雨のやまない夜
――真壁仁と榊原宗一郎
雨は、夕方から一度も止んでいなかった。
ヤタガラス本部の地下駐車場。
古いセダンのボンネットを細い雨粒が叩き、その音だけがコンクリートの壁に低く反響している。
真壁仁は助手席の窓を少しだけ開けた。
煙草は吸わない。
ただ、雨の匂いが好きだった。
「行かなくてもいい」
運転席から榊原宗一郎が言った。
真壁は前を向いたまま答える。
「そういうわけにもいかねえでしょう」
「今回の件は、君個人の過去だ」
「だからです」
榊原はそれ以上何も言わなかった。
エンジンがかかる。
黒いセダンは、静かに地下駐車場を出ていった。
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依頼が来たのは三時間前だった。
差出人不明。
宛先は真壁仁。
中には住所を書いた紙が一枚。
そして、古びた写真が一枚。
写真には若い真壁と、一人の老人が写っていた。
山口源蔵。
かつて真壁を拾い、人としての生き方を叩き込んだ男。
すでに故人である。
写真の裏には、短い文章があった。
――源蔵の名を汚されたくなければ、一人で来い。
真壁はそれを読んだ時、笑った。
ただし目は笑っていなかった。
そして榊原宗一郎は、何も聞かず車の鍵を持った。
「一人で来いって書いてあるんですけどね」
真壁が言った。
「私は数に入らない」
「無茶苦茶言いますね」
「年寄りは例外だ」
「まだ五十八でしょう」
榊原は答えなかった。
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指定された場所は、市街地から外れた倉庫街だった。
午前零時を回っている。
海から来る風が雨を横殴りにしていた。
古い倉庫の前に一台のバンが停まっている。
人影が三つ。
榊原が車を停める。
「武器は」
「持ってませんよ」
「本当に?」
「こういう話に銃持ってくるほど、若くないんで」
榊原は一度だけ真壁を見る。
「嘘だな」
真壁が笑う。
「護身用です」
「何を持っている」
「秘密です」
「確認する」
「親父ですか、あんた」
「君の父親ほど甘くはない」
真壁は小さく息を吐いた。
「……そういうところ、嫌いじゃないですよ」
二人は雨の中へ出た。
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倉庫の中には四人いた。
中央に座っているのは六十代半ばの男だった。
痩せている。
高価なスーツ。
だが、目だけは古い。
人間を値段で測る目だ。
「久しぶりだな、真壁」
真壁は男を見て、わずかに眉を動かした。
「河崎か」
「覚えていたか」
「あんたみたいな顔は忘れたくても忘れられねえ」
河崎という男は、昔、山口源蔵と同じ組織にいた。
源蔵が絶対に認めなかった人間でもある。
女を食い物にする。
弱者を食い物にする。
子供ですら金になるなら利用する。
源蔵は河崎を組織から追放した。
数年後、河崎は別の土地で成り上がった。
そんな話を、真壁は昔聞いたことがあった。
「源蔵さんも馬鹿だった」
河崎は笑う。
「金になる商売を全部嫌った。薬も、女も、詐欺もだ。あれじゃ組織は大きくならん」
真壁の表情が消えた。
「それで?」
「お前も同じだそうだな」
河崎は机の上へ分厚い封筒を置いた。
「この街に新しい仕事を作る」
「興味ねえな」
「若い連中を集める。口座を作らせる。荷物を運ばせる。それだけだ」
真壁は封筒を見た。
「特殊詐欺か」
河崎は答えない。
それが答えだった。
「ヤタガラスは民間軍事会社だ。裏の物流もできるだろう。警備もできる。情報も持ってる」
「帰れ」
「まだ金額も――」
「帰れ」
真壁の声は低かった。
倉庫が静かになる。
河崎が笑う。
「変わらんな、お前は」
真壁は机の前まで歩いた。
そして封筒を手に取った。
河崎の口元が上がる。
次の瞬間。
真壁は封筒を引き裂いた。
札束が床へ落ちる。
「昔な」
真壁は言った。
「俺は強けりゃ何でもいいと思ってた」
雨音が屋根を叩いている。
「殴り合いで勝てば偉い。怖がられりゃ勝ち。金持ってりゃ立派な男だと思ってた」
真壁は床に散った札束を踏んだ。
「山口の親父に言われた」
河崎の顔から笑みが消える。
「強いなら、守るものを決めろってな」
真壁は河崎を見下ろした。
「女子供を食い物にして稼いだ金で、山口の名前を口にすんな」
護衛の男が一歩前に出た。
榊原宗一郎が、静かにその男を見る。
それだけだった。
護衛は止まった。
榊原は手を出していない。
声すら上げていない。
だが長年、人に命令し、人の死と向き合ってきた男の目には、若い連中が逆らえない何かがあった。
河崎が榊原を見る。
「誰だ、あんた」
「通りすがりの年寄りだ」
「関係ないなら黙ってろ」
「そのつもりだった」
榊原は濡れたコートを整えた。
