↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/43

責任の所在

午後十一時四十七分。


ヤタガラス本部、統合作戦室。


照明の半分が落とされた室内には、まだ数台のモニターだけが青白い光を放っていた。


その前で、久世冬馬は腕を組んでいた。


画面には無数の数字が並んでいる。


衛星画像の更新周期。

対象地域の人口密度。

過去半年間の治安事件発生率。

武装勢力の移動履歴。

通信量の増減。

現地通貨の変動。

燃料価格。

物流速度。


そして、そのすべてを統合した最終行。


《任務成功推定確率 83.7%》


「……高いのか?」


背後から声がした。


久世は振り返らない。


足音だけで誰か分かっていた。


「一般的な意味では、高いです」


榊原宗一郎が紙コップを二つ持って入ってきた。


片方を久世の机に置く。


「一般的でない意味では?」


「十六・三パーセントの確率で失敗します」


榊原は椅子を引いた。


「なるほど。急に怖くなったな」


「確率とはそういうものです」


「お前が言うと余計に怖い」


榊原はコーヒーを一口飲んだ。


久世は画面を指差した。


「この数字はかなり保守的に出しています。敵戦力を実際より二割増し、現地協力者の信頼度を一段階低く、通信障害発生率も過去平均より高く設定しています」


「それでも八十三・七」


「はい」


「なら、実際はもっと高い可能性もある」


「あります」


「もっと低い可能性も?」


「当然あります」


榊原は笑った。


「便利だな、数字ってのは」


久世がわずかに眉を動かした。


「皮肉ですか」


「半分は」


榊原は画面を眺める。


「俺は昔から思ってるんだがな。数字は嘘をつかないと言うだろう」


「数字そのものは嘘をつきません」


「だが数字を選ぶ人間は嘘をつく」


久世は即答した。


「正確には、意図的でなくても歪めます」


「そこだ」


榊原が指を一本立てた。


「現場の人間はよく言う。『データではこうなってます』ってな」


「よくあります」


「責任から逃げるときに便利なんだ」


久世の目が細くなる。


「私はデータを免罪符にする人間が嫌いです」


榊原が横目で見る。


「意外だな」


「何がです」


「お前ならデータと結婚できると思っていた」


「離婚します」


「早いな」


「データは浮気しますから」


榊原が少しだけ吹き出した。


久世は真顔だった。


「昨日まで正しかった相関が、今日も正しい保証はありません。母集団が変わる。環境が変わる。観測方法が変わる。敵がこちらの分析手法を学習すれば、意図的な偽装データを混ぜることもできます」


