帰す場所が違うだけ
「そいつを渡せ、真壁」
低い声が、地下駐車場に響いた。
午後十一時四十二分。
雨水をまとった黒い車両が並ぶ、市内某所の立体駐車場。
非常灯だけが冷たい白色を床に落としている。
その中央で、二人の男が向かい合っていた。
一人は警視庁警備部所属、警視――黒崎剛士。
坊主頭。
百九十センチ近い巨体。
濡れた防弾ベストの胸元にはPOLICEの文字。
その背後には、完全装備の機動隊員が六名。
そして彼の正面。
黒いシャツにジャケットを羽織った男が、煙草を噛んで立っていた。
真壁仁。
PMCヤタガラスの渉外・現場調整役。
かつて裏社会で「真壁を通せば話がまとまる」とまで言われた男である。
仁の後ろには、十九歳の青年がいた。
震えている。
名前は沢渡圭吾。
暴力団系組織が運営する特殊詐欺グループで、現金回収役をしていた男だった。
そして今夜、その組織の帳簿と幹部の情報を持って逃げ出した。
警察にとっては重要参考人。
組織にとっては裏切り者。
「聞こえなかったか」
黒崎がもう一度言った。
「沢渡をこちらに渡せ」
仁は煙草を口から離した。
火はついていない。
「嫌だ」
隊員たちの空気が変わる。
黒崎の眉が、わずかに動いた。
「……もう一度言ってみろ」
「嫌だと言った」
仁は青年を背中にかばったまま答えた。
「今こいつをお前らに渡したら、朝までに居場所が漏れる」
「警察を信用していないのか」
「してねえ」
即答だった。
黒崎の顔が硬くなった。
「真壁」
「お前個人は信用してる」
仁は続けた。
「だが警察っていう組織全部を信用できるほど、俺は綺麗な人生歩いてねえんだよ」
「こちらにはこちらの手続きがある」
「その手続きから情報が漏れたから、こいつの兄貴は殺された」
空気が止まった。
黒崎は沢渡を見る。
青年は俯いた。
三日前。
警察への情報提供を考えていた沢渡の兄が、河川敷で遺体となって発見されている。
偶然ではない。
仁は言った。
「内部に内通者がいる」
「憶測だ」
「俺の世界じゃな、黒崎」
仁の目が細くなる。
「二人死んでから『やっぱり内通者がいました』じゃ遅えんだよ」
「だからこそ警察が保護する」
「安全な場所は用意した」
「PMCの施設に重要参考人を匿うつもりか?」
「そうだ」
「許可できない」
「お前の許可なんぞ求めてねえ」
黒崎の拳がわずかに握られた。
その様子を見ていた機動隊員が、視線を交わす。
彼らの多くは知っている。
黒崎剛士は滅多に怒鳴らない。
混乱した現場ほど声を低くする男だ。
その黒崎の声が、一段低くなった。
「真壁」
「あ?」
「お前はいまだに自分のルールが法律より上だと思っているのか」
仁の表情が消えた。
危険な沈黙だった。
「……今、なんつった?」
「聞こえただろう」
「もう一回言え」
黒崎は一歩前に出た。
「昔のお前がどういう人間だったかは知っている」
「黒崎」
「一般人を巻き込まない。女子供を食い物にしない。仲間を売らない」
仁の三つの掟。
黒崎も知っていた。
「立派だ」
黒崎は言った。
「だがな、それは法律じゃない」
仁の頬がぴくりと動く。
「お前一人の善悪で、人間の身柄を好き勝手に扱うな」
「……」
「守ると言えば聞こえはいい。だが、お前がやっていることは私的な拘束と何が違う」
次の瞬間。
ドンッ!!
黒崎の身体が後ろに揺れた。
隊員たちが一斉に動く。
「黒崎警視!」
「動くな!」
黒崎の怒声が飛んだ。
全員が止まる。
黒崎の左頬に赤い跡があった。
仁が殴ったのだ。
拳を振り抜いたまま仁が言う。
「てめえ……」
低い声だった。
「俺を何だと思うのは勝手だ」
仁は黒崎を睨んだ。
「だが、あのガキまで俺と同類みてえに言うんじゃねえ」
「言っていない」
「同じだろうが!」
怒声が駐車場を震わせた。
背後の沢渡がびくりとする。
仁は気づかない。
「こいつは十九だぞ!」
拳を握ったまま叫ぶ。
「母ちゃんの借金払うために馬鹿に騙されて、気づいた時には抜けられなくなってただけだ!」
黒崎は黙っている。
「それでも逃げたんだ!」
仁は胸を指さした。
「怖えのに証拠まで持ってな!」
「……」
「兄貴まで殺されて、それでも同じ目に遭う奴を減らしたいって言いやがった!」
仁の声が震えた。
怒りではない。
もっと古い何かだった。
「そんなガキに俺が言えるのは一つだけだろうが!」
仁は振り返った。
沢渡を見る。
「逃げていい」
青年が顔を上げる。
「生きろって言うしかねえだろ!」
沈黙。
雨音だけが遠くから聞こえた。
黒崎は仁を見ていた。
やがて。
「言いたいことは終わったか」
「ああ」
「なら俺の番だ」
黒崎が仁の胸ぐらを掴んだ。
次の瞬間。
ゴッ!!
