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3つの逃げ道



夜の雨は、街の汚れを洗い流すには少し弱かった。


歓楽街の外れ。


看板の半分が消えた雑居ビルの前で、黒いセダンが静かに停まっている。


助手席の九条ホオズキは、膝の上のタブレットを見ていた。


黒髪を高い位置で束ね、黒いジャケットの襟元まできっちり閉じている。


画面には一人の男の写真。


鷲尾組若頭・堂島勝巳。


違法金融、恐喝、地上げ、企業への脅迫。


表向きは不動産会社社長。


だが今回、ヤタガラスが追っている理由は別だった。


「……十八歳の少年を使って借金の取り立てか」


ホオズキが呟いた。


運転席の真壁仁は答えなかった。


雨粒がフロントガラスを流れている。


ワイパーが一度動く。


やがて仁が低く言った。


「ガキに脅しやらせて、捕まったら全部そいつの責任にする」


「典型的?」


「典型的って言葉で済ませたくねえ類だ」


ホオズキが仁を見る。


真壁仁。


ヤタガラスの人間の中でも、裏社会との距離がもっとも近かった男。


若い頃。


喧嘩しか取り柄のなかった仁を拾ったのは、一人の古い極道だった。


山口源蔵。


――強いなら、守るものを決めろ。


――仁ってのはな、人間を人間として扱うことだ。


その教えは今も残っている。


だからこそ仁には三つの掟があった。


一般人を巻き込まない。


女子供を食い物にしない。


仲間を売らない。


堂島は、その全部を破っていた。


「怒ってる?」


ホオズキが聞いた。


仁は前を見たまま鼻で笑った。


「代表」


「何?」


「俺が本当に怒ってる時は、もうちょっと愛想がいい」


ホオズキは数秒黙った。


「怖いこと言うね」


「よく言われる」


タブレットに通知が入った。


ホオズキが確認する。


「動いた」


仁の目が細くなる。


雑居ビルの裏口から、二人の男が出てきた。


続いて堂島。


傘も差さず、高級そうなコートを頭にかぶせながら駐車場へ走る。


「予定通りね」


ホオズキが言った。


仁はエンジンをかけた。


「予定通りすぎるな」


「逃げる人間は、自分だけは賢いと思ってる」


「そりゃ耳が痛え」


「仁は違うでしょう」


「俺は自分が馬鹿だって知ってる」


「それは強い」


「褒めてねえだろ」


セダンが静かに発進した。


---


堂島には逃走経路が三つあった。


一つ目。


高速道路。


二つ目。


湾岸の倉庫街。


三つ目。


旧市街にある鷲尾組系の事務所。


「たぶん高速」


仁が言った。


「理由は?」


「堂島は自分で運転しねえ。運転手を使うタイプだ。そういう奴は逃げる時も“道”を選ぶ。裏路地を勘で抜ける度胸はねえ」


「なるほど」


堂島の黒いSUVが大通りへ出る。


仁の予想通り、高速入口へ向かった。


しかし。


料金所手前で堂島の車が急減速した。


道路情報掲示板。


事故通行止め。


堂島の車が強引に車線変更する。


仁が笑う。


「一本目」


ホオズキは無表情だった。


事故はヤタガラスが起こしたものではない。


道路管理会社に提出された、一台の故障車両の情報。


それを少し早く堂島側へ流しただけだ。


高速道路は最初から使えなかった。


「次は湾岸」


ホオズキが言う。


「いや」


仁が首を振る。


「一回予定を潰された人間は、“安全な場所”に行きたがる」


「組事務所?」


「ああ」


「でも堂島は鷲尾組を裏切ってる」


仁がニヤリとした。


「本人はまだ、バレてねえと思ってる」


ホオズキが少しだけ笑った。


「なるほど」


堂島のSUVが旧市街へ向かう。


二本目の逃げ道。


自分から捨てた。


---


二十分後。


鷲尾組系列の古い事務所。


堂島が車から飛び降りた。


「開けろ!」


シャッターを叩く。


反応なし。


「おい! 俺だ! 堂島だ!」


もう一度。


「開けろ!」


暗い。


人の気配すらない。


堂島の部下が不安そうに周囲を見る。


