アカネの投資講座
ヤタガラス本部、午後八時四十分。
作戦室の大型モニターには、普段なら衛星写真や作戦区域の地図が映っている。
だが、その夜。
画面中央に表示されていたのは――
「第1回 一乗寺アカネの投資講座」
だった。
「……なんだこれは」
榊原宗一郎が腕を組んだ。
「見れば分かるでしょう。投資講座です」
一乗寺アカネは眼鏡を押し上げながら答えた。
普段と変わらない無表情。
ただし机の上には、ノートPC、電卓、ホワイトボード、そして大量の缶コーヒー。
明らかに本気だった。
その横では篠宮レイナが頬杖をついている。
「ねえアカネ。株ってさ、安い時に買って高い時に売ればいいんでしょ?」
「はい。講座終了です」
「え?」
「それが確実にできるなら、あなたは今頃世界一の富豪です」
「……なるほど」
レイナは素直に引き下がった。
後方では神代蓮司が笑っている。
「俺は知ってるぜ。チャートがこう……グッと下がったところで買って、ギュンと上がったところで売る」
アカネが振り返った。
「それを専門用語で何と言うか知っていますか?」
「押し目買い?」
「結果論です」
「辛辣だな」
さらに奥では真壁仁が腕を組んでいた。
「俺は昔、株で儲けた奴を何人も知ってるぞ」
「損した人は?」
「……もっと知ってるな」
「では、その時点で講義の半分は終わりました」
アカネはリモコンを押した。
画面が切り替わる。
そこには大きく一言。
『投資で最も重要なのは、儲けることではない』
黒崎剛士が眉を上げた。
「じゃあ何だ?」
アカネは答えた。
「退場しないことです」
室内が静かになった。
「投資は、一回勝てば終わりという競技ではありません」
アカネはホワイトボードに数字を書く。
100万円。
その横に、
+50%。
さらに、
-50%。
「100万円が50%上がれば?」
レイナが答える。
「150万円」
「その150万円が50%下がれば?」
「75万円」
「……あれ?」
レイナが首を傾げる。
「元に戻らない」
「そうです」
アカネは75万円に赤線を引いた。
「50%損した資産を元に戻すには、100%の利益が必要です」
レンジが口笛を吹く。
「結構えぐいな」
「だから大損を避けることは、大儲けすること以上に重要なんです」
アカネは続けた。
「投資初心者ほど、“何倍になる銘柄がありますか”と聞きます」
「聞きそうだな」
黒崎が呟く。
「でも本来聞くべきなのは、“どうすれば市場から追い出されずに済みますか”です」
仁が煙草の代わりに爪楊枝をくわえた。
「戦場みてえな話だな」
「ほぼ同じです」
アカネは即答した。
「弾を全部撃ち切った兵士は戦えません。資金を全部失った投資家も同じです」
その言葉に榊原だけが小さく頷いた。
長く部隊を率いてきた男には、妙に理解しやすい説明だった。
アカネは次のスライドを出した。
『敵その1 レバレッジ』
「借金して投資?」
サヤが尋ねた。
「広義にはそうです」
「危険?」
「使い方によります。ただし、自分が耐えられる損失を理解していない人間が使うと、非常に危険です」
レンジが笑う。
「つまり俺向きじゃない?」
「あなたはまず証券口座を開く前に性格を直してください」
「投資以前の問題だった」
レイナが吹き出した。
アカネは構わず続ける。
「例えば100万円しか持っていない人が、500万円分の取引をしたとします」
ホワイトボードに数字を書く。
500万円 × -20% = -100万円
「20%下落」
アカネは振り返る。
「資金は?」
レイナの顔から笑顔が消えた。
「……消えた」
「はい」
「怖っ」
「怖いと感じたなら正常です」
そして次。
『敵その2 集中投資』
「でもよ」
仁が言う。
「本当に自信のある会社なら、全部そこに突っ込んだ方が儲かるんじゃねえか?」
アカネは頷いた。
「成功すれば」
「だろ?」
「倒産しなければ」
「……」
「不祥事が起きなければ」
「……」
「粉飾決算がなければ」
「……」
「経営者が突然逮捕されなければ」
仁が手を上げた。
「もういい」
「では質問です」
アカネは全員を見る。
「皆さんは、どれだけ調べれば“絶対に安全”と言えますか?」
誰も答えない。
「そんな会社はありません」
アカネは淡々と言った。
「だから分散するんです」
レイナが手を挙げる。
「いっぱい買えば安全?」
「雑すぎます」
「違うの?」
「同じような値動きをするものを百個買っても、真の意味では分散されていません」
「難しくなってきた」
「だから世界中の企業に広く分散するインデックス投資が、多くの人にとって合理的な選択肢になるんです」
黒崎が腕を組む。
「派手さはないな」
「投資に派手さを求める時点で危険信号です」
「……耳が痛い奴が何人かいるな」
黒崎がレンジを見る。
「なんで俺を見るんです?」
「お前だからだ」
その瞬間。
作戦室の扉が開いた。
九条ホオズキが入ってきた。
「何をしている」
全員が少し姿勢を正す。
アカネだけは平然としていた。
「金融教育です」
ホオズキはモニターを見る。
そこには、
『複利』
と表示されている。
「……続けろ」
「代表も受講されますか?」
「聞くだけだ」
ホオズキは壁際に立った。
アカネは少しだけ口元を緩めた。
そしてホワイトボードに書く。
100万円。
年利5%。
一年後、105万円。
二年後、110万2500円。
三年後、115万7625円。
「利益が利益を生む」
サヤが言った。
「そうです」
アカネは頷く。
「複利の本質は、“時間を味方につけること”です」
レイナが計算機を叩く。
「じゃあ年5%で30年なら結構増える?」
