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軽口を叩く男



午前一時三十二分。


ヤタガラス本部、地下駐車場。


神代蓮司は、黒いワゴン車のボンネットにもたれながら缶コーヒーを飲んでいた。


作戦帰りだった。


黒い戦闘服の襟元を少し緩め、髪をかき上げる。


「いやぁ」


蓮司はため息をついた。


「今日も俺、格好良かったですね」


背後から低い声がした。


「自分で言うものではない」


「お疲れ様です、榊原副代表」


榊原宗一郎が歩いてくる。


五十八歳。


ヤタガラス副代表兼統合作戦本部長。


歴戦の軍人らしい頑健な体格。


白髪の混じった短髪。


右眉の上には古い傷。


現場から戻ったばかりなのに、服装にほとんど乱れがない。


蓮司は缶コーヒーを一本投げた。


榊原が片手で受け取る。


「ブラックです」


「知っている」


「さすが。俺の好みまで把握してる」


「お前が毎回それを買っているだけだ」


「観察力ですよ、それも」


「そういうことにしておこう」


榊原が缶を開ける。


二人はしばらく黙っていた。


地下駐車場には、冷却中の車両の音だけが響いている。


今日の任務は、人質救出だった。


企業経営者の娘。


二十二歳。


武装した誘拐犯四名。


市街地の廃ビル。


難しい任務だったが、人質は無傷。


ヤタガラス側にも死者はいない。


完璧に近い成功だった。


ただ一つ。


「神代」


「はい」


「なぜ命令を無視した」


蓮司の笑顔が、ほんの少しだけ薄くなった。


「何の話です?」


「とぼけるな」


榊原は缶コーヒーを一口飲んだ。


「二階廊下。俺は待機を命じた」


「ああ」


蓮司は軽く笑った。


「アレですか」


「三十秒待てと言った」


「三十秒待ったら女の子が撃たれてました」


「可能性の話だ」


「だから動きました」


「結果論だ」


短い言葉だった。


蓮司は黙った。


榊原が続ける。


「成功したから正しかった、では組織は動かせない」


「でも成功しましたよ」


「失敗していたら?」


「死んでましたね」


「誰が」


「俺が」


「違う」


榊原の声が低くなる。


「お前だけではない」


蓮司の目が細くなった。


榊原は続けた。


「お前が撃たれれば、援護に入った篠宮が動く。篠宮が動けば突入班が予定を変える。衛生班も動く。作戦全体が崩れる」


「……」


「一人の独断は、一人で終わらない」


榊原は蓮司を見る。


「指揮とは、そういうものだ」


蓮司は缶を指先で回した。


いつもの笑顔はまだある。


だが、目は笑っていなかった。


「副代表」


「なんだ」


「人質が死んでも同じこと言えます?」


「言える」


即答だった。


蓮司の眉がわずかに動く。


榊原は静かに続ける。


「そして俺は、その結果を背負う」


「……」


「待機を命じたのは俺だ。人質が死ねば、それは俺の判断の結果だ」


榊原は目を逸らさない。


「だから指揮官がいる」


蓮司はしばらく何も言わなかった。


やがて、小さく笑った。


「重い仕事ですねぇ」


「だから給料をもらっている」


「俺の三倍くらいもらってます?」


「経理に聞け」


「夢がないなぁ」


少しだけ空気が緩む。


だが蓮司は、ふと正面を見たまま言った。


「俺、昔から待つの苦手なんですよ」


榊原は何も言わない。


蓮司が続ける。


「人が死にそうなのに上からの許可待ちとか」


軽い調子だった。


だが榊原にはわかる。


これは神代蓮司が、本当のことを話す時の声だ。


「昔いたところでね」


蓮司は言った。


「突入許可を待ってる間に、一人死にました」


沈黙。


「助けられた?」


榊原が尋ねる。


「たぶん」


「確実か」


「わかりません」


蓮司は笑った。


「でも、そういうのって残るんですよ」


缶コーヒーを見つめる。


「あと二分早ければ、とか」


「……」


「あそこで命令無視してたら、とか」


「そうか」


「だから今日、女の子の首に銃口が向いた瞬間、身体が先に動いた」