「若頭……?」


堂島はスマートフォンを取り出した。


電話をかける。


誰も出ない。


二度。


三度。


四度。


誰も。


そこへメッセージが届いた。


差出人は鷲尾組組長。


たった一行だった。


――もう若頭と呼ぶな。


堂島の顔から血の気が引いた。


少し離れた路地。


車内からその様子を見ながら、ホオズキが言った。


「二本目」


仁は煙草を取り出しかけて、ホオズキを見た。


ホオズキも仁を見る。


数秒。


仁は煙草を戻した。


「車内禁煙だったな」


「偉い」


「俺もう五十近い気分になってきた」


「まだそこまでじゃないでしょう」


「最近お前らといると老けるんだよ」


堂島の車が再び動いた。


行き先は一つ。


湾岸倉庫街。


最後の逃げ道だった。


---


午前一時十三分。


海沿いの倉庫。


堂島は完全に追い詰められていた。


海外へ逃げるために用意していた車。


偽造書類。


現金。


連絡役。


全部消えていた。


正確には、消えてはいない。


連絡役は逃げた。


偽造書類の業者は取引を拒否。


車の鍵は別の場所へ移動。


そして堂島が隠していた現金は――


「ない……」


倉庫の床。


空っぽの金庫。


「なんで……」


堂島が震える。


「なんで誰も俺に連絡しねえ……!」


その時だった。


倉庫の奥から声がした。


「そりゃお前」


堂島が振り返る。


暗闇から真壁仁が歩いてくる。


黒いジャケット。


両手は空。


だが堂島の部下二人は、本能的に後退した。


仁の顔を知っていた。


「ま……真壁……」


仁は肩をすくめた。


「懐かしいな。俺の名前知ってる奴、まだいるんだな」


「なんでお前が……!」


「仕事だよ」


「ヤタガラスか……!」


「ご名答」


堂島が周囲を見回す。


「九条はどこだ!」


「いるぞ」


上から声がした。


二階のキャットウォーク。


ホオズキが立っていた。


黒いジャケット。


腕を組み、堂島を見下ろしている。


「こんばんは、堂島勝巳さん」


堂島の顔が引きつる。


「……何が目的だ」


「依頼の完遂」


「誰だ!」


「依頼人?」


ホオズキは首を少し傾けた。


「あなたが脅迫した町工場の社長」


堂島の表情が変わる。


「あなたに土地を奪われかけた老人」


もう一つ。


「それから」


ホオズキの声が冷たくなる。


「あなたが使い捨てた十八歳の少年の母親」


沈黙。


堂島は笑った。


乾いた笑いだった。


「くだらねえ……!」


仁の表情が消えた。


堂島は叫ぶ。


「あんなガキ一匹のために、PMCが動いたってのか!」


仁が一歩進んだ。


部下が怯える。


「真壁……」


仁は答えなかった。


二歩。


三歩。


堂島の目の前まで来る。


「一個だけ聞く」


「……なんだよ」


「ガキに取り立てやらせたのは誰の判断だ」


「……」


「捕まった時、全部そいつに被せろって言ったのは」


「知らねえよ!」


仁が目を細めた。


「そうか」


声は穏やかだった。


だからこそ怖かった。


「じゃあ話は早い」


堂島が後ろへ下がる。


「お、おい」


「昔な」


仁は言った。


「俺にも親父みてえな人がいた」


堂島が止まる。


「極道だった」


ホオズキは黙って聞いていた。


「古臭くて、頑固で、説教ばっかする人だったよ」


仁の目から笑いが消える。


「でもな」


一歩。


「一般人を食い物にする奴は嫌ってた」


もう一歩。


「女子供を使う奴も嫌ってた」


そして。


「仲間を売る奴は、もっと嫌ってた」


堂島の背中が金庫に当たった。


仁が静かに言った。


「お前、全部やったな」


堂島が叫ぶ。


「綺麗事言ってんじゃねえ!」


倉庫に声が響く。


「極道だろうが傭兵だろうが警察だろうが! 結局力のある奴が――」


「違う」


ホオズキだった。


堂島が上を見る。


「力がある人間ほど、越えてはいけない線が増える」


ホオズキは階段を降りてくる。


