利回り8パーセントの男
ヤタガラス本部の応接室に、その男は自信満々で座っていた。
四十代半ば。
紺色のスーツに高級腕時計。
髪はきっちり撫でつけられ、革靴には一点の曇りもない。
テーブルの上には、金色の文字で印刷されたパンフレットが置かれている。
《PREMIUM GLOBAL ASSET PARTNERS》
その下には、さらに大きな文字。
元本保証。月利8%。富裕層限定。
向かいに座る九条ホオズキは、そのパンフレットを一度だけ見た。
「……で?」
男は笑った。
「御社のような企業様には、ぜひ特別枠をご案内したいと思いまして」
「投資の勧誘か」
「ええ。ただの投資ではありません」
男は身を乗り出した。
「AIを利用した国際間アービトラージです」
ホオズキの隣にいた神代レンジが、小声で言う。
「出た。AI」
その横の篠宮レイナも囁いた。
「便利な単語ですよねえ」
男は聞こえていないふりをした。
「世界十二市場の価格差を弊社独自のAIが検出し、ミリ秒単位で取引します。そのためリスクを限りなくゼロに抑えつつ、安定して月利八パーセントを――」
「月利八パーセント?」
声がした。
部屋の隅。
ノートパソコンを開いていた一乗寺アカネが顔を上げた。
「はい」
男は笑顔を向ける。
「非常に優秀な運用システムでして」
アカネは電卓を取り出した。
数秒。
「複利ですよね?」
「え?」
「利益を再投資できるんでしょう?」
「もちろんです」
アカネは画面を見た。
「では一年で約2.52倍ですね」
男の笑顔が、ほんの少し止まった。
レンジが振り向く。
「そんな増える?」
「月利八パーセントならね」
アカネは淡々と言った。
「1000万円なら一年後、約2518万円」
レイナが口笛を吹いた。
「すごーい」
男が咳払いする。
「まあ……理論上は」
アカネは続けた。
「五年運用したら?」
また電卓を叩く。
「約101倍」
沈黙。
レンジが男を見る。
「一億になる?」
「十億くらい」
「……マジで?」
「理論上は」
アカネは男を見た。
「この人の説明が本当なら」
男の眉がわずかに動いた。
「もちろん市場状況によりまして――」
「先ほど『安定して月利八パーセント』とおっしゃいましたよね」
「平均的には、です」
「なるほど」
アカネはメモを取った。
カリカリ。
その音だけが妙に大きい。
「では最大ドローダウンは?」
「……はい?」
「最大ドローダウン」
「ええ、ですからAIが――」
「シャープレシオは?」
「……」
「運用開始から現在までの月次リターン」
「……」
「ベンチマークは?」
「……」
「監査法人は?」
男の笑顔が消え始めた。
アカネはまだ止まらない。
「顧客資産の分別管理先はどこです?」
「海外の信託銀行です」
「銀行名」
「それは機密事項でして」
「顧客の金を預ける銀行名が?」
「弊社独自の――」
「カストディアンは?」
「……」
「プライムブローカーは?」
「……」
「約定履歴は第三者検証できます?」
「お客様には月次報告書を――」
「御社が作った報告書ですよね」
「当然です」
「それ、証拠になりませんよ」
アカネは笑った。
にこり、と。
なぜかその笑顔を見て、レンジが少し椅子を引いた。
レイナも囁く。
「アカネさん怒ってる」
「怒ってるな」
「笑ってるけど」
「あの人、怒ると笑うんだよ」
男は苛立ったようにネクタイを直した。
「細かい部分ばかり気にされますね」
「お金の話って、細かい部分が全部なんですよ」
アカネは答えた。
そしてパンフレットを一枚めくった。
「次」
指を置く。
元本保証。
「これ」
「はい。当社の最大の強みです」
「誰が保証するんです?」
「弊社です」
「御社が破綻した場合は?」
「弊社は破綻いたしません」
部屋が静かになった。
レンジが天井を見た。
レイナが口元を押さえた。
ホオズキだけが無表情だった。
アカネはもう一度尋ねた。
「御社が破綻した場合は?」
「ですから破綻しないよう――」
「聞いてません」
声は穏やかだった。
「倒産したと仮定してください」
「……」
「元本保証というのは、保証する主体に支払い能力があって初めて意味を持ちます」
アカネはパンフレットを指先で軽く叩いた。
「あなた自身が『絶対に破産しません』と言って自分の借金を保証しても、信用補完にはならない」
レンジが吹き出した。
「確かに」
「神代さん」
