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休日の使い方



――篠宮レイナ


午前十時三十二分。


篠宮レイナは、ベッドの上で目を開けた。


「…………」


天井を見る。


もう一度、目を閉じる。


三秒後。


「やっば」


跳ね起きた。


普段なら午前六時には起きている。


六時十分にはシャワー。


六時三十分には装備点検。


七時前にはヤタガラス本部の食堂で、誰かのコーヒーを勝手に一口飲んで怒られている。


だが今日は違う。


休日だった。


しかも完全休養日。


訓練なし。


報告書なし。


待機指定なし。


久世冬馬からのシステム更新通知も――たぶん無視していい。


レイナは枕元のスマートフォンを手に取った。


通知、十三件。


三件が広告。


二件が通販サイト。


一件が天気予報。


一件がアカネから送られてきた、意味不明な猫の動画。


残り六件。


すべてヤタガラスの業務用グループチャットだった。


レイナは静かにスマートフォンを伏せた。


「見てない。私は何も見てない」


そして再び布団へ潜った。


三十秒後。


スマートフォンを取る。


「……一応ね。一応」


職業病だった。


---


昼前。


レイナは街を歩いていた。


長いアッシュブロンドの髪を下ろし、黒いキャップを深めに被っている。


白いTシャツ。


薄手のジャケット。


細身のデニム。


スニーカー。


武器もない。


プレートキャリアもない。


無線機もない。


街にいる、ごく普通の二十四歳の女性だった。


少なくとも外見上は。


「おー……」


交差点の前で立ち止まる。


休日の商店街。


家族連れ。


学生。


カップル。


買い物袋を提げた老人。


配達員。


観光客。


レイナの視線が自然と流れる。


右の路地。


出口二ヶ所。


防犯カメラ三台。


一台は故障中。


後方二十メートル、黒いパーカーの男。


スマートフォンを見ている。


尾行ではない。


左側のカフェ。


窓際席から入口が見える。


非常口は奥。


厨房経由でも抜けられる。


「……」


レイナは額を押さえた。


「休日だっての」


自分に言い聞かせる。


今日の目的はただ一つ。


何もしないこと。


極めて高度な任務だった。


篠宮レイナにとっては。


---


最初に入ったのは、小さな雑貨屋だった。


特に欲しいものはない。


だからこそ入った。


店内にはマグカップやアクセサリー、アロマキャンドル、妙な形のクッションなどが並んでいる。


その中でレイナは、一匹の黒猫を模した小さな置物を手に取った。


前足を上げている。


妙に偉そうな顔をしていた。


「少佐そっくり」


思わず笑う。


値札を見る。


千二百円。


「高っ」


戻す。


三秒後。


また取る。


「……でも似てるな」


戻す。


五秒後。


レジへ持っていった。


店員が笑顔で言った。


「プレゼントですか?」


「え?」


「ラッピングできますけど」


レイナは少し考えた。


「……自分用です」


「はい」


「いや」


言い直す。


「同僚用です」


黒猫本人を同僚に含めていいのかは分からない。


---


昼食は商店街の奥にある古びた洋食屋にした。


窓際ではなく、あえて店の中央の席に座った。


これはレイナなりの挑戦だった。


背後に人がいる。


出口が見えない。


落ち着かない。


非常に落ち着かない。


「……」


三十秒耐えた。


一分。


二分。


結局、椅子をほんの少し斜めにした。


入口が視界の端に入る角度。


「妥協、妥協」


注文したのはオムライスだった。


しばらくして運ばれてきた皿を見て、レイナは目を丸くする。


ケチャップで笑顔が描かれていた。


「わぁ」


思わず声が出た。


その瞬間だけ。


特殊偵察班副班長でもなければ、


潜入工作員でもなかった。


ただの二十四歳だった。


スマートフォンを取り出す。


写真を撮る。


送信相手を選ぶ。


ホオズキ。


やめる。


サヤ。


やめる。


久世。


絶対やめる。


黒崎。


そもそも業務外。


結局、ヤタガラス女子グループに送った。


《見て。かわいい》


数秒後。


既読。


アカネ。


《レイナがオムライス食ってる》


レイナ。


《食うけど?》


アカネ。


《血とか飲んでると思ってた》


レイナ。


《今度あんたで試すね》


サヤ。


《店内で揉めないようにしてくださいね》


レイナはスマートフォンを見ながら笑った。


「なんで私いないのに通常運転なのよ」


少しだけ。


嬉しかった。


---


午後二時。


映画館へ入った。


選んだのは恋愛映画だった。


特殊部隊も出ない。


銃撃戦もない。


テロリストも出ない。


爆発もしない。


ごく普通の男女が出会い、


すれ違い、


喧嘩をして、


最後に駅で抱き合う。


上映終了。


客席のあちこちから鼻をすする音が聞こえる。


レイナも目元を指で拭った。


「……反則でしょ」


隣に座っていた女子高生二人が泣いていた。


前の席の男性も泣いていた。


レイナは少し笑う。


