命を計算する機械
午前一時十三分。
PMCヤタガラス本部、地下二階。
情報システム部の一角だけが、まだ明るかった。
壁一面を占める大型モニターには、灰色の市街地が映っている。
道路。
病院。
学校。
崩れかけた集合住宅。
橋。
敵部隊。
味方部隊。
避難民。
それぞれが青、赤、黄色の小さな記号として表示され、画面の隅では数字が絶えず更新され続けていた。
《MISSION SUCCESS RATE 82.7%》
《EXPECTED FRIENDLY CASUALTIES 3.4》
《EXPECTED CIVILIAN CASUALTIES 1.8》
《TARGET CAPTURE PROBABILITY 71.2%》
その前で、久世冬馬は紙コップのコーヒーを飲んでいた。
黒縁眼鏡の奥の目は、いつものように眠そうで、それでいて全く眠っていなかった。
背後で扉が開いた。
「まだやっていたのか」
榊原宗一郎だった。
「あと十九分ほどで一区切りです」
「十九分か」
「十八分四十二秒になりました」
榊原は何も言わず、久世の隣に立った。
画面を見上げる。
「例の試験か」
「はい」
ヤタガラスが外部企業から提供を受けた、次世代戦術意思決定支援システム。
通称《ARGUS》。
偵察ドローン、衛星画像、味方の位置、敵の推定戦力、道路状況、天候、通信状況、過去の戦闘記録。
それらを統合し、作戦案を自動生成するAIだった。
久世がキーボードを叩いた。
「今回の想定は、敵武装組織が市街地中心部に人質十四名を拘束。こちらは二個班。敵戦力二十二から二十七名。周辺には民間人約四百」
榊原が眉を動かす。
「嫌な状況だ」
「現実の作戦はだいたい嫌な状況です」
「それもそうだ」
久世が画面を切り替える。
三つの作戦案が表示された。
A案。
正面突破。
成功率六十四パーセント。
味方損害予測五・八名。
民間人損害予測〇・九名。
B案。
地下通路からの潜入。
成功率七十三パーセント。
味方損害予測三・一名。
民間人損害予測二・四名。
C案。
敵指揮官の移動を待ち、別地点で拘束。
成功率八十二パーセント。
味方損害予測一・七名。
民間人損害予測――
六・三名。
榊原が言った。
「AIは?」
「C案を推奨しています」
「理由は」
「総合損耗最小化です」
榊原は画面を見た。
「民間人が六人死ぬ」
「推定六・三人です」
「人間は〇・三人死ねないぞ」
「分かっています」
久世は淡々と答えた。
「期待値です」
榊原はしばらく黙った。
やがて、ゆっくり椅子を引いて座る。
「久世」
「はい」
「お前は、AIに作戦指揮を任せられると思うか」
久世は即答しなかった。
珍しいことだった。
「定義によります」
「そう来ると思った」
「索敵、経路選択、脅威評価、兵站計算、交戦確率の算出なら、人間より優秀になる可能性があります」
「指揮は?」
久世はコーヒーを置いた。
「技術的には可能でしょう」
「技術の話はしていない」
その言葉で、部屋が少し静かになった。
サーバーの冷却ファンだけが低く唸っている。
久世は榊原を見る。
「責任の話ですか」
「そうだ」
榊原はC案を指差した。
「この作戦で民間人が七人死んだとする」
「はい」
「誰が家族に説明する」
久世は答えない。
「AIか?」
「不可能です」
「開発会社か」
「契約上はおそらく免責されています」
「なら、誰だ」
数秒。
久世が言った。
「採用した指揮官です」
「そうだ」
榊原は椅子の背にもたれた。
「作戦指揮ってのはな、地図の上で駒を動かすことじゃない」
モニターの青い点を見つめる。
「命令した結果を引き受けることだ」
久世は静かに聞いていた。
「行けと言って、死なせたなら、その死を背負う」
榊原は続けた。
「撤退させて、救えなかったなら、それも背負う」
黄色い点が画面の中で点滅する。
民間人。
「助けられる人間を切り捨てたなら、それもだ」
久世が言った。
「それは合理的ではありません」