「はい」
「黙って」
「はい」
アカネはさらに資料をめくった。
「それから御社」
会社概要。
所在地。
海外法人。
聞いたこともない島国の住所。
「日本国内で勧誘していますよね」
「グローバル企業ですので」
「金融商品取引業の登録番号は?」
「海外法人なので不要です」
「日本居住者に継続的に金融商品の勧誘をしているのに?」
男が黙った。
「登録番号」
「……申請中です」
アカネの手が止まった。
「申請中?」
「はい」
「では現在は?」
「……」
「未登録」
「法的解釈については専門家の――」
「専門家?」
アカネが笑った。
「顧問弁護士のお名前は?」
「守秘義務があります」
「弁護士の名前に?」
「……」
「所属弁護士会は?」
「……」
「事務所名は?」
「……」
「……なるほど」
アカネはノートパソコンを閉じた。
パタン。
なぜか、その音だけで男の肩が跳ねた。
しかし彼も詐欺師として場数を踏んでいた。
ここで引けば負けだと思ったのだろう。
姿勢を立て直す。
「一乗寺さんでしたか」
「はい」
「あなたは投資というものを理解していない」
レンジが目を丸くした。
レイナは「あーあ」という顔をした。
ホオズキだけが紅茶を飲んだ。
男は続ける。
「新しい金融システムを古い常識で判断してはいけません」
アカネは黙っている。
「ブロックチェーン、AI、量子アルゴリズム、分散型金融……世界は急速に変化しています」
「はい」
「我々はその最前線にいる」
「はい」
「だからこそ旧来の金融機関には実現できない利回りを――」
「ところで」
アカネが遮った。
「御社の利益はどこから出ています?」
男が止まった。
「先ほど説明した通り、アービトラージです」
「具体的に」
「国際市場間の価格差です」
「どの商品?」
「様々です」
「例えば?」
「暗号資産、為替、コモディティ……」
「どこの取引所?」
「複数です」
「一回の価格差は何ベーシスポイント?」
「企業秘密です」
「手数料は?」
「……」
「スプレッドは?」
「……」
「スリッページは?」
「……」
「税引前? 税引後?」
「……」
「為替ヘッジコストは?」
「……」
男の額に汗が浮かんだ。
アカネは淡々と続けた。
「世界中の機関投資家やヘッジファンドが何千億円も投入して競争している市場で、取引コストを全部引いたあと月八パーセントを安定的に出せる」
「……」
「しかも元本保証」
「……」
「しかも富裕層にわざわざ営業して資金を集めている」
アカネは首を傾げた。
「なぜ?」
男は答えない。
「それほど儲かるなら」
アカネは電卓を男の前に置いた。
「自分たちの資金だけで運用すればいいでしょう?」
沈黙。
「銀行から年数パーセントで資金を借りてもいい」
沈黙。
「月八パーセント稼げるなら、資金調達コストなんて誤差ですよね」
男の喉が動いた。
「なのに」
アカネは静かに言った。
「あなたは今日ここへ来た」
「……」
「知らない会社を訪問して」
「……」
「パンフレットを配って」
「……」
「他人から1000万円、2000万円を集めようとしている」
アカネは男の目を見る。
「どうしてです?」
男は何も言わなかった。
部屋の空気が完全に変わった。
さっきまでの営業マンではない。
追い詰められた男が座っている。
アカネは最後のページを開いた。
「それともう一つ」
男の顔が引きつる。
「紹介者報酬」
パンフレットには小さく書かれていた。
新規顧客紹介につき投資額の10%を還元。
「1000万円投資する人を連れてきたら100万円」
「販売促進費です」
「金融商品の運用益より、新しい出資者を連れてきた報酬の方が明確ですね」
「……」
「新規資金が入り続けている間は、既存顧客への配当を払える」
男の目が細くなった。
「何が言いたいんです?」
「言わせたいんですか?」
アカネが微笑んだ。
今度はレンジもレイナも笑わなかった。
「ポンジ・スキーム」
男が立ち上がった。
「侮辱だ!」
初めて大声を出した。
「証拠もないのに!」
ホオズキの視線が男に向いた。
ただそれだけで、男の声が半分になる。
それでも男は怒鳴った。
「名誉毀損だ! 弁護士を呼ぶぞ!」
アカネは平然としていた。
「ぜひ」
「……何?」
「呼んでください」
「……」
「顧問弁護士」
アカネはスマートフォンをテーブルに置いた。
「さっきいるって言いましたよね?」
