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ネオンの裏側

午前二時十三分。


雨上がりの歓楽街は、まるで巨大な水槽の底だった。


赤、青、紫。


安酒を売る店の看板が濡れた路面に映り、踏みつけられた煙草の吸い殻と、誰かが落とした口紅のついた紙コップが、水溜まりの中をゆっくり流れている。


客引きの声。


酔客の笑い声。


タクシーのクラクション。


遠くで誰かが怒鳴っている。


その雑音の中を、真壁仁は黒いコートのポケットに両手を入れて歩いていた。


「ねえ、ジンさん」


隣を歩く篠宮レイナが言った。


「なに」


「こういうところ詳しいよね」


仁は答えなかった。


「やっぱ昔――」


「聞くな」


「はいはい」


レイナは笑った。


派手な歓楽街に溶け込むため、今日は戦闘服ではない。


黒いショートジャケットに細身のパンツ。長いアッシュブロンドの髪を下ろし、どう見ても遊び慣れた若い女にしか見えない。


対して仁は、どう見ても遊びに来た人間ではなかった。


店の前に立てば用心棒。


路地に立てば取り立て屋。


黙っているだけで、だいたい人が避けていく。


「もうちょっと楽しそうな顔できない?」


「仕事中だ」


「潜入っていうのはね、馴染むことも仕事なの」


「俺が笑ったらもっと怖いぞ」


レイナは想像した。


「……確かに」


二人が今夜ここにいる理由は、人探しだった。


依頼人は四十代の女性。


探してほしいのは、十七歳の娘。


三日前、家を飛び出した。


警察にも届け出たが、携帯電話は捨てられ、交友関係もほとんど分からない。


ただ一つ。


SNSに残っていた写真から、この歓楽街に出入りしている可能性があった。


ヤタガラスが扱う案件としては、小さい。


少なくとも金額だけ見れば。


だがホオズキは依頼を受けた。


理由は言わなかった。


そして人探しなら、と仁とレイナが組まされた。


「十七歳かぁ」


レイナが呟いた。


「一番面倒な年頃」


「お前が言うな」


「私、二十四だけど」


「七年でそんなに大人になるか?」


「失礼ね」


仁は鼻で笑った。


通りを一本曲がる。


そこから先は、表通りより少し暗かった。


古い雑居ビル。


深夜営業のバー。


看板を消した風俗店。


裏口で煙草を吸う従業員。


仁は歩きながら、ほとんど顔を動かさず周囲を見ていた。


レイナも同じだった。


ただし彼女は笑っている。


それが篠宮レイナという女のやり方だった。


笑いながら、全部見ている。


誰が誰を見ているか。


誰が怯えているか。


誰が嘘をついているか。


誰が逃げ道を探しているか。


やがてレイナの笑顔が消えた。


「ジンさん」


「ああ」


二人の視線の先。


路地の奥。


自動販売機の横に、小さな人影が座っていた。


若い女。


いや、少女だった。


派手なパーカー。


安物のスニーカー。


膝を抱えている。


写真の少女に似ていた。


レイナが先に近づこうとした。


だが仁が腕を伸ばした。


「待て」


路地の入口。


男が二人。


少女を監視している。


二十代後半。


一人はスマートフォン。


もう一人は煙草。


仁は小さく息を吐いた。


「面倒なのに捕まってんな」


「どうする?」


「話す」


「誰と?」


「全員」


仁が歩き出した。


レイナがため息をつく。


「その“話す”って、普通の意味?」


「なるべくな」


「なるべくなんだ」


男二人が仁に気づいた。


「なんだおっさん」


仁は止まった。


少女を見る。


「その子、知り合いか」


「関係ねえだろ」


「ある」


男が笑った。


「何の関係?」


仁は一秒考えた。


「迎えだ」


その瞬間。


少女が顔を上げた。


目が合った。


怯えた目だった。


助けてほしい人間の目。


だが同時に。


助けられることすら怖がっている目だった。


仁は知っていた。


昔、鏡の中でよく見た目だった。


男が仁の胸を押した。


「消えろって」


仁は動かなかった。


もう一度。


強く押す。


それでも動かない。


男の顔から笑みが消えた。


仁は静かに言った。


「兄ちゃん」


「……あ?」


「今日は帰れ」


「は?」


「俺も歳だ。面倒くせえことしたくねえんだよ」


もう一人が歩いてきた。


「舐めてんの?」


その男が仁の肩を掴んだ。


次の瞬間。


路地に鈍い音がした。


大した動きではなかった。


仁が手首を取る。


肘を返す。


体勢を崩す。


男はその場に膝をついた。


「痛っ……!」


もう一人が動く。


その前にレイナが立っていた。


笑っている。


「やめといたほうがいいよ」


「どけ!」


男が腕を振った。