「つまり信用ならん女だ」


「男女に例える必要はありません」


「例えたのお前だろ」


数秒、沈黙。


久世はコーヒーを一口飲んだ。


「榊原副代表」


「なんだ」


「あなたは成功確率が何パーセントなら作戦を承認しますか」


榊原は少し考えた。


「質問が悪いな」


「どこがです」


「成功って何だ」


久世が初めて振り返った。


榊原は続けた。


「依頼人を救出できれば成功か。隊員が一人死んでも成功か。敵を全滅させれば成功か。民間人に被害が出ても契約を達成すれば成功か」


久世は答えなかった。


「確率を出すには、まず成功の定義を決めないとな」


「その通りです」


「なのに世の中は数字だけ見たがる」


榊原は画面の83.7という数字を指した。


「これなんか、実に気持ちがいい」


「なぜです」


「小数点があるからだ」


久世が榊原を見る。


「八十三・七。いかにも計算しましたって顔をしてる」


「実際、計算しています」


「そうじゃない」


榊原は苦笑した。


「八十四パーセントより八十三・七パーセントのほうが、人間はなんとなく信じるんだ」


久世は数秒考えた。


「精密性の錯覚ですね」


「名前があるのか」


「近い概念はいくつかあります」


「ほらな。お前と話すと、俺が普通に感じてること全部に名前がつく」


「名前を付けるのは分類の第一歩です」


「分類しすぎると本質を見失うぞ」


「分類しなければ再現性がなくなります」


「再現性だけで戦争ができるか?」


「経験だけでもできません」


二人は黙った。


喧嘩ではない。


この二人の場合、意見がぶつかってからが会話の本番だった。


榊原が腕を組む。


「昔な」


「はい」


「部下を十二人連れて行く任務があった」


久世は画面から視線を外した。


榊原が昔話をするときは、だいたい何かある。


「事前評価はかなり良かった。敵の数も少ない。地形も悪くない。航空支援もある。情報部も『問題なし』と言った」


「結果は」


「敵が三倍いた」


久世は黙った。


「地元住民の一人が情報を売ってた。敵は通信を切って、こちらが来るのを待っていた」


「情報汚染ですか」


「ああ」


榊原は紙コップをゆっくり回した。


「数字は間違ってなかったんだ。入力された情報に対しては、ちゃんと正しかった」


「入力が間違っていた」


「そうだ」


「被害は」


榊原は一拍置いた。


「二人死んだ」


久世の指が止まった。


「俺はあのとき思った」


榊原は静かに言った。


「数字は責任を取らないんだな、って」


モニターのファンの音だけが聞こえる。


「情報部も悪くない。分析官も悪くない。あいつらは持ってる材料で最善を出した」


「では、誰の責任だと」


「俺だよ」


榊原は即答した。


「行くと決めたのは俺だからな」


久世はしばらく何も言わなかった。


やがて、画面の端にあるパラメータを一つ開いた。


「私は」


「ん?」


「逆の失敗をしたことがあります」


榊原が見る。


「政府系組織にいた頃です。あるネットワークへの侵入兆候を検知しました」


久世の声はいつもと変わらない。


「統計上は誤検知の可能性が高かった。似たアラートが過去にも大量にありました」


「無視した?」


「保留しました」


「同じようなもんだ」


「はい」


久世は否定しなかった。


「翌朝、侵入が確認されました」


榊原の顔から笑みが消えた。


「損害は?」


「金額換算は可能です。ただし、それを言っても本質ではありません」


「珍しいことを言うな」


「人間の判断で止められた可能性があった」


久世は画面を見る。


「私はモデルを信頼したのではありません。モデルを理由に、自分が判断することを先送りした」


榊原が静かにうなずいた。


「それは痛いな」


「はい」


「だからデータを免罪符にする奴が嫌いなのか」


「自分もやったからです」


榊原はコーヒーを飲み干した。


「いい答えだ」


「褒められる話ではありません」


「失敗を忘れてない人間は信用できる」


「非科学的です」


「信用ってのはだいたい非科学的だ」


「だから事故が起きます」


「だから組織にはお前みたいなのが必要なんだよ」


久世が榊原を見る。


榊原は続けた。


「経験で走る人間だけじゃ組織は壊れる。数字だけで動く組織も壊れる」


「中庸ですか」


「嫌いな言葉だな」


「なぜです」


「なんでも五分五分にすれば賢く見えるからだ」


「では?」


「役割分担だ」


榊原は83.7の数字を見る。


「お前は数字を出す」


「はい」


「ホオズキ代表が決める」


「はい」


「現場が実行する」


「はい」


「そして失敗したら、決めた人間が責任を取る」


久世が少し考えた。


「非常に古典的ですね」


「組織ってのは案外、古典的なところで壊れる」


「例えば?」


「責任者が責任を取らない」


「ああ」


久世は妙に納得した顔をした。


「確かにそれは、何千年たっても改善されませんね」


「だろ?」


しばらくして久世がキーボードを叩いた。


成功確率83.7%の横に、新しい表示が追加される。


《主要不確実性要因》

《情報源信頼度》

《モデル外事象》

《最悪ケース想定》

《撤退判断基準》


榊原が見る。


「増えたな」


「数字だけ見て判断されると困るので」


「誰にだ?」


「主に代表です」


「本人に言え」


「言います」


さらに久世は一行追加した。


《本数値は意思決定を代替しない》


榊原が笑う。


「それ、報告書に毎回入れる気か」


「入れます」


「誰も読まなくなるぞ」


「読まない人間が事故を起こします」


「違いない」


榊原は立ち上がった。


出口へ向かいながら、ふと思い出したように振り返る。


「久世」


「はい」


「結局、今回の作戦。お前ならやるか?」


久世は画面を見る。


八十三・七パーセント。


しばらく考えた。


そして答えた。


「やります」


「理由は?」


「数字が高いからではありません」


榊原が黙って続きを待つ。


久世は画面を閉じた。


「失敗した場合の撤退手段が三つあり、通信断時の代替指揮系統があり、負傷者搬送手段が確保されていて、現場指揮官が撤退を恥だと思わない人物だからです」


榊原が笑った。


「そっちのほうが信用できる答えだ」


「ただし」


「まだあるのか」


「成功確率八十三・七パーセントという数字も、かなり信用しています」


「結局数字好きじゃねえか」


「数字は裏切りません」


「さっき浮気するって言ってただろ」


久世は眼鏡を押し上げた。


「それでも付き合う価値のある相手です」


榊原は数秒黙った。


そして廊下へ出ながら言った。


「お前、思ったより面倒くさい男だな」


久世は再びモニターを起動した。


「榊原副代表」


「なんだ」


「それを定量化しますか?」


廊下の向こうから返事が来た。


「絶対するな」


午後十一時五十九分。


統合作戦室には再びキーボードの音だけが残った。


そして翌朝。


作戦会議資料の最終ページには、小さな文字でこう書かれていた。


《本資料に記載された数値は、指揮官の判断および責任を代替するものではない》


その一文を読んだ九条ホオズキは、しばらく黙ったあと榊原に尋ねた。


「……昨日、久世と何を話した?」


榊原は深くため息をついた。


「小難しい話です」


「見れば分かる」


「俺にも全部は分かりませんでした」


会議室の端で久世だけが、


「理解には十分な会話だったと思います」


と真顔で答えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。