↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
31/43

アカネの会計講座



――数字が合わない奴から死んでいく


午後七時。


ヤタガラス本部、第三会議室。


普段なら作戦会議や情報分析に使われる大型モニターには、今日に限って敵拠点の衛星写真も、武装勢力の配置図も映っていなかった。


そこに表示されていたのは、


貸借対照表


の五文字だった。


篠宮レイナは、開始五分ですでに死んだ目をしていた。


「……帰っていい?」


「駄目です」


一乗寺アカネが即答した。


ホワイトボードの前。


白いブラウスに黒いパンツ。


片手にはマーカー。


そして眼鏡。


普段から冷静な女ではあったが、今日のアカネは何かが違った。


妙に生き生きしている。


「本日の講義は、ヤタガラス所属員向け基礎会計です」


「なんで傭兵会社で簿記やんだよ」


真壁仁が机に肘をついた。


「俺らの仕事は撃つことだろ」


アカネは仁を見た。


「弾薬は無料ですか?」


「違う」


「車両燃料は?」


「金かかるな」


「防弾プレートは?」


「高い」


「負傷者の治療費は?」


「もっと高い」


「では撃つためには?」


仁はしばらく考えた。


「……金がいる」


「正解です」


アカネはホワイトボードに大きく書いた。


戦争=経済活動


神代レンジが吹き出した。


「夢がねえなあ」


「夢で5.56ミリ弾は購入できません」


「はい先生」


「返事だけは優秀ですね、神代さん」


後方では久世冬馬がノートPCを開き、本気でメモを取っていた。


その隣では御影サヤが腕を組み、真面目な顔をしている。


そしてレイナは机に突っ伏していた。


「まだ五分しか経ってない……」


「篠宮さん」


「はい」


「寝たら小テストを追加します」


レイナが起きた。


恐るべき即応能力だった。


*


「では最初に、資産とは何でしょう」


アカネが質問する。


沈黙。


久世が答えた。


「企業が保有し、将来的な経済価値を生むもの」


「正解です」


「現金、設備、車両、売掛金などですね」


「その通り」


アカネは満足げに頷いた。


仁が手を挙げた。


「拳銃」


「資産です」


「ライフル」


「資産です」


「装甲車」


「資産です」


仁はニヤリとした。


「じゃあ俺も資産だな」


アカネは数秒黙った。


「人間は貸借対照表に計上しません」


「なんでだよ」


「減価償却が面倒だからです」


レンジが盛大に吹いた。


「仁さん中古扱い!」


「ぶっ殺すぞ」


「はい私語しない」


アカネが机をマーカーで叩いた。


ぴたりと静かになる。


黒崎剛士は後ろの席で腕を組みながら、一連の光景を眺めていた。


「学校だな」


榊原宗一郎が隣でコーヒーを飲む。


「教師が優秀なら、生徒が多少悪くても成立する」


「多少か?」


黒崎は仁とレンジを見た。


榊原も見た。


「……かなりだな」


*


講義開始から二十分。


アカネは貸借対照表の図を描いた。


左に資産。


右に負債と純資産。


「必ず左右は一致します」


レイナが手を挙げる。


「なんで?」


「そういう仕組みだからです」


「納得できない」


「納得してください」


「左右が違ったら?」


「どこかが間違っています」


仁が言った。


「多少合わなくてもいいんじゃねえの?」


アカネが止まった。


ゆっくり仁を見る。


「……多少?」


「百円とか」


「駄目です」


「一円なら?」


「駄目です」


「一円だぞ?」


アカネは静かに微笑んだ。


それを見たサヤが小声で言った。


「仁さん、やめたほうがいいです」


「なんでだ」


「今、一番危ない顔してます」


アカネは言った。


「真壁さん」


「おう」


「狙撃手が一ミル照準を間違えたら?」


「距離によっちゃ外すな」


「爆薬の量を適当に決めたら?」


「死ぬ」


「座標を一桁間違えたら?」


「味方が死ぬかもしれん」


「会計も同じです」


アカネはホワイトボードに一円と書いた。


そして丸で囲った。


「この一円が、単なる入力ミスなのか」


もう一つ丸を書く。


「一万円のミスの一部なのか」


さらに丸を書く。


「一千万円の横領の入口なのか」


部屋が静かになった。


「数字そのものではなく、なぜ合わないのかを見る。それが会計です」


久世が頷いた。


「異常検知と似ている」


「まさにそうです」


アカネは言った。


「会計帳簿は企業のログです」


久世の眼鏡が光った。


「その説明なら急に理解できますね」


「ずりぃぞ久世」


仁が言った。


「自分の分野に持ち込むな」


「理解できるモデルに変換してるだけです」


「俺向けにも変換しろ」


アカネが考える。


「帳簿は裏社会の金の流れです」


仁の姿勢が変わった。


「なるほど」


レイナが顔を上げる。


「私向けは?」


「敵組織の行動パターンです」


「分かった」


レンジが手を挙げた。


「俺向けは?」


アカネは三秒考えた。


「嘘を見抜くゲームです」


レンジが前のめりになった。


「最初からそう言えよ」


「皆さん同じ説明で理解してください」


アカネは額を押さえた。


*


次は損益計算書だった。


アカネが書く。


売上。


費用。


利益。


「簡単に言えば、入ってきたお金から使ったお金を引いて、いくら残ったかを見るものです」


「それなら分かる」


レイナが言った。


「給料から服と酒と外食代引いたら残らない」


「それは損益計算書以前の問題です」


「でも経済は回してる」


「篠宮さん個人の消費で日本経済を背負わないでください」


レンジが笑う。


「レイナ、GDPに貢献してんな」


「でしょ?」


「褒めてません」