男は黙った。
「ここで電話してください」
「……」
「待っています」
「……」
一秒。
二秒。
三秒。
男はスマートフォンを取り出さなかった。
アカネが言う。
「いないんですね」
「……」
「監査法人も」
「……」
「カストディアンも」
「……」
「元本保証の裏付けも」
「……」
「金融商品取引業の登録も」
「……」
「そして、おそらくAIも」
完全な沈黙。
少佐がどこからともなく応接室に入ってきた。
猫は男の靴を嗅いだ。
そして興味を失ったようにアカネの足元へ歩いていった。
レンジが呟く。
「少佐のデューデリジェンスも不合格らしい」
レイナが肩を震わせた。
男は鞄を掴んだ。
「失礼する」
「どうぞ」
アカネは止めなかった。
男がドアへ向かう。
その背中にアカネが言った。
「あ、一つだけ」
男が振り返る。
「何だ」
「今日ここに来る前」
アカネは再びノートパソコンを開いた。
「三件回ってますよね?」
男の顔色が変わった。
「……何のことだ」
「午前十時、城南区の町工場」
男の指が止まる。
「十一時四十分、個人経営の薬局」
「……」
「十三時十分、六十八歳の男性宅」
「……なぜ」
「相談を受けていたんです」
アカネの声から笑みが消えた。
「ここ数週間、同じパンフレットを持った男が高齢者や中小企業経営者を回っている、と」
男はドアノブを握ったまま動かない。
「だから」
アカネは言った。
「あなたが今日来ることも知っていました」
男の額から、一筋の汗が落ちた。
ホオズキがカップを置く。
「つまり」
低い声。
「最初から待っていた」
「はい」
アカネが答えた。
「営業を受けるためじゃありません」
応接室の外から足音がした。
御影サヤがドアを開ける。
「代表」
その後ろには、スーツ姿の捜査員が二人立っていた。
「来ました」
男の顔から血の気が消えた。
レンジが椅子にもたれた。
「うわぁ……」
レイナが言う。
「最初から詰んでたんだ」
男はアカネを睨んだ。
「……罠にはめたのか」
アカネは首を横に振る。
「違います」
「何が違う!」
「私は質問しただけです」
静かな声だった。
「あなたが自分で答えられなかったんですよ」
男は何も言えなかった。
捜査員に促され、応接室を出ていく。
最後まで、高級革靴の音だけは立派だった。
ドアが閉まった。
しばらく静寂が続いた。
そしてレンジが口を開いた。
「……怖っ」
アカネが振り返る。
「何が?」
「いや」
レンジは姿勢を正した。
「何でもありません」
レイナが笑った。
「銃持ってる人より怖かったですよ、今」
「失礼ね」
アカネは資料をまとめ始めた。
ホオズキが尋ねる。
「しかし、よくあれだけ即座に数字が出るな」
「月利八パーセントなんて言われたら計算したくなるでしょう?」
「普通はならない」
「そうですか?」
アカネは不思議そうな顔をした。
少佐を抱き上げる。
「でも詐欺って、意外と単純なんですよ」
レイナが首を傾げる。
「というと?」
アカネは猫の顎を撫でながら言った。
「難しい言葉を全部取り除けばいいんです」
「AIとか?」
「そう」
「ブロックチェーンとか?」
「そう」
「量子なんとか?」
「そうそう」
レンジが尋ねた。
「全部取ったら何が残る?」
アカネは答えた。
「誰が」
少佐が喉を鳴らす。
「誰のお金を」
ごろごろ。
「どうやって増やして」
ごろごろ。
「失敗したら誰が損するのか」
アカネは微笑んだ。
「それだけ」
ホオズキは少し考えた。
「戦闘と似ているな」
「え?」
「派手な装備や作戦名を取り除けばいい」
ホオズキは立ち上がった。
「誰が敵で」
「はい」
「何を守って」
「はい」
「失敗すれば誰が死ぬか」
アカネは一瞬黙った。
そして笑う。
「……確かに」
レンジが感心したように頷く。
「代表、たまにいいこと言うな」
ホオズキがレンジを見る。
「神代」
「はい」
「今日の訓練、二倍」
「なんで!?」
レイナが爆笑した。
アカネは少佐を抱いたまま応接室を出ていく。
廊下を歩きながら、小さく呟いた。
「月利八パーセントか……」
少佐が、
「にゃあ」
と鳴く。
アカネは猫を見下ろした。
「少佐も怪しいと思いますよね?」
「にゃ」
「ですよね」
その日のヤタガラス本部で、
銃も、
刀も、
拳も使われなかった。
詐欺師を追い詰めたのは、
一台の電卓と、
いくつかの質問だけだった。




