ログにない男
午後十一時四十三分。
PMCヤタガラス本部、情報システム部。
消灯時間など存在しない部署だった。
壁一面のモニターには通信ログ、監視カメラ、アクセス記録、契約先の警戒情報が並び、青白い光だけが室内を照らしている。
その中央で、久世冬馬は紙コップのコーヒーを飲んでいた。
「……まずい」
そう言いながら、もう一口飲む。
背後の自動扉が開いた。
「まずいなら飲むな」
九条ホオズキだった。
黒いシャツにワークパンツ。
戦闘装備ではない。
しかし腰にはいつものホルスターがある。
久世は振り返らなかった。
「カフェイン摂取装置としては正常です」
「味は?」
「要件外です」
「お前の人生、大体それだな」
「代表に言われたくありません」
ホオズキは鼻で笑った。
そして久世の隣まで歩いてくる。
「で?」
「はい」
久世が画面を切り替えた。
一人の男の顔写真。
四十代。
短い黒髪。
普通のスーツ。
どこにでもいそうな会社員に見える。
「明日の護衛対象の秘書です」
「相沢か」
「相沢健一、四十六歳。契約企業の総務部所属。勤続十八年。懲戒歴なし。借金なし。犯罪歴なし。政治団体との接触なし。反社会勢力との接触も確認されていません」
ホオズキは画面を見る。
「随分きれいだな」
「きれいです」
久世がキーボードを叩く。
銀行取引。
社内アクセスログ。
位置情報。
メール履歴。
交友関係。
ありとあらゆる記録が表示された。
「昨夜二十二時十四分、相沢は会社を退出。二十二時三十九分、自宅最寄り駅。二十二時五十二分、コンビニで買い物。二十三時七分、自宅マンション入館」
「普通だな」
「普通です」
「なのに調べてる」
久世がようやくホオズキを見る。
「普通すぎます」
ホオズキの目が細くなった。
久世が続ける。
「人間にはノイズがあります」
「ノイズ?」
「遅刻する。予定を変更する。無駄な買い物をする。深夜に検索する。間違ったパスワードを入力する。体調が悪ければ歩行速度も変わる」
「人間らしさか」
「そうとも言います」
久世は相沢の行動記録を拡大した。
「この男には、それがない」
毎朝七時十二分、自宅を出る。
七時二十九分、駅。
八時十一分、会社。
昼食は十二時十分から十二時四十分。
退勤時間の誤差は平均三分以内。
「半年間ほぼ同じです」
ホオズキが言った。
「几帳面なんじゃないか?」
「可能性はあります」
「なら問題ない」
「ですが」
久世は別のグラフを表示した。
「三週間前から、さらに規則正しくなっています」
ホオズキが黙った。
「つまり?」
「生活ではありません」
久世が言った。
「行動を作っています」
室内の空調音だけが残った。
ホオズキは腕を組む。
「何のために?」
「分かりません」
「お前が分からないと言うのは珍しいな」
「分からないものを分かったふりする方が嫌いです」
「それは知ってる」
ホオズキは写真を見る。
ごく普通の男。
笑っている。
社員証用の写真なのだろう。
妙に無難な笑顔だった。
「本人に会ったことは?」
「ありません」
「私はある」
久世の指が止まった。
「いつです?」
「今日の事前打ち合わせ」
「何か?」
「握手した」
「……それだけですか」
「それだけだ」
久世は少し眉を寄せた。
「握手から何を?」
「何も」
「では意味がありません」
ホオズキが笑った。
「そういうところだぞ、久世」
「何がです」
「人間はログを残す前に、顔に出る」
「顔認証用カメラならあります」
「そういう意味じゃない」
ホオズキは机の端に腰を預けた。
「相沢は、私と握手するときに手を見た」
「普通です」
「違う」
ホオズキは自分の右手を見る。
「私の顔より先に、右手を見た」
久世は考える。
「武器の有無を?」
「多分な」
「警戒心が強い人間ならあり得ます」
「次に腰を見た」
「ホルスター」
「最後に出口を見た」
久世は沈黙した。
ホオズキが言う。
「一般企業の総務屋の目じゃなかった」
久世は再びキーボードを叩き始めた。
過去の監視映像を検索する。
社内カメラ。
駅。
コンビニ。
マンション。
数百時間分。
ホオズキは横から眺めた。
「見つかるか?」
「見つけます」
「焦るな」
「焦っていません」
「顔が怖い」
「元からです」
「そうだったな」
数分後。
久世の指が止まった。
「……代表」
「何だ」
「ありました」
映像が拡大される。
三週間前。
会社ロビー。
相沢が歩いている。
一見、何もおかしくない。
久世が再生速度を落とす。
入口から男が入ってきた。
配送業者。
大きな箱を抱えている。
その瞬間。
相沢の右足が半歩下がった。
身体が斜めになる。