ゆっくり。


足音だけが響く。


「力がないから何をしてもいいんじゃない」


一段。


「力があるから何をしてもいいんでもない」


また一段。


「結果を引き受ける覚悟がある人間だけが、人に命令できる」


堂島が唇を歪めた。


「お前みたいな小娘に何が分かる!」


仁の眉が動いた。


しかしホオズキは平然としていた。


「そうね」


堂島の前まで来る。


「だから私は、結果で話す」


ホオズキがタブレットを差し出した。


画面には大量の資料。


送金記録。


脅迫音声。


契約書。


監視映像。


違法融資の記録。


堂島の顔が青くなっていく。


「これは……」


「あなたが消そうとした記録」


「……」


「こちらは鷲尾組への裏切りを示す帳簿」


堂島の唇が震える。


「それから」


画面を切り替える。


「警察へ提出済み」


堂島が凍った。


外。


遠くからサイレンが聞こえてくる。


「……てめえ……!」


堂島がホオズキへ飛びかかった。


仁が動いた。


ほんの一瞬だった。


腕を取り。


体勢を崩し。


堂島を床へ伏せる。


大きな音さえしなかった。


「ぐっ……!」


仁が堂島の腕を押さえる。


「やめとけ」


「離せ!」


「代表に触るなら話は別だ」


「殺せよ!」


堂島が叫ぶ。


「どうせ俺を殺しに来たんだろうが!」


仁が顔をしかめた。


「馬鹿言うな」


堂島を見る。


「お前のために人生棒に振るほど暇じゃねえよ」


ホオズキも淡々と言った。


「ヤタガラスは殺し屋ではない」


サイレンが近づいてくる。


「私たちは依頼を完遂するだけ」


「俺は……」


堂島が喘ぐ。


「俺はまだ……終わってねえ……!」


ホオズキが堂島を見下ろす。


「そうね」


一瞬だけ、目が鋭くなる。


「だから生きて責任を取って」


---


倉庫を出る頃には雨が上がっていた。


パトカーの赤色灯が濡れた道路に反射している。


堂島は警察車両へ乗せられた。


仁は少し離れた場所で、それを見ていた。


ホオズキが隣に立つ。


「殴らなかったね」


仁が苦笑した。


「俺を何だと思ってんだ」


「途中まで殴ると思ってた」


「代表」


「何?」


「俺、そこまで短気じゃねえぞ」


ホオズキはしばらく仁を見る。


「……そう?」


「その間はなんだ」


少し沈黙。


やがてホオズキが歩き出す。


仁も続く。


「でも」


ホオズキが言った。


「仁を連れてきて正解だった」


「俺じゃなくても追い詰められただろ」


「そういう話じゃない」


仁が眉を上げる。


「堂島みたいな人間は、法律や証拠だけじゃ自分が負けたと思わない」


ホオズキは前を向いたまま続ける。


「自分が何を間違えたのか分からせる人間が必要だった」


仁が少し黙った。


「……買いかぶりだ」


「そうかな」


「俺は説教できるほど立派じゃねえよ」


「立派な人間しか正しいことを言えないなら」


ホオズキがちらりと仁を見る。


「世の中、随分静かになるね」


仁は吹き出した。


「はは」


ホオズキもほんの少し笑う。


二人は車へ向かう。


仁が運転席へ乗り込む。


ホオズキが助手席へ座った。


エンジンがかかる。


「代表」


「何?」


「腹減らねえか」


時計は午前二時を回っている。


「ラーメン?」


「おう」


「経費?」


「……」


仁が沈黙した。


ホオズキを見る。


ホオズキも見る。


「今回、俺けっこう働いたよな?」


「働いた」


「経費でいいよな?」


「ダメ」


「なんでだよ」


「業務終了後だから」


「堅えなあ!」


車が夜の街へ走り出す。


三つあった堂島の逃げ道は、すべて消えた。


だが仁にはまだ一つ、大きな問題が残っていた。


深夜二時。


ラーメン代。


自腹。


それだけは――


九条ホオズキ相手には、どうにも逃げ切れそうになかった。

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