映画館を出たあと、売店の前でポスターを振り返った。


任務なら、人間の感情は読むものだった。


表情。


声。


視線。


手。


呼吸。


嘘。


恐怖。


躊躇。


敵意。


全部、情報になる。


だからレイナは、人間を見ることには慣れている。


けれど。


何の役にも立たない物語を見て、


何の意味もなく泣く。


そういう時間は、昔の彼女にはほとんどなかった。


「……悪くないね」


ぽつりと言った。


---


夕方。


公園のベンチに座り、アイスコーヒーを飲んでいた。


子供たちが走っている。


父親が追いかける。


犬が吠える。


自転車が通る。


鳩が群がる。


平和だった。


恐ろしく平和だった。


その平和さに、レイナは時々戸惑う。


以前いた会社では、


休みの日でさえ電話が鳴った。


任務。


変更。


追加契約。


急な派遣。


現地で何か起きれば、上は簡単に言った。


――撤収しろ。


――契約外だ。


――そこから先は自己責任だ。


そしてある日。


本当に見捨てられた。


会社から。


仲間ごと。


置いていかれた。


それ以来、レイナは会社というものを信用しなくなった。


人は信用できても、


組織は信用しない。


そう決めていた。


ヤタガラスに入るまでは。


スマートフォンが震えた。


業務連絡ではない。


ホオズキからだった。


《休日中にすまない》


レイナは少し眉を上げた。


続きが届く。


《少佐の餌を買う者がいない》


「知らんがな」


思わず声が出た。


さらに一通。


《全員、自分は担当ではないと言っている》


「そりゃそうでしょ」


《帰りに寄れそうなら頼む》


最後に。


《無理ならいい》


レイナはスマートフォンを眺めた。


それから笑った。


「代表さぁ……」


休日の部下に連絡してきた内容が、


猫の餌。


世界でもかなり平和なPMCだと思う。


レイナは返信した。


《報酬は?》


数秒。


《経費》


《つまんない》


《プリン》


レイナの指が止まった。


《交渉成立》


---


午後六時過ぎ。


ヤタガラス本部。


「ただいまー」


レイナが袋を提げて入ってくる。


食堂には数人の隊員がいた。


「あれ? レイナ今日休みじゃなかったか?」


「休みだよ」


「なんで来たんだ」


レイナは袋を掲げた。


「猫の兵站支援」


「なんだそれ」


その声を聞いたのか。


廊下の奥から少佐が現れた。


ゆっくり歩いてくると、当然のようにレイナの足元へ座った。


「はいはい。あなたのだって」


袋からキャットフードを出す。


少佐が鳴く。


「にゃ」


「感謝が足りない」


「にゃあ」


「よし」


会話が成立したことになった。


するとホオズキが執務室から出てきた。


「すまなかったな」


「プリン」


レイナは即答した。


「冷蔵庫だ」


「さすが代表」


そのまま冷蔵庫へ向かおうとして、レイナは思い出す。


「あ、そうだ」


昼間買った小袋を取り出した。


中には黒猫の置物。


ホオズキが見る。


少佐も見る。


二人同時に無言になる。


レイナは吹き出した。


「似てるでしょ」


ホオズキは置物と少佐を交互に見た。


「……似ているな」


少佐が不満そうに鳴いた。


「にゃ」


「本人は不服みたい」


「本人?」


「少佐」


「猫だぞ」


「役職持ちみたいな名前つけたの代表じゃん」


少し離れたところで隊員たちが笑っていた。


いつもの本部だった。


いつもの声。


いつもの匂い。


いつもの光。


レイナはそれを眺めながら、冷蔵庫からプリンを取り出した。


蓋を開ける。


スプーンを刺す。


一口。


「んー」


甘い。


幸せだった。


ホオズキが聞いた。


「休日は休めたか?」


レイナはプリンを食べながら考えた。


寝坊した。


買い物をした。


オムライスを食べた。


映画を見た。


公園でぼーっとした。


猫の餌を買った。


そして結局、本部へ戻ってきた。


「うん」


レイナは笑った。


「かなり」


ホオズキは少しだけ頷いた。


「そうか」


レイナは二口目を食べる。


そして、誰にも聞こえないくらい小さな声で言った。


「……帰ってくる場所もあるしね」


以前の会社では、


任務が終われば宿舎へ戻った。


今は違う。


ヤタガラスへ帰ってくる。


その違いを、


レイナ自身、まだ上手く説明できない。


ただ一つだけ分かっている。


休日というものは、


仕事をしない日ではない。


安心して仕事を忘れられる日なのだ。


そして。


忘れたあとでも、


戻ってくる場所がある日なのだ。


足元で少佐が鳴いた。


「にゃあ」


レイナは最後の一口を食べた。


「少佐」


「にゃ?」


「明日は仕事だからね」


少佐は毛づくろいを始めた。


完全に無視された。


「……こいつ絶対、私より立場上だよね?」


食堂に笑い声が響いた。


篠宮レイナの休日は、


結局いつもの場所で終わった。


けれど彼女にとっては、


それが一番いい休日だった。

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