「100万円なら約432万円です」
「えっ」
レンジが身を乗り出した。
「何もしてないのに?」
「何もしていません。ただし、30年間売らずに耐えられれば」
「……それが難しいんだな」
「非常に」
アカネは次のスライドを表示した。
『市場は定期的に暴落する』
「30年間持っていれば、暴落にも遭遇します」
-20%。
-30%。
-40%。
数字が並ぶ。
レイナの顔が引きつる。
「こんなに下がるの?」
「あります」
「その時どうするの?」
「基本的には何もしません」
「怖くて無理」
「だから投資は知識より精神力の方が重要なんです」
榊原が低い声で笑った。
「待つことも任務か」
「そういうことです」
アカネは榊原を見る。
「作戦中、状況が動かないからといって、毎分配置を変えますか?」
「変えん」
「投資も同じです」
榊原は深く頷いた。
「なるほどな」
黒崎がぼそりと言う。
「榊原さん、今日一番納得してるな」
その頃。
仁は手元のスマートフォンを操作していた。
アカネが見逃すはずもない。
「仁さん」
「なんだ」
「何を買おうとしています?」
「いや」
「画面を見せてください」
「プライバシーってもんがあるだろ」
「見せてください」
「……」
渋々スマートフォンを差し出す。
アカネが画面を見る。
数秒沈黙。
「聞いたこともない新興企業ですね」
「これから来るらしい」
「誰が言いました?」
「知り合い」
「その知り合いは金融の専門家?」
「いや」
「企業分析は?」
「してねえ」
「財務諸表は?」
「読んでねえ」
「事業内容は?」
「AI」
「具体的には?」
「……すごいAI」
作戦室に沈黙が落ちた。
レンジが吹き出す。
「“すごいAI”!」
レイナが腹を抱える。
「それ投資じゃなくてお布施じゃん!」
仁の額に青筋が浮く。
「うるせえ!」
アカネはスマートフォンを返した。
「投資判断の基準を一つ教えます」
仁が不機嫌そうに見る。
「何だ」
「理解できないものに投資しない」
「……」
「少なくとも、“どうやってその会社が利益を出しているか”くらいは説明できるようにしてください」
ホオズキが壁際から口を開いた。
「アカネ」
「はい」
「では優れた投資家とは、何だ」
全員の視線がアカネに集まった。
少しだけ考える。
アカネはホワイトボードに三つの言葉を書いた。
欲張らない。
慌てない。
死なない。
レンジが眉を上げた。
「最後だけ急に物騒だな」
「資産的に、です」
アカネはペンを置く。
「一度の大勝ちを狙う人間より、何十年も市場に残り続ける人間の方が強い」
ホオズキは三つの言葉を眺めた。
「戦場と同じだな」
「はい」
アカネは答えた。
「英雄になろうとした兵士から死にます」
室内が少し静かになる。
アカネは続けた。
「投資も同じです。“一発逆転”を狙う人ほど、大抵は途中でいなくなる」
そして最後のスライド。
『金持ちになる方法』
全員が画面を見る。
レンジが身を乗り出した。
「お、来た」
レイナも目を輝かせる。
「これ一番大事なやつじゃん」
表示された文字は三行だけだった。
収入より少なく使う。
余った金を長期で運用する。
それを何十年も続ける。
沈黙。
レンジが言った。
「……地味」
「現実です」
レイナが言う。
「もっとこう、秘密の銘柄とかないの?」
「ありません」
「絶対上がる株は?」
「ありません」
「簡単に億万長者になる方法は?」
「相続」
「投資ですらない!」
珍しくホオズキが小さく笑った。
講義終了後。
全員が作戦室を出ていく。
榊原は資料を持ち帰った。
サヤは積立投資についてアカネに質問した。
レンジは最後まで「10倍株」を探していたので、アカネにノートPCを没収された。
そして仁は――
例の「すごいAI会社」の購入画面を閉じていた。
アカネがそれを見る。
「買わないんですか?」
「うるせえ」
仁は立ち上がる。
「少し調べてからにする」
「それでいいです」
「ただし」
仁が振り返った。
「儲かったら飯奢れよ」
アカネが眉を上げる。
「なぜ私が?」
「先生料だ」
「意味が分かりません」
仁は笑いながら出ていった。
作戦室にはアカネとホオズキだけが残った。
ホオズキはまだホワイトボードを見ている。
欲張らない。
慌てない。
死なない。
「いい言葉だ」
「投資では、ですが」
「会社経営にも使える」
アカネは少し考えた。
「……そうかもしれません」
ホオズキは部屋を出ようとして、ふと立ち止まった。
「アカネ」
「はい」
「私も少し始めてみようと思う」
「投資を?」
「ああ」
アカネの目が僅かに輝いた。
「ではまず、資産配分から――」
「ただし」
ホオズキがスマートフォンを見せる。
画面には、とある企業の株価。
アカネは固まった。
「代表」
「何だ」
「一銘柄に全財産を入れようとしていませんか?」
「この会社は気に入った」
「今日の講義を最初から聞いていました?」
「聞いていた」
「ではなぜです」
ホオズキは真顔で答えた。
「勘だ」
数秒。
アカネは深く息を吸った。
そして――
「全員、戻ってきてください!」
廊下の向こうからレンジの声が飛んだ。
「代表がやらかした!?」
レイナの声も続く。
「第二回始まる!?」
その夜。
『第2回 一乗寺アカネの投資講座――代表を破産させないために』
が緊急開催された。
なお。
講義は午前零時を過ぎても終わらなかった。
ヤタガラスにおいて最も長時間に及んだ作戦会議は、
銃撃戦でも。
人質救出でも。
国際テロ対策でもなく。
九条ホオズキに「一銘柄全力投資」を諦めさせる会議だったという。