レイナの姿が消えたように見えた。


半歩。


ただ半歩、横にずれただけだった。


男の腕を流し、そのまま背後に回る。


膝裏を蹴る。


男が地面に落ちた。


「いった……!」


「ほら」


レイナが言った。


「痛いでしょ?」


にっこり笑う。


「これ以上やると、もっと痛いよ」


二人は逃げた。


本当に、ただ逃げた。


仁は追わなかった。


レイナも追わなかった。


今夜の仕事は喧嘩ではない。


少女を連れ帰ることだ。


仁は少女の前に立った。


「名前」


少女は答えなかった。


レイナがしゃがむ。


「美緒ちゃん?」


少女の肩が動いた。


当たりだった。


「お母さんから頼まれて来たよ」


その瞬間。


少女の表情が変わった。


「……帰らない」


レイナの笑顔が少しだけ薄くなった。


「そっか」


「帰らないから」


「うん」


「無理やり連れてくの?」


レイナは振り返った。


仁を見る。


仁は答えた。


「しねえよ」


少女が意外そうに見る。


「……なんで」


「犬猫じゃあるめえし」


「でも依頼されたんでしょ」


「ああ」


「じゃあ失敗じゃん」


「そうだな」


仁は自動販売機の横に腰を下ろした。


高そうな黒いコートが、濡れたコンクリートに触れる。


レイナが眉を上げる。


「ジンさん、それ汚れるよ」


「うるせえ」


少女が少しだけ笑った。


本当に、ほんの少しだけ。


仁はそれを見逃さなかった。


「腹減ってるか」


少女は黙った。


ぐう、と。


腹が鳴った。


レイナが吹き出す。


少女が顔を赤くした。


仁は立ち上がった。


「ラーメンでいいか」


「……え?」


「嫌なら牛丼」


「なんで?」


「俺が腹減った」


「嘘」


「いいから来い」


三人は近くの小さなラーメン屋に入った。


深夜三時。


カウンターしかない店。


店主は仁を見るなり、一瞬だけ顔を強張らせた。


仁は気にしなかった。


美緒は醤油ラーメン。


レイナは塩。


仁はチャーシュー麺。


しばらく誰も喋らなかった。


美緒は最初こそ警戒していたが、やがて黙々と麺を啜り始めた。


二日まともに食べていなかった。


レイナは気づいていたが何も言わなかった。


仁も言わなかった。


半分ほど食べたところで、美緒が呟いた。


「……家にいたくない」


仁はラーメンを食べ続けた。


「お母さん、ずっと怒ってる」


返事はない。


「勉強しろとか、学校行けとか、ちゃんとしろとか」


仁は麺を啜る。


「お父さん死んでから、ずっと」


箸が止まった。


「お母さん、変わった」


美緒の声が震えた。


「昔は笑ってたのに」


レイナがゆっくりコップを置く。


「最近ずっと仕事して、帰ってきたら私に怒って……」


「うん」


「私だって……」


声が詰まる。


「私だって、お父さん死んで悲しいのに」


一滴。


スープに涙が落ちた。


「なんで私だけちゃんとしなきゃいけないの」


レイナは何も言わない。


「お母さんは泣いていいのに」


また一滴。


「私が泣いたら、困った顔する」


「……」


「だから出てきた」


仁がラーメンを食べ終えた。


箸を置いた。


「そうか」


それだけだった。


美緒が顔を上げる。


「何それ」


「何が」


「もっと言うでしょ」


「何を」


「お母さんも大変なんだよ、とか」


「大変だろうな」


「ほら」


「だからって、お前がつらくない理由にはならん」


美緒が黙った。


仁は水を飲んだ。


「親が苦労してりゃ、子供が我慢して当然ってわけじゃねえ」


レイナが仁を見る。


「でもな」


仁は続けた。


「親も人間だ」


美緒が眉を寄せた。


「間違える。怒る。逃げたくなる。嫌なことも言う」


「……」


「そして、たぶん」


仁は少し遠くを見るような目をした。


「あとで後悔する」


美緒は何も言えなかった。


仁の声は低かった。


「俺の知ってたオッサンがな」


レイナがわずかに目を細める。


仁が昔の話をすることは珍しい。


「ろくでもねえ世界にいた」


仁は言った。


「人に威張る。金を取る。喧嘩もする。警察に胸張れるような生き方じゃなかった」


山口源蔵。


仁を拾った男。


仁という人間の骨を作った男。


「でも俺がガキの頃、一回だけ聞いた」


――親ってのは何すりゃいいんだ。


当時の仁は、親というものをほとんど知らなかった。


源蔵は笑った。


――知らねえよ。俺だってまともな親に育てられてねえ。


それから少し考えて。


――ただな。


――ガキが帰ってきた時、扉開けてやれる奴でいりゃいいんじゃねえか。


仁は美緒を見る。


「家族なんて案外、その程度でいいのかもしれん」


「……その人は?」


「死んだ」


美緒が黙る。