仁の顔が横を向いた。
拳だった。
巨体から放たれた右ストレート。
隊員たちの顔が固まる。
沢渡は完全に凍りついた。
仁は口の中を切ったらしい。
血を床に吐いた。
「……やりやがったな、ゴリラ」
「先に殴ったのはお前だ」
「警察官が一般人殴っていいのかよ」
「今のは私人として殴った」
「便利だなおい」
仁が黒崎の胸ぐらを掴む。
黒崎も掴み返す。
筋肉と筋肉。
巨体二人が額をぶつけるような距離で睨み合う。
「お前だけが命を背負ってると思うなよ、真壁」
黒崎が言った。
「何?」
「俺だって帰すんだ」
声が震えていた。
黒崎の怒りだった。
「毎日、部下を家族のところへ帰す」
仁の目が止まる。
「現場で撃たれた若い隊員も見た」
黒崎は続けた。
「爆発で脚を失った奴もいる。俺の命令で突入して、二度と帰ってこなかった奴もいる」
「……」
「俺は命令を出した人間だ」
黒崎の手に力が入った。
「だから結果まで背負う」
拳ではない。
言葉が仁を殴っていた。
「お前は沢渡を守ればいいのかもしれない」
黒崎が言う。
「だが俺は違う」
「……」
「沢渡も守る」
一歩踏み込む。
「捜査員も守る」
さらに一歩。
「こいつを追う連中に襲われるかもしれない市民も守る」
仁の胸を押しながら言う。
「全部だ!」
駐車場に声が響いた。
「俺には『こいつだけ守れればいい』なんて選択肢はねえんだよ!」
仁は何も言わなかった。
黒崎は荒い息を吐く。
「警察に内通者がいるなら探す」
「間に合わなかったら?」
「俺が守る」
「どうやって」
「俺が沢渡の身柄に張り付く」
仁の眉が上がった。
「……警視様が?」
「ああ」
「馬鹿かお前」
「お前に言われたくない」
「部隊どうすんだ」
「副隊長に預ける」
「責任問題になるぞ」
「知るか」
「出世飛ぶかもしれねえぞ」
黒崎は鼻で笑った。
「俺が出世するために警察官やってるように見えるか?」
仁が黙る。
確かに。
まったく見えない。
黒崎は沢渡へ視線を向けた。
「沢渡」
「……はい」
青年がかすれた声を出す。
黒崎は胸ポケットから警察手帳を出した。
沢渡へ見せる。
「黒崎剛士」
「……」
「警視だ」
「はい」
「今からお前を警察で保護する」
沢渡の顔が強張った。
黒崎は続けた。
「だが、警察を信用しろとは言わん」
仁が黒崎を見る。
「俺を信用しろ」
青年が目を見開いた。
「俺がお前のそばにいる」
黒崎は言った。
「少なくとも身柄の移送先を知る人間は最小限にする。担当も選ぶ。情報の経路も追う」
「……」
「それでも何か起きたら」
黒崎は静かに言った。
「俺の責任だ」
沢渡はしばらく黒崎を見ていた。
やがて。
小さく頷いた。
「……お願いします」
仁が目を閉じた。
長く息を吐く。
「仁さん」
沢渡が言った。
「うん?」
「ありがとうございました」
仁は頭を掻いた。
「礼は生き延びてから言え」
「はい」
「あともう悪いことすんなよ」
「……はい」
「詐欺なんざ最低だからな」
沢渡は少し笑った。
「仁さんに言われると説得力ないですね」
「お前、結構言うな」
初めて、その場に小さな笑いが生まれた。
機動隊員が沢渡を保護する。
黒崎が隊員へ指示を出す。
「移送経路は俺だけが管理する。車両は途中で変更。無線では対象名を使用するな」
「了解」
「副隊長へ連絡。以降の指揮を委任する」
「了解しました」
数分後。
沢渡を乗せた車が出ていく。
黒崎も乗ろうとした。
「おい」
仁が呼び止める。
黒崎が振り返る。
仁は自分の頬を指した。
「これ」
赤く腫れている。
「治療費」
「知らん」
「警察官に殴られたんだぞ俺」
「先に殴っただろう」
「俺の一発よりお前の一発の方が重いんだよ」
「知らん」
「鼻曲がってねえ?」
「元からだ」
「殺すぞてめえ」
「やってみろ」
再び二人の距離が縮まる。
隊員たちが身構えた。
だが。
仁が突然笑った。
