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数字は嘘をつかない



午後十時四十三分。


ヤタガラス本部、経理・財務部門。


普段ならほとんどの職員が帰宅している時刻だが、一室だけ照明が点いていた。


机の上には三台のモニター。


貸借対照表。


送金履歴。


関連会社一覧。


複雑に入り組んだ数字の海を、一条寺アカネは無言で眺めていた。


右手には電卓。


左手には冷めたコーヒー。


彼女の指だけが、一定の速度で動いている。


カタカタカタ。


ピッ。


カタカタ。


ピッ。


その背後で――


「ねえアカネ」


ソファに寝転んでいた篠宮レイナが、菓子の袋を抱えたまま声を上げた。


「まだ終わらない?」


「終わっています」


「じゃあ帰ろうよ」


「調査が終わったとは言っていません」


「……それって終わってないって言うんじゃない?」


アカネは答えなかった。


レイナはむくりと身体を起こす。


明るいアッシュブロンドの髪が肩から流れ落ちた。


「で?」


彼女はモニターを覗き込む。


「何がそんなに気になるの?」


「この会社です」


アカネが画面の一点を指した。


《東亜都市開発株式会社》


表向きは中堅の不動産開発会社。


今回ヤタガラスが受けた依頼は、この会社による取引先への不正な圧力の証拠を集めることだった。


本来なら企業調査レベルの案件である。


だがアカネは、三年分の決算資料を確認した時点で別の臭いを嗅ぎ取っていた。


「売上高百八十二億円。営業利益十二億円」


「うん」


「現預金三億七千万」


「うん?」


「ところが、この一年だけで設備投資名目の支出が二十六億」


レイナが瞬きをする。


「……お金足りなくない?」


アカネが初めてレイナを見る。


「正解です」


「やった」


「小学生でも分かります」


「褒めてから刺すのやめてくれる?」


アカネは視線を戻した。


「もっと面白いものがあります」


関連会社の一覧を開く。


その数、二十七社。


「多っ」


「このうち十四社が、同じ私書箱を登記上の所在地にしています」


「ペーパーカンパニー?」


「おそらく」


さらに画面が切り替わる。


「そしてこの十四社へ流れた資金の一部が、最終的にこの会社へ集約されています」


《LUXE CONSULTING》


「コンサル?」


「建前では」


アカネは静かに言った。


「昨年度の売上は六千万円。それに対し、東亜都市開発から支払われたコンサルティング料は――」


数字が表示される。


八億四千万円。


レイナの表情から笑みが消えた。


「……臭いね」


「ええ」


「犯罪?」


「まだ断定できません」


「じゃあどうする?」


アカネは眼鏡を押し上げた。


「帳簿を見ます」


「帳簿なら今見てるじゃん」


「本物をです」


レイナは数秒黙った。


そしてニヤリと笑った。


「なるほど」


その笑顔を見たアカネが、小さく眉をひそめる。


「何ですか」


「それ、私の仕事じゃん」


---


二日後。


都内の高級ホテル。


最上階の宴会場では、東亜都市開発主催の投資家向けレセプションが開かれていた。


煌びやかなシャンデリア。


高級スーツ。


宝石。


シャンパン。


企業経営者、投資家、政治家、金融関係者。


その人混みの中を、二人の女が歩いていた。


一人はレイナ。


黒のイブニングドレス。


普段のヤタガラス隊員としての姿からは想像できないほど華やかだった。


もう一人はアカネ。


深い紺色のドレスに、細身のジャケット。


手には小さなクラッチバッグ。


「笑って」


レイナが囁く。


「笑っています」


「それ、税務調査に来た人の顔」


「失礼ですね」


「もうちょっとこう……楽しそうに」


「八億四千万円の使途不明金を前にして楽しそうにする方法を私は知りません」


「今日の設定忘れてない?」


アカネは小声で答えた。


「海外ファンドの投資担当者」


「私は?」


「そのアシスタント」


レイナが足を止めた。


「逆じゃない?」


「あなたに財務諸表が読めますか?」


「……笑顔なら読める」