レイナも黙った。


仁は懐かしそうに笑った。


「ろくでもねえオッサンだったよ」


でも。


声は優しかった。


美緒は気づいた。


この人は、その男が好きだったのだ。


たぶん。


父親のように。


「帰れとは言わん」


仁は言った。


「ただ、一回だけ母親と話せ」


「……嫌」


「じゃあ話さなくていい」


「え?」


「会って、嫌ならまた出りゃいい」


レイナが小さく笑った。


「それ、代表に怒られるよ」


「その時は俺が怒られる」


「私も一緒なんだけど?」


「逃げろ」


「最低」


美緒が笑った。


今度は、ちゃんと笑った。


店を出る。


夜が少し薄くなっていた。


歓楽街にも朝は来る。


酔客が減り。


看板が一つずつ消え。


ゴミ収集車が走り始める。


仁が煙草を出した。


火をつけようとして。


美緒を見る。


そしてしまった。


レイナがそれを見て笑う。


「意外と気遣うね」


「うるせえ」


「ジンさん」


「ん」


レイナの声が少しだけ静かになった。


「さっきの話、本当?」


「ああ」


「帰ったら扉を開けてくれる人がいればいい、って」


仁は歩きながら答えた。


「そう言ってた」


レイナは前を見る。


昔。


自分は帰れなかった。


所属していた会社に切り捨てられ。


仲間を失い。


助けを求める場所もなく。


帰る場所などないと思っていた。


だからヤタガラスに拾われた時も。


最初は信じなかった。


いつかまた捨てられる。


そう思っていた。


「じゃあさ」


レイナが笑う。


「ヤタガラスって、家なのかな」


仁は少し考えた。


「知らん」


「そこは“そうだ”って言うところじゃない?」


「家ってのは自分で決めるもんだろ」


レイナの足が止まった。


仁は振り返らない。


「帰りたいと思うなら家だ」


その一言が。


レイナの胸の奥に、静かに落ちた。


彼女は少しだけ俯いた。


「……そっか」


誰にも見えないように目元を拭う。


「何泣いてんだ」


「泣いてない」


「鼻すすってるぞ」


「花粉」


「九月だぞ」


「九月花粉」


「なんだそれ」


美緒が笑った。


レイナも笑った。


仁も。


ほんの少しだけ笑った。


歓楽街の出口。


一台の車が停まっていた。


その横に。


女性が立っていた。


美緒の母親。


三日間ほとんど眠っていない顔だった。


娘を見つけた瞬間。


走った。


「美緒!」


美緒の身体が硬くなる。


母親が目の前で止まる。


抱きしめようとして。


でも、手が止まる。


娘が嫌がると思ったのだろう。


だから。


ただ泣いた。


「ごめん」


最初に出た言葉は、それだった。


「ごめんね」


美緒は俯く。


「お母さん……」


「ごめん」


「……」


「お母さん、ちゃんとしなきゃって……」


声が壊れる。


「お父さんいなくなったから、私がちゃんとしなきゃって……」


美緒の肩が震える。


「でも、美緒にもちゃんとしろって……ずっと言ってた……」


母親は何度も頭を下げた。


「ごめん」


「……」


「帰ってきてなんて言えない」


泣きながら言う。


「ただ、生きててくれてありがとう」


その言葉で。


美緒が崩れた。


「お母さん!」


母娘が抱き合った。


声を上げて泣いた。


人目など気にせず。


濡れた路地の入口で。


朝になりかけた歓楽街で。


仁は離れた場所から見ていた。


レイナが隣に立つ。


「ねえ」


「ん」


「依頼成功?」


仁は煙草を取り出す。


今度は火をつけた。


「さあな」


「ちゃんと連れて帰ったじゃん」


「俺たちは何もしてねえよ」


仁は煙を吐く。


「帰るって決めたのは、あの子だ」


レイナは笑った。


「ジンさんらしいね」


「何が」


「そういうところ」


看板の灯りが、また一つ消えた。


夜を彩っていたネオンが。


朝の光に負けていく。


やがて全部消える。


派手で。


騒がしく。


嘘と酒と欲望でできた街にも。


朝は来る。


レイナは空を見上げた。


「帰ろっか」


「ああ」


「本部に」


仁が歩き出す。


「帰って寝る」


「私、ホオズキさんに報告しよ」


「勝手にしろ」


「ねえジンさん」


「なんだ」


「本部の扉、開いてるかな」


仁は振り返らなかった。


ただ片手を上げた。


「閉まってたら開けりゃいい」


レイナは一瞬黙り。


それから、いつものように笑った。


「――うん」


二人は歩いていく。


ネオンの消えた街を。


帰る場所へ。


午前五時十二分。


歓楽街に、朝が来た。

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