責任の所在
午後十一時四十七分。
ヤタガラス本部、統合作戦室。
照明の半分が落とされた室内には、まだ数台のモニターだけが青白い光を放っていた。
その前で、久世冬馬は腕を組んでいた。
画面には無数の数字が並んでいる。
衛星画像の更新周期。
対象地域の人口密度。
過去半年間の治安事件発生率。
武装勢力の移動履歴。
通信量の増減。
現地通貨の変動。
燃料価格。
物流速度。
そして、そのすべてを統合した最終行。
《任務成功推定確率 83.7%》
「……高いのか?」
背後から声がした。
久世は振り返らない。
足音だけで誰か分かっていた。
「一般的な意味では、高いです」
榊原宗一郎が紙コップを二つ持って入ってきた。
片方を久世の机に置く。
「一般的でない意味では?」
「十六・三パーセントの確率で失敗します」
榊原は椅子を引いた。
「なるほど。急に怖くなったな」
「確率とはそういうものです」
「お前が言うと余計に怖い」
榊原はコーヒーを一口飲んだ。
久世は画面を指差した。
「この数字はかなり保守的に出しています。敵戦力を実際より二割増し、現地協力者の信頼度を一段階低く、通信障害発生率も過去平均より高く設定しています」
「それでも八十三・七」
「はい」
「なら、実際はもっと高い可能性もある」
「あります」
「もっと低い可能性も?」
「当然あります」
榊原は笑った。
「便利だな、数字ってのは」
久世がわずかに眉を動かした。
「皮肉ですか」
「半分は」
榊原は画面を眺める。
「俺は昔から思ってるんだがな。数字は嘘をつかないと言うだろう」
「数字そのものは嘘をつきません」
「だが数字を選ぶ人間は嘘をつく」
久世は即答した。
「正確には、意図的でなくても歪めます」
「そこだ」
榊原が指を一本立てた。
「現場の人間はよく言う。『データではこうなってます』ってな」
「よくあります」
「責任から逃げるときに便利なんだ」
久世の目が細くなる。
「私はデータを免罪符にする人間が嫌いです」
榊原が横目で見る。
「意外だな」
「何がです」
「お前ならデータと結婚できると思っていた」
「離婚します」
「早いな」
「データは浮気しますから」
榊原が少しだけ吹き出した。
久世は真顔だった。
「昨日まで正しかった相関が、今日も正しい保証はありません。母集団が変わる。環境が変わる。観測方法が変わる。敵がこちらの分析手法を学習すれば、意図的な偽装データを混ぜることもできます」
「つまり信用ならん女だ」
「男女に例える必要はありません」
「例えたのお前だろ」
数秒、沈黙。
久世はコーヒーを一口飲んだ。
「榊原副代表」
「なんだ」
「あなたは成功確率が何パーセントなら作戦を承認しますか」
榊原は少し考えた。
「質問が悪いな」
「どこがです」
「成功って何だ」
久世が初めて振り返った。
榊原は続けた。
「依頼人を救出できれば成功か。隊員が一人死んでも成功か。敵を全滅させれば成功か。民間人に被害が出ても契約を達成すれば成功か」
久世は答えなかった。
「確率を出すには、まず成功の定義を決めないとな」
「その通りです」
「なのに世の中は数字だけ見たがる」
榊原は画面の83.7という数字を指した。
「これなんか、実に気持ちがいい」
「なぜです」
「小数点があるからだ」
久世が榊原を見る。
「八十三・七。いかにも計算しましたって顔をしてる」
「実際、計算しています」
「そうじゃない」
榊原は苦笑した。
「八十四パーセントより八十三・七パーセントのほうが、人間はなんとなく信じるんだ」
久世は数秒考えた。
「精密性の錯覚ですね」
「名前があるのか」
「近い概念はいくつかあります」
「ほらな。お前と話すと、俺が普通に感じてること全部に名前がつく」
「名前を付けるのは分類の第一歩です」
「分類しすぎると本質を見失うぞ」
「分類しなければ再現性がなくなります」
「再現性だけで戦争ができるか?」
「経験だけでもできません」
二人は黙った。
喧嘩ではない。
この二人の場合、意見がぶつかってからが会話の本番だった。
榊原が腕を組む。
「昔な」
「はい」
「部下を十二人連れて行く任務があった」
久世は画面から視線を外した。
榊原が昔話をするときは、だいたい何かある。
「事前評価はかなり良かった。敵の数も少ない。地形も悪くない。航空支援もある。情報部も『問題なし』と言った」
「結果は」
「敵が三倍いた」
久世は黙った。
「地元住民の一人が情報を売ってた。敵は通信を切って、こちらが来るのを待っていた」
「情報汚染ですか」
「ああ」
榊原は紙コップをゆっくり回した。
「数字は間違ってなかったんだ。入力された情報に対しては、ちゃんと正しかった」
「入力が間違っていた」
「そうだ」
「被害は」
榊原は一拍置いた。
「二人死んだ」
久世の指が止まった。
「俺はあのとき思った」