榊原がわずかに笑う。
「お前ならそう言うと思った」
「死亡者一人ごとに精神的負債を積み重ねていたら、指揮官は長期間機能しません」
「その通りだ」
意外な返事だった。
久世が少し眉を上げる。
「だがな」
榊原は言った。
「だからといって、感じなくなっていいわけじゃない」
再び沈黙。
久世はC案の数字を見つめた。
成功率八十二パーセント。
味方損害一・七。
民間人損害六・三。
「榊原副代表」
「なんだ」
「一つ質問してもいいですか」
「珍しいな」
「命の価値は、数値化できると思いますか」
榊原は即答しなかった。
今度は榊原の番だった。
「……作戦では、する」
久世の目が僅かに細くなる。
「するんですか」
「する」
榊原は言った。
「できないなんて綺麗事は言わん」
画面を指差す。
「輸送ヘリ一機で救助できる人数が十人だとする。救難要請が二か所から来た。一方には三人。もう一方には二十人」
「二十人を優先する」
「普通はな」
「つまり人数を価値として扱う」
「そうなる」
榊原は腕を組んだ。
「だが、それだけじゃない」
「負傷程度」
「ああ」
「救出成功率」
「ああ」
「任務的重要度」
「ああ」
「救出対象が医師や技術者なら、生存させた場合の将来的利益も考慮する」
「ああ」
久世は少し考える。
「では、人間とAIの違いはどこです」
榊原は答えた。
「最後の一人だ」
「最後の一人?」
榊原は画面の黄色い点を一つ示した。
「例えば、こいつが取り残されたとする」
避難民。
推定五十二歳。
男性。
負傷。
救出成功率十二パーセント。
救出を試みた場合、隊員二名の死亡リスクが大幅に上昇する。
画面のAIは即座に判断を表示した。
《RESCUE NOT RECOMMENDED》
久世が読む。
「合理的です」
「そうだ」
「救出しない方がいい」
「ああ」
「なら」
榊原は言った。
「それでも行く奴がいる」
久世は黙った。
「馬鹿だと思うか」
「場合によっては」
「俺もそう思う」
「……副代表」
「ただな」
榊原は黄色い点を見つめる。
「その馬鹿のおかげで、人間はたまに救われる」
久世は考え込んだ。
「感情による例外処理」
「お前の言い方だと、ずいぶん味気ないな」
「では、良心による例外処理」
「もっと酷くなったぞ」
久世の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
「しかし問題があります」
「言ってみろ」
「その“例外”を認めると、英雄願望も正当化されます」
榊原の表情から笑みが消えた。
「……その通りだ」
「救える可能性十二パーセントの人間を助けるために、部下二人を危険に晒す。それを美談にすれば、無謀な指揮官が生まれる」
「ああ」
「なら、AIの判断の方が倫理的では?」
榊原は腕を組んだまま考えた。
久世は続ける。
「AIは恐怖を感じない」
「ああ」
「名誉欲もない」
「ああ」
「部下に格好いいところを見せたいとも思わない」
「ああ」
「特定の人間だけを贔屓することも、設計次第で抑制できる」
「その通りだ」
「では、人間より公平では」
榊原は天井を見上げた。
「……それも一理あるな」
久世が少し意外そうな顔をした。
「否定しないんですね」
「俺はAI嫌いの老人じゃない」
「少し疑っていました」
「後で訓練場に来い」
「遠慮します」
数秒だけ、空気が緩んだ。
だが久世は再び画面を見る。
「私は」
小さく言った。
「AIに作戦を考えさせること自体は、悪いことだと思っていません」
榊原は黙って聞く。
「人間は疲労します」
「ああ」
「恐怖で判断を誤ります」
「ああ」
「仲間が死ねば復讐心も生じる」
「ああ」
「自分の立てた作戦を正しいと思い込み、撤回できなくなることもある」
「あるな」
「AIなら、それらを補正できる」
榊原が頷く。
「だから使うべきだ」
久世が榊原を見る。
「意外です」
「便利なものは使えばいい」