右手が腰付近へ移動した。
一秒にも満たない。
そして何事もなかったように歩き始める。
ホオズキが呟いた。
「構えたな」
「はい」
「銃を抜く姿勢だ」
久世は別の日の映像を出した。
清掃員が背後から近づく。
相沢は鏡面の柱で相手を確認している。
さらに別の日。
エレベーター。
相沢は必ず操作盤側に立つ。
そして他人に背中を預けない。
「訓練されています」
久世が言った。
「かなり」
「経歴には何もない」
「だから気持ち悪い」
久世は大量の記録を再検索する。
「相沢健一という人物は十八年間この会社に在籍しています」
「本人か?」
久世が止まった。
ホオズキが画面を指す。
「その記録、本当に十八年前から同じ男か?」
数秒。
久世は答えなかった。
そして検索条件を変更した。
十八年前の社員名簿。
十五年前の健康診断。
十二年前の集合写真。
八年前の社員旅行。
五年前の表彰式。
画像が次々表示される。
久世の表情が変わった。
「……代表」
「何だ」
「耳が違います」
「耳?」
「はい」
十二年前の写真。
現在の写真。
顔はよく似ている。
だが耳介の形が違う。
「顔認証は?」
「髪型、加齢、画質差で許容範囲と判定されています」
久世が拡大する。
「しかし別人です」
ホオズキの顔から笑みが消えた。
「いつ入れ替わった?」
「調べます」
数分。
「五年前までは本人」
さらに検索。
「四年前……微妙」
さらに。
三年前。
久世の指が止まった。
「ここです」
三年前の健康診断写真。
顔は同じ。
だが耳が違う。
「少なくとも三年前には入れ替わっています」
ホオズキが静かに言った。
「三年間潜ってたのか」
「可能性が高いです」
「目的は明日の護衛対象か」
「断定できません」
久世は即答した。
「契約企業そのものを狙っていた可能性もあります。情報収集。産業スパイ。長期潜入。あるいは——」
「三年間待ってた」
ホオズキが言った。
「明日のために」
久世はホオズキを見る。
「根拠は?」
「勘だ」
「嫌いな言葉です」
「知ってる」
「勘は再現性がありません」
「そうだな」
「検証も難しい」
「ああ」
「判断基準としては最低です」
ホオズキは笑った。
「だが、お前は今その最低な勘のおかげで耳を見つけた」
久世は黙る。
少し間があった。
「……訂正します」
「珍しいな」
「勘そのものに価値がないのではありません」
久世は画面を見る。
「検証不能な勘に価値がない」
「面倒くさい男だな」
「褒め言葉として受け取ります」
ホオズキは立ち上がった。
「明日の警護計画を変更する」
「相沢を拘束しますか?」
「いや」
久世が顔を上げる。
「泳がせる」
「危険です」
「だからお前がいる」
「私は現場要員ではありません」
「情報で殴れ」
「暴力的な表現ですね」
「ヤタガラスだからな」
ホオズキは出口へ向かう。
久世が呼び止めた。
「代表」
「何だ」
「一つ質問があります」
ホオズキが振り返る。
「今日、相沢を見た時点で疑っていたんですか?」
ホオズキは少し考えた。
「いや」
「では何故ここに?」
「なんとなくお前が残業してそうだったからだ」
久世の顔が固まる。
「……それはログにありません」
「だろうな」
「代表」
「何だ」
「そういうのを勘と呼ぶのでは?」
ホオズキは扉の前で足を止めた。
そして振り返らずに答えた。
「だったら検証しろ」
扉が閉まる。
久世はしばらく黙っていた。
それから自分の紙コップを見る。
冷めきったコーヒー。
一口飲む。
「……まずい」
数秒考える。
そしてキーボードを叩いた。
検索欄に入力する。
《九条ホオズキ 残業中の久世を訪れる頻度》
検索結果。
過去半年。
二十三回。
久世は眼鏡を押し上げた。
「……統計的に有意ですね」
誰もいない情報室で、
久世冬馬はほんの少しだけ笑った。
翌朝。
偽の相沢健一は、ヤタガラスが用意した偽情報に食いついた。
潜伏三年。
準備千日以上。
それを暴いたきっかけは、
ログでも、
AIでも、
監視カメラでもなかった。
握手した時の、
たった一秒。
久世は事件報告書の最後にこう記した。
《分析所見》
定量情報は重要である。
記録は嘘をつきにくい。
数字は感情に左右されない。
しかし。
「何を見るべきか」を決めるのは、最後まで人間である。
報告書を読んだホオズキは、その文章の横に赤字で一言だけ書き足した。
――やっと分かったか。
翌日。
久世はその赤字の下に返信した。
――以前から知っていました。今回は証明されただけです。
さらにその下に、
ホオズキの字。
――可愛くない奴。
久世の返信。
――仕様です。
そこで報告書は終わっている。