今度はアカネが資料を配った。


「では問題です」


そこには簡単な例が書かれていた。


依頼報酬一千万円。


人件費三百万円。


装備費百五十万円。


輸送費百万円。


情報費五十万円。


「利益はいくらでしょう」


「四百万」


サヤが即答した。


「正解です」


仁が紙を見る。


「待て」


「何でしょう」


「弾薬費が入ってねえ」


「例題ですから」


「現場を舐めるな。弾は減る」


「では五十万円追加します」


黒崎が言った。


「車両整備費も必要だろう」


「追加します」


榊原。


「保険料」


「追加」


久世。


「衛星回線使用料とクラウド費用」


「追加」


レイナ。


「終わった後の打ち上げ」


「却下」


レンジ。


「精神的損害」


「却下」


仁。


「俺の煙草代」


「自費です」


サヤ。


「少佐の餌代」


アカネは止まった。


全員が見る。


会議室の端。


いつ入ってきたのか、猫の少佐が椅子の上で丸くなっていた。


アカネは静かに資料へ書き足した。


福利厚生費 少佐 3,000円


「入るんだ」


レイナが言った。


「必要経費です」


「基準おかしくない?」


*


そして講義は、いよいよ減価償却へ突入した。


アカネが説明を始めて三分。


仁は完全に沈黙した。


レイナは遠い目をしていた。


レンジはシャープペンを指で回していた。


サヤだけが何とかついていく。


久世はむしろ楽しそうだった。


「つまり購入した設備の費用を、使用期間に応じて分配する」


「そうです」


「合理的ですね」


「でしょう?」


二人だけの世界が形成されていた。


仁がレイナに囁く。


「何言ってるか分かるか?」


「一文字も」


「俺もだ」


レンジが割って入る。


「簡単だって。百万円の車を買って十年使うなら、一年十万円ずつ使ったことにする感じ」


アカネが振り返る。


「神代さん」


「ん?」


「合っています」


「ほら」


レイナが驚愕した。


「なんで分かるの?」


レンジは肩をすくめた。


「俺、こう見えて金の計算はちゃんとするタイプ」


仁が鼻で笑う。


「女に使った金は?」


「必要経費」


「却下です」


アカネが即答した。


*


一時間後。


講義終了。


机に突っ伏す者。


復習する者。


煙草を吸いに行こうとする者。


アカネは最後にホワイトボードへ一文を書いた。


利益が出ている会社が、必ずしも金を持っているとは限らない。


「最後に一つ」


皆が顔を上げる。


「企業は利益だけを見ていればいいわけではありません」


アカネは言った。


「帳簿上は黒字でも、手元の現金がなければ倒産します」


久世が続ける。


「黒字倒産ですね」


「そうです」


レイナが首を傾げた。


「儲かってるのに倒産するの?」


「します」


「意味分かんない」


アカネは少し考えた。


そして例えた。


「篠宮さん」


「はい」


「あなたの銀行口座に来月百万円振り込まれる予定だとします」


「嬉しい」


「でも今日財布に百円しかありません」


「悲しい」


「今夜五万円払わなければ殺されます」


「死ぬ」


「そういうことです」


レイナは深く頷いた。


「めちゃくちゃ分かった」


アカネは疲れた顔をした。


「なぜ皆さん、物騒な例えだと理解が早いんですか」


黒崎が低く笑う。


「職業病だ」


榊原も立ち上がった。


「だが悪くない講義だった」


「ありがとうございます」


「特に最後の話は重要だ。組織は金が止まれば動かなくなる」


榊原は部屋を見渡した。


「兵站と同じだ」


アカネが頷く。


「その通りです」


武器があっても。


人がいても。


情報があっても。


金が止まれば組織は止まる。


ヤタガラスは戦う会社だ。


だが、戦うためには食料がいる。


燃料がいる。


通信回線がいる。


給料がいる。


つまり。


金がいる。


仁が立ち上がった。


「なるほどな」


「理解しましたか?」


「ああ」


仁は真剣な顔で言った。


「経理を怒らせちゃいけねえ」


一瞬の沈黙。


アカネが頷いた。


「今日一番重要なことを理解しましたね」


レンジが笑う。


「結論それかよ」


そのとき。


机の上に置かれていた領収書を少佐が前足で落とした。


ひらり。


床へ落ちる。


アカネの視線がそれを追う。


拾う。


見る。


眉が動いた。


「……真壁さん」


「ん?」


「この昨日の領収書」


嫌な予感がしたのか、仁が一歩下がった。


「交際費、四万八千円」


「……必要経費だ」


「摘要欄が空白です」


「情報収集」


「店名が『クラブ・ヴィーナス』ですが」


静寂。


レンジが口笛を吹く。


レイナは笑いを堪えている。


サヤは目を逸らした。


黒崎が仁を見る。


「情報収集か」


「……そうだ」


「何の情報だ」


「……裏社会の」


アカネは領収書を机に置いた。


笑顔だった。


それは今日一番恐ろしい笑顔だった。


「真壁さん」


「はい」


「補講です」


「待て」


「領収書処理について、マンツーマンで二時間」


「待て待て待て」


「逃げたら三時間です」


「アカネ!」


仁が助けを求めて周囲を見回した。


全員が視線を逸らした。


レンジだけが仁の肩を叩いた。


「頑張れよ」


「お前も来い!」


「俺の領収書は完璧だから」


「嘘つけ!」


アカネがホワイトボードに新しい文字を書いた。


第二講 経費精算


仁の顔から血の気が引いた。


その夜。


ヤタガラス本部第三会議室では、


銃声より恐ろしい男の悲鳴が、


午後十時過ぎまで響いていたという。


――了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。