蓮司は肩をすくめた。


「俺、英雄病ですかね?」


榊原は首を横に振った。


「違う」


「へえ」


「罪悪感だ」


蓮司の笑顔が止まった。


榊原は淡々と続ける。


「助けられなかった人間を、次の現場で助けようとしている」


「心理分析までやるんです?」


「五十八年生きれば多少はな」


「嫌な年の取り方ですね」


「よく言われる」


再び沈黙。


少しして蓮司が聞いた。


「じゃあ、副代表ならどうしたんです?」


「今日か」


「はい」


「俺がお前なら?」


榊原は考える。


そして答えた。


「動いた」


蓮司が振り向いた。


「え?」


「人質の状況変化を確認した時点で、俺も突入する」


「ちょっと待ってください」


蓮司は眉を寄せた。


「さっきまで説教してた人ですよね?」


「説教ではない」


「じゃあ何です?」


「確認だ」


「何の」


榊原は言った。


「お前が命令違反を常習化する馬鹿なのか」


一拍。


「状況を見て、自分で責任を取って動いた人間なのか」


蓮司は目を瞬いた。


榊原は続ける。


「そこには大きな違いがある」


「……結果は?」


「後者だ」


蓮司がニヤッと笑う。


「評価高いなぁ」


「勘違いするな」


「はいはい」


「次は無線で一言入れろ」


「『今から命令無視します』って?」


「『状況変化、突入する』でいい」


「なるほど」


「それなら俺が作戦を修正できる」


榊原は蓮司を見る。


「勝手に英雄になるな」


蓮司の笑みが、わずかに消えた。


「仲間がいるうちはな」


その言葉だけは。


冗談ではなかった。


蓮司はしばらく黙っていた。


それから缶コーヒーを飲み干す。


「副代表」


「なんだ」


「俺、結構あなた好きですよ」


「気持ち悪いことを言うな」


「ひどいな」


「女に言え」


「いっぱい言ってます」


「知っている」


「ちなみに本部受付の新しい子なんですけど」


「やめておけ」


「まだ何も言ってないでしょう」


「目を見ればわかる」


「エスパーですか?」


榊原はコーヒーを飲みながら歩き出した。


蓮司が後ろを追う。


「副代表」


「なんだ」


「明日休みですよね?」


「そうだ」


「飲みに行きましょう」


「断る」


「即答!?」


「お前の行く店は騒がしい」


「静かな店にしますって」


「信用できん」


「じゃあ綺麗なお姉さんがいる静かな店で」


「悪化している」


二人の声が、地下駐車場に響く。


やがてエレベーターの扉が開いた。


乗り込む直前、榊原が足を止めた。


「神代」


「はい?」


「今日の判断」


蓮司が振り向く。


榊原は前を向いたまま言った。


「間違ってはいない」


蓮司は少しだけ目を見開いた。


「ただし」


榊原が続ける。


「次は一人で背負うな」


扉が閉まる。


蓮司は数秒、閉じた扉を見ていた。


それから小さく笑う。


「……敵わねぇなぁ」


その声には、いつもの軽薄さが少しだけなかった。


そして翌朝。


午前八時。


榊原宗一郎の机の上には、一枚の紙が置かれていた。


神代蓮司 命令違反報告書


理由欄。


そこには珍しく、ふざけた文章が一文字もなかった。


«人質への直接的危険を確認し、即時介入が必要と判断したため。


なお、通信による状況報告を行わず単独判断した点については、自身の不備と認識する。


今後は可能な限り指揮系統を維持した上で行動する。»


榊原は最後まで読む。


そして小さく息を吐いた。


「……可能な限り、か」


その時。


扉の向こうから蓮司の声がした。


「副代表ー! 受付の子、彼氏いましたー!」


榊原は報告書を机に置いた。


「朝からうるさい」


「失恋休暇ください!」


「仕事をしろ」


「ヤタガラスって福利厚生弱くないですか!?」


榊原は額を押さえた。


しかし、その口元はほんの少しだけ笑っていた。

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