榊原はモニターを指差した。
「こいつは十万通りの作戦を一秒で検討できる」
「条件次第では百万通りでも」
「俺には無理だ」
「私にも無理です」
「なら計算はこいつにやらせればいい」
榊原は言った。
「だが――」
その声が、少し低くなる。
「決めさせるな」
久世は黙った。
「提案はさせる」
榊原は続ける。
「警告もさせる」
青い点。
赤い点。
黄色い点。
「損害も計算させる」
一拍。
「だが最後に、“この人間を見捨てる”と決めるのは、人間でなければならん」
久世が問う。
「なぜです」
「その判断を、後で後悔できるからだ」
久世は完全に黙った。
榊原が続ける。
「AIは判断を修正することはできる」
「はい」
「学習もできる」
「はい」
「だが後悔はしない」
「現在のAIなら」
「ああ」
榊原は静かに言った。
「俺はな、久世」
画面の黄色い点を見た。
「指揮官には、後悔する能力が必要だと思ってる」
久世の指が止まった。
「合理性と矛盾します」
「矛盾してていい」
榊原は言った。
「人間だからな」
またサーバーの音だけが残った。
久世は長い間、画面を見ていた。
やがてキーボードを叩く。
新しい条件を入力した。
《OBJECTIVE FUNCTION》
これまで設定されていた項目。
《MISSION SUCCESS》
《FRIENDLY SURVIVAL》
《CIVILIAN SURVIVAL》
《TARGET CAPTURE》
その下に、久世は新しい項目を追加した。
《HUMAN REVIEW REQUIRED》
榊原が見る。
「何だそれは」
「最終判断を必ず人間が承認する設定です」
「そんなもの、最初から入ってなかったのか」
「入っています」
久世は平然と言った。
「今のは私の個人的な確認用です」
「紛らわしいことをするな」
「あと一つ」
久世は別の設定を開いた。
そこには、AIが救助対象を優先順位順に並べる画面が表示された。
負傷度。
生存確率。
作戦的重要性。
救出リスク。
全て数値化されている。
久世は一番下に新しい注意書きを入力した。
《LOW PRIORITY DOES NOT MEAN LOW VALUE》
榊原が読む。
「低優先順位は……低価値を意味しない」
「はい」
「AIに読ませるのか」
「人間に読ませます」
久世は言った。
「AIより、人間の方が忘れそうなので」
榊原は一瞬黙り――
小さく笑った。
「お前らしい」
「褒め言葉として受け取ります」
時計は午前一時四十一分。
シミュレーションが終了した。
《MISSION SUCCESS》
青い点が十二。
黄色い点が三百九十四。
赤い点は消えた。
だが画面の隅には、
《CASUALTIES》
という文字が残っていた。
久世はそれをしばらく見つめた。
「榊原副代表」
「なんだ」
「もう一つだけ」
「今日はよく質問するな」
久世は言った。
「もしAIが、いつか本当に人間と同じように後悔するようになったら」
榊原は立ち上がる。
「その時は?」
久世が尋ねる。
「作戦指揮を任せられますか」
榊原は扉へ向かいながら、しばらく考えた。
そして足を止めた。
「その時は――」
振り返る。
「そいつを指揮官にする前に、まず休暇をやる」
久世が瞬きをする。
「なぜです」
「命の責任を背負って後悔する奴なら、もう十分俺たちと同じだからだ」
扉が閉まった。
久世は一人、モニターを見る。
成功率。
損害率。
生存率。
数字は正確だった。
少なくとも、人間よりはずっと正確だった。
それでも久世は、
《EXPECTED CIVILIAN CASUALTIES 1.8》
という表示を見ながら、小さく呟いた。
「一・八人……」
眼鏡を押し上げる。
「やはり、この表示は嫌いですね」
久世冬馬が数字を嫌うことなど、滅多になかった。
その夜。
彼は初めて、
数字が間違っているからではなく、
正しすぎるからこそ恐ろしい
ということを理解した。