「……はっ」
黒崎も鼻を鳴らす。
「なんだ」
「いや」
仁はポケットから煙草を取り出した。
「似たような馬鹿だと思ってな」
「誰と誰がだ」
「俺とお前」
「一緒にするな」
「どっちも人間帰すことしか考えてねえだろ」
黒崎は答えなかった。
仁は火をつける。
煙が地下駐車場へ上がっていった。
「俺はな」
仁が言う。
「昔、仲間を売る奴が一番嫌いだった」
黒崎は聞いている。
「だから決めた」
一般人を巻き込まない。
女子供を食い物にしない。
仲間を売らない。
三つだけ。
「法律なんぞ守ってこなかった俺が言うのも笑えるがな」
「……」
「それでも線だけは引いた」
仁は煙を吐いた。
「線がなくなったら、人間じゃなくなる気がしてた」
黒崎は少し黙った。
そして言った。
「俺にも線がある」
「なんだ」
「部下を使い捨てない」
仁が黒崎を見る。
「命令を出した人間は、その結果まで引き受ける」
「……なるほどな」
「似てない」
「まだ言うか」
仁は笑った。
黒崎が車へ向かう。
だが三歩進んだところで止まった。
「真壁」
「あ?」
「さっきのパンチ」
「うん」
「軽かったな」
仁の眉が動いた。
「……お前」
「昔は喧嘩が強かったと聞いたが、大したことない」
「待てゴリラ」
黒崎が車へ乗る。
仁が追いかける。
「降りろ!!」
ドアが閉まった。
「おい!!」
窓が少し開く。
黒崎が真顔で言った。
「年だな」
窓が閉まる。
「殺す!!」
黒い車両が走り去っていった。
地下駐車場に仁一人が残される。
「誰が年だ!! 俺はまだ――」
そこで仁は口を押さえた。
「……いてぇ」
殴られた頬が本当に痛い。
翌朝。
ヤタガラス本部。
九条ホオズキは執務机で報告書を読んでいた。
向かいには仁。
頬に大きな湿布。
「それで」
ホオズキが顔を上げる。
「警視を殴ったと」
「……はい」
「向こうからも殴られた?」
「はい」
「機動隊員六名の前で?」
「……はい」
沈黙。
仁が視線を逸らす。
「代表」
「何」
「怒ってる?」
「別に」
「一番怖いやつじゃん」
ホオズキは報告書を閉じた。
「沢渡君は?」
仁の表情が変わる。
「無事だ」
「黒崎が付きっきりらしい」
「そう」
ホオズキは再び書類を見る。
「ならいい」
仁が目を丸くした。
「いいの?」
「良くはない」
「だよな」
「黒崎警視から連絡も来ている」
「え」
ホオズキは端末を仁に見せた。
一行だけだった。
――今回の件について、真壁への処分は不要。こちらも一発殴った。
仁は絶句した。
「……律儀だな、あのゴリラ」
ホオズキがわずかに口元を上げる。
「似てるのよ」
「誰と誰が?」
「あなたと黒崎警視」
「やめてくれ」
即答だった。
ホオズキは窓の外を見る。
朝日が本部の窓から差し込んでいた。
「守り方が違うだけ」
仁が黙る。
「あなたは、自分の前にいる人間を帰そうとする」
ホオズキは言った。
「黒崎警視は、自分の後ろにいる人間まで帰そうとする」
「……」
「帰す場所が違うだけよ」
仁はしばらく何も言わなかった。
やがて小さく笑った。
「だから気に食わねえのかもな」
「でしょうね」
ホオズキが書類へ目を落とす。
仁は部屋を出ようとした。
「あ」
ホオズキが呼び止める。
「仁」
「ん?」
「次に警察官を殴る時は」
仁が固まる。
「人目のないところでお願い」
「代表!?」
ホオズキは笑っていた。
その日の午後。
黒崎から仁の携帯へメッセージが届いた。
――沢渡、無事保護完了。
続いてもう一件。
――内通者も特定した。
仁は一瞬だけ目を閉じた。
それから短く返す。
――御苦労さん。
数秒後。
返信。
――それと。
――何だ。
――やはりパンチは軽かった。
仁は携帯を握り潰しかけた。
十分後。
警視庁の黒崎のもとへメッセージが届く。
――今度会ったら殺す。
黒崎は画面を見て。
ほんの少しだけ笑った。