榊原は静かに言った。
「数字は責任を取らないんだな、って」
モニターのファンの音だけが聞こえる。
「情報部も悪くない。分析官も悪くない。あいつらは持ってる材料で最善を出した」
「では、誰の責任だと」
「俺だよ」
榊原は即答した。
「行くと決めたのは俺だからな」
久世はしばらく何も言わなかった。
やがて、画面の端にあるパラメータを一つ開いた。
「私は」
「ん?」
「逆の失敗をしたことがあります」
榊原が見る。
「政府系組織にいた頃です。あるネットワークへの侵入兆候を検知しました」
久世の声はいつもと変わらない。
「統計上は誤検知の可能性が高かった。似たアラートが過去にも大量にありました」
「無視した?」
「保留しました」
「同じようなもんだ」
「はい」
久世は否定しなかった。
「翌朝、侵入が確認されました」
榊原の顔から笑みが消えた。
「損害は?」
「金額換算は可能です。ただし、それを言っても本質ではありません」
「珍しいことを言うな」
「人間の判断で止められた可能性があった」
久世は画面を見る。
「私はモデルを信頼したのではありません。モデルを理由に、自分が判断することを先送りした」
榊原が静かにうなずいた。
「それは痛いな」
「はい」
「だからデータを免罪符にする奴が嫌いなのか」
「自分もやったからです」
榊原はコーヒーを飲み干した。
「いい答えだ」
「褒められる話ではありません」
「失敗を忘れてない人間は信用できる」
「非科学的です」
「信用ってのはだいたい非科学的だ」
「だから事故が起きます」
「だから組織にはお前みたいなのが必要なんだよ」
久世が榊原を見る。
榊原は続けた。
「経験で走る人間だけじゃ組織は壊れる。数字だけで動く組織も壊れる」
「中庸ですか」
「嫌いな言葉だな」
「なぜです」
「なんでも五分五分にすれば賢く見えるからだ」
「では?」
「役割分担だ」
榊原は83.7の数字を見る。
「お前は数字を出す」
「はい」
「ホオズキ代表が決める」
「はい」
「現場が実行する」
「はい」
「そして失敗したら、決めた人間が責任を取る」
久世が少し考えた。
「非常に古典的ですね」
「組織ってのは案外、古典的なところで壊れる」
「例えば?」
「責任者が責任を取らない」
「ああ」
久世は妙に納得した顔をした。
「確かにそれは、何千年たっても改善されませんね」
「だろ?」
しばらくして久世がキーボードを叩いた。
成功確率83.7%の横に、新しい表示が追加される。
《主要不確実性要因》
《情報源信頼度》
《モデル外事象》
《最悪ケース想定》
《撤退判断基準》
榊原が見る。
「増えたな」
「数字だけ見て判断されると困るので」
「誰にだ?」
「主に代表です」
「本人に言え」
「言います」
さらに久世は一行追加した。
《本数値は意思決定を代替しない》
榊原が笑う。
「それ、報告書に毎回入れる気か」
「入れます」
「誰も読まなくなるぞ」
「読まない人間が事故を起こします」
「違いない」
榊原は立ち上がった。
出口へ向かいながら、ふと思い出したように振り返る。
「久世」
「はい」
「結局、今回の作戦。お前ならやるか?」
久世は画面を見る。
八十三・七パーセント。
しばらく考えた。
そして答えた。
「やります」
「理由は?」
「数字が高いからではありません」
榊原が黙って続きを待つ。
久世は画面を閉じた。
「失敗した場合の撤退手段が三つあり、通信断時の代替指揮系統があり、負傷者搬送手段が確保されていて、現場指揮官が撤退を恥だと思わない人物だからです」
榊原が笑った。
「そっちのほうが信用できる答えだ」
「ただし」
「まだあるのか」
「成功確率八十三・七パーセントという数字も、かなり信用しています」
「結局数字好きじゃねえか」
「数字は裏切りません」
「さっき浮気するって言ってただろ」
久世は眼鏡を押し上げた。
「それでも付き合う価値のある相手です」
榊原は数秒黙った。
そして廊下へ出ながら言った。
「お前、思ったより面倒くさい男だな」
久世は再びモニターを起動した。
「榊原副代表」
「なんだ」
「それを定量化しますか?」
廊下の向こうから返事が来た。
「絶対するな」
午後十一時五十九分。
統合作戦室には再びキーボードの音だけが残った。
そして翌朝。
作戦会議資料の最終ページには、小さな文字でこう書かれていた。
《本資料に記載された数値は、指揮官の判断および責任を代替するものではない》
その一文を読んだ九条ホオズキは、しばらく黙ったあと榊原に尋ねた。
「……昨日、久世と何を話した?」
榊原は深くため息をついた。
「小難しい話です」
「見れば分かる」
「俺にも全部は分かりませんでした」
会議室の端で久世だけが、
「理解には十分な会話だったと思います」
と真顔で答えていた。