「何ですかそれ」


「人間の財務諸表」


アカネはため息をついた。


その直後。


「失礼」


初老の男が二人に近づいてきた。


東亜都市開発、専務取締役。


レイナの表情が一瞬で変わった。


柔らかな笑顔。


声のトーン。


姿勢。


視線。


すべてが別人になる。


「初めまして。篠宮と申します」


男は完全に油断した。


「いやあ、海外ファンドの方と伺っております」


「こちらが投資責任者の一条寺です」


紹介されたアカネは軽く頭を下げる。


「一条寺です」


「弊社への投資をご検討とか」


「数字次第ですね」


「ははは。厳しい」


「当然です」


レイナが小さくアカネの脇腹を肘で突いた。


――愛想。


という意味である。


しかし専務は逆に感心したようだった。


「いや、金融の世界ではそれくらいでなければ」


「では一つだけ」


「何でしょう」


アカネは微笑んだ。


その瞬間、レイナが思った。


――あ。


――これ、獲物を見つけた顔だ。


「御社の連結キャッシュフローについて質問があります」


専務の笑顔が、一ミリだけ固まった。


アカネは見逃さなかった。


レイナも見逃さなかった。


「昨年度、投資活動によるキャッシュフローが突出しています。しかし固定資産の増加額と一致しません」


「ええ、それは――」


「さらに外注費とコンサルティング費用が前年比で四百十二パーセント増加しています」


「……」


「非常に興味深いですね」


沈黙。


わずか三秒。


だが十分だった。


専務はグラスを置く。


「申し訳ありません。少々失礼します」


男が去っていく。


レイナが笑顔のまま囁いた。


「逃げた」


「ええ」


「追う?」


「お願いします」


「了解」


レイナはシャンパンをウェイターのトレイへ戻した。


「三分ちょうだい」


「二分で」


「鬼」


そう言い残し、人混みへ消える。


---


専務は宴会場を出た。


エレベーターには向かわない。


スタッフ専用通路。


レイナは二十メートル後方。


ヒールを履いているとは思えないほど足音がない。


角。


階段。


廊下。


専務がスマートフォンを取り出した。


「……まずいことになった」


会話が始まる。


レイナは柱の陰でイヤホンを操作した。


本部へ音声が送られる。


『帳簿を移せ』


レイナの目が細くなる。


『今夜中だ。税務でも警察でもない。民間だ』


相手の声は聞こえない。


だが次の言葉は明瞭だった。


『地下の保管庫だ。全部処分しろ』


レイナが小さく笑った。


「ビンゴ」


イヤホン越しにアカネの声。


『保管庫の場所を確認してください』


「了解」


『侵入はしないでください』


「信用ないなあ」


『ありません』


「即答しないでよ」


---


午前零時十二分。


東亜都市開発、本社地下。


もちろんレイナは侵入していた。


「だから侵入するなと言ったでしょう」


イヤホンの向こうからアカネの低い声。


「場所確認してるだけ」


「地下三階の施錠区画に入ることを一般社会では侵入と言います」


「ヤタガラスでは?」


「侵入です」


「厳しいね」


廊下の先から足音。


二人。


警備員ではない。


黒いスーツの男。


レイナは壁に身体を寄せる。


「二人来た」


『撤退してください』


「無理」


『なぜ』


「後ろからも一人」


沈黙。


アカネの声が変わった。


『……退路は』


「三つ。階段、非常口、エレベーター」


『監視カメラは』


「四台」


アカネの指が高速でキーボードを叩く。


『十五秒』


廊下の照明が落ちた。


「さすが」


完全な暗闇。


「誰だ!」


男たちの声。


レイナは動く。


一人目。


手首。


肘。


重心。


床へ。


二人目が振り返る前に背後へ回る。


膝裏を払う。


首元へ腕。


床。


三人目。


「お、おい――」


レイナは人差し指を唇へ当てる。


「静かに」


十秒後。


廊下には三人の男が転がっていた。


『怪我は』


「私はない」


『相手は』


「プライドが重傷」


『どうでもいいです』