「だが、部下を脅す人間を前にして黙っていられるほど、私は出来た人間ではない」
「部下?」
真壁が横から口を挟む。
「一応、俺は外部協力員みたいなもんですけどね」
「黙れ真壁」
「はい」
河崎が乾いた笑いを漏らした。
「ヤタガラスの副代表様か」
榊原の目が細くなる。
「調べていたか」
「有名人だからな」
「なら話は早い」
榊原は一歩前へ出た。
「今回の件から手を引け」
「命令か?」
「忠告だ」
「聞かなかったら?」
榊原は少し考えた。
「法に従って処理する」
河崎が笑った。
「軍人上がりが法律を語るか」
榊原は笑わなかった。
「軍人だったから語るんだ」
静かな声だった。
「力を持つ人間が、勝手に線を越えればどうなるか。私は嫌というほど見てきた」
河崎の笑いが止まる。
「命令を出す人間は、その結果まで引き受ける。それができない人間に、人を使う資格はない」
しばらく誰も話さなかった。
雨だけが降っていた。
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最初に手を出したのは、河崎の護衛だった。
若い男が真壁へ殴りかかった。
真壁は半歩避けた。
腕を取る。
足を払う。
男の身体が床へ転がった。
二人目が榊原へ向かう。
榊原は相手の手首を押さえ、体重を崩し、壁へ押しつける。
派手さはなかった。
音すらほとんどしない。
三人目が腰へ手を伸ばした。
真壁が言う。
「やめとけ」
男が止まる。
「銃なら抜くな」
真壁の目だけが笑っていなかった。
「抜いた瞬間、話が変わる」
男は手を下ろした。
榊原も何も言わない。
河崎が椅子から立つ。
「俺を殺すか?」
真壁は鼻で笑った。
「馬鹿言うな」
「昔のお前ならやった」
「だから昔なんだよ」
真壁は背を向けた。
「親父に怒られる」
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倉庫を出ると、雨が少し弱くなっていた。
セダンまで歩く。
真壁は濡れたシャツの襟を引っ張った。
「副代表」
「なんだ」
「さっき俺のこと部下って言いましたね」
榊原は歩きながら答えた。
「言ったか?」
「言いましたよ」
「聞き間違いだ」
「照れてます?」
榊原が止まる。
「真壁」
「はい」
「次に言ったら置いて帰る」
「ヤタガラスに置き去りという言葉はないんじゃないですか?」
「君だけ例外にする」
真壁は声を出して笑った。
榊原は車に乗る。
真壁も助手席へ座った。
エンジンがかかる。
しばらく無言で走った。
深夜の街。
濡れたアスファルトに街灯が細長く映る。
やがて真壁が口を開いた。
「俺、あの親父に拾われてなかったら……どうなってたでしょうね」
榊原は前を見たまま答えた。
「ろくでもない人間になっていただろうな」
「即答ですか」
「間違いない」
真壁が苦笑する。
「でもまあ」
榊原は続ける。
「人間は、拾われた恩だけで生きるわけではない」
真壁が横を見る。
「教えられた言葉を守り続けるかどうかは、その人間自身の選択だ」
赤信号。
車が止まる。
榊原は前を見たままだった。
「君が今の君であることまで、その源蔵という人物の功績にしてしまうのは、少し違うんじゃないか」
真壁は何も言わなかった。
信号が青になる。
車が走り出す。
しばらくして、真壁が窓の外を見ながら呟いた。
「……ずるいこと言いますね」
「何がだ」
「そういうこと言われると、明日も真面目に働かなきゃならなくなる」
「当然だ」
「給料上げてくださいよ」
「九条代表に言え」
「そこは副代表権限で」
「却下だ」
「ケチだなあ」
榊原の口元がほんのわずかに緩んだ。
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本部へ戻るころには、雨は止んでいた。
夜明け前。
東の空が薄く白み始めている。
駐車場で真壁が車を降りる。
「榊原さん」
「なんだ」
「今日は……ありがとうございました」
珍しく真壁がまっすぐ頭を下げた。
榊原は少しだけ彼を見る。
「礼なら缶コーヒーでいい」
「安いですね」
「ブラックだ」
「知ってますよ」
「砂糖入りを買ったら君の経費から引く」
「細かいなあ」
真壁は笑いながら自販機へ向かった。
その背中を榊原が見ている。
昔、誰かに拾われた男。
そして今は、誰かを守る側に立っている。
人は変わる。
いや。
変わるのではない。
何を守るかを決めた時、人間はようやく形になるのかもしれない。
真壁が二本の缶コーヒーを持って戻ってきた。
一本を榊原へ投げる。
榊原は片手で受け取る。
「ブラック」
「確認しました」
二人は缶を開けた。
夜明け前の冷たい駐車場に、小さな音が二つ響いた。
真壁が空を見上げる。
「晴れますかね」
榊原も空を見る。
「さあな」
そしてコーヒーを一口飲んだ。
「だが、雨は止んだ」
それだけで十分だった.




