です、代表」
ホオズキは満足そうに頷いた。
「では私は戻る」
そう言って出ていく。
沈黙。
やがてレンジが呟いた。
「代表、受講してないのに満点取ったぞ」
「納得いかねえな」
仁が腕を組む。
レイナはスマートフォンを操作していた。
「で、アカネ」
「何?」
「私、毎月積立やってみようかな」
アカネは少しだけ表情を柔らかくした。
「いいと思う」
「何買えばいい?」
瞬間。
アカネの笑顔が消えた。
「レイナ」
「はい」
「今までの講義、聞いてた?」
「あ」
レンジが爆笑する。
仁も笑う。
少佐まで、
「にゃあ」
と鳴いた。
「違う違う!」
レイナが慌てる。
「まず目的を決める! 期間を決める! 家計を見る!」
「それから?」
「リスクを考える!」
「それから?」
「商品を選ぶ!」
アカネが頷く。
「合格」
レイナが胸を撫で下ろす。
その隣で仁がスマートフォンを取り出した。
「よし。俺もNISA始めるか」
アカネが尋ねる。
「目的は?」
仁は真顔で答えた。
「億万長者」
「不合格」
「なんでだよ!」
再び会議室に笑い声が響いた。
その夜。
誰もいなくなった会議室。
ホワイトボードには、アカネが最後に書いた言葉だけが残っていた。
投資で未来を当てる必要はない。
未来が分からなくても生き残れる方法を選べばいい。
そして、その下。
誰かが小さく落書きしていた。
真壁仁 目標一億円
さらに、その横には別の筆跡で、
まず家計簿をつけろ。
と書かれていた。
翌朝。
「誰だこれ書いた奴!」
という仁の怒鳴り声が、
ヤタガラス本部中に響き渡った。
作中の制度部分は、2026年9月時点の成人向けNISAに合わせています。つみたて投資枠は年120万円、成長投資枠は年240万円、非課税保有限度額は合計1,800万円(うち成長投資枠1,200万円)で、売却した商品の簿価分は翌年以降に再利用できる仕組みです。金融庁も長期・積立・分散投資を前提とした制度設計を示しています。