「冷たいなあ」


レイナは保管庫の扉を見る。


「見つけた」


---


十分後。


レイナの小型カメラ越しに、アカネが帳簿を確認していた。


「右から三冊目」


「これ?」


「違います。その隣」


「字ちっちゃ!」


「会計帳簿ですから」


ページがめくられる。


アカネの目が鋭くなる。


「止めて」


レイナの手が止まった。


振替伝票。


送金記録。


架空発注。


複数の会社を経由した資金移動。


そして――


最終送金先。


アカネが息を止める。


「ありました」


「何が?」


「八億四千万円の行き先」


画面の向こうで、レイナの笑みが消える。


資金はさらに海外へ流れ、一部が犯罪組織の関連会社へ送られていた。


今回の依頼とは比較にならない。


企業の不正経理。


横領。


資金洗浄。


そして組織犯罪。


一本の線で繋がった。


「全部撮る?」


「全部です」


「何ページ?」


アカネが答える。


「四百八十二」


「……」


「どうしました?」


「聞かなきゃよかった」


---


翌朝。


ヤタガラス本部。


九条ホオズキの執務室。


机の上には分厚い報告書。


ホオズキがページをめくる。


アカネとレイナは並んで立っていた。


「つまり」


ホオズキが言った。


「企業間トラブルを調べていたら、資金洗浄ルートを一本丸ごと見つけた、と」


「はい」


アカネが答える。


「レイナ」


「はい」


「侵入した?」


レイナが笑う。


「ちょっとだけ」


「どのくらい?」


「地下三階まで」


ホオズキが額を押さえた。


アカネが横から言う。


「私は止めました」


「裏切った!」


「事実です」


ホオズキは長い息を吐く。


そして報告書を閉じた。


「まあいいわ」


二人を見る。


「よくやった」


アカネは軽く一礼した。


レイナは満面の笑み。


「ボーナス出る?」


「出ない」


「即答!?」


「そもそも依頼の範囲を勝手に十倍くらい広げたのは誰よ」


「アカネ」


「レイナです」


二人の声が同時に響いた。


互いを見る。


「え?」


「あなたでしょう」


「最初に八億四千万見つけたのアカネじゃん」


「地下へ入ったのはあなたです」


「照明消したのアカネじゃん」


「あなたを撤退させるためです」


「結果オーライじゃない?」


「会計に結果オーライという科目はありません」


ホオズキが小さく吹き出した。


「仲良くなったわね、二人とも」


二人が同時に答える。


「なってません」


また声が重なった。


沈黙。


レイナがアカネを見る。


アカネがレイナを見る。


レイナが笑った。


「今夜飲みに行こっか」


「嫌です」


「奢るよ」


「行きます」


「判断早っ!」


「費用対効果を考えました」


「アカネってさ」


レイナが楽しそうに肩を組もうとする。


アカネはそれを無言で避けた。


「絶対、お金が絡むと人格変わるよね」


「失礼ですね」


「敵に回したくないタイプ」


「あなたもです」


レイナが意外そうな顔をした。


アカネは資料を抱え、扉へ向かう。


すれ違いざま、一言だけ付け加えた。


「だから次も、あなたを指名します」


レイナが立ち止まった。


ほんの一瞬だけ。


いつもの軽い笑顔ではない、本当に嬉しそうな表情になる。


だがすぐにいつもの調子に戻った。


「了解、会計屋さん」


アカネが振り返る。


「金融・会計担当です」


「はいはい」


「あと今夜の飲食費ですが」


「ん?」


「経費処理できる店にしてください」


「自腹で奢るって言ってるでしょ!」


廊下に二人の声が響く。


執務室に残されたホオズキは、しばらく黙ってその声を聞いていた。


やがて、口元を少し緩める。


戦場で敵を見つける者。


帳簿から敵を見つける者。


やり方はまるで違う。


だが――


どちらも一度獲物を見つければ、決して逃がさない。


ヤタガラスには、


どうやら厄介な女がまた二人、増えたらしい。

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