悪党にも、線はある
夜の雨は、街の汚れを洗い流してくれる。
――そんな綺麗事を、真壁仁は信じていなかった。
雨はただ、血も、泥も、足跡も、同じように排水溝へ流すだけだ。
善人も悪人も区別しない。
だからこそ、人間の側が区別しなければならない。
何をしていいのか。
何をしてはいけないのか。
その線だけは。
「いやあ、いい夜ですねえ」
隣を歩く男が言った。
真壁は眉をしかめた。
「雨だぞ」
「だからですよ。髪型を気にしなくていい」
「お前、さっき十分くらい鏡見てただろ」
「見てませんよ。九分です」
「大差ねえ」
神代蓮司は笑った。
黒いジャケット。
黒いパンツ。
装備は目立たないよう最小限。
黒髪を後ろへ流したその顔は、こういう裏通りには場違いなほど整っている。
女なら十人中九人が振り返る。
残り一人も、おそらく見ないふりをして振り返る。
真壁に言わせれば、
――胡散臭え男だった。
「しかし代表も酷いですよね」
蓮司が言った。
「何がだ」
「潜入調査なら俺一人で十分なのに、なんで仁さんまで」
「俺に聞くな」
「俺のお目付け役?」
「知らん」
「信用ないなあ」
真壁が横目で見る。
「あると思ってたのか」
蓮司は胸を押さえた。
「傷つくなあ」
「その顔やめろ」
「泣いちゃいますよ?」
「勝手に泣け」
二人が向かっているのは、歓楽街の外れにある会員制クラブだった。
表向きは高級ラウンジ。
だが実態は違う。
違法な労働斡旋。
偽造身分証。
借金を利用した拘束。
そして、逃げようとした者への暴力。
ヤタガラスが掴んだ情報では、今夜、新しい「商品」が数人運び込まれる。
真壁の顔から、冗談の色が消えていた。
蓮司もまた、笑っている。
しかし目だけが違った。
「……嫌いなんですよねえ」
蓮司が呟く。
「何がだ」
「女を商品みたいに扱う奴」
真壁が一瞬、蓮司を見る。
「お前が言うと説得力がねえな」
「失礼だな。俺は女性が好きなだけです」
「同じようなもんだろ」
「全然違いますよ」
蓮司は傘を少し持ち上げた。
「嫌だって言われたら終わりです。それ以上は野暮でしょ」
真壁は黙った。
少しだけ。
本当に少しだけ。
口元が緩んだ。
「……そこだけはマシだな」
「え?」
「何でもねえ」
「今、褒めました?」
「褒めてねえ」
「録音しとけばよかったなあ」
「黙れ」
二人はクラブの裏口へ回った。
蓮司が端末を見る。
「裏口、監視カメラ一台。電子錠。中に二人」
「冬馬からか?」
「ええ。“焦りはCPUを奪うだけ”とか言いながら全部抜いてくれました」
「相変わらず何言ってんのかわからんな、あいつ」
「俺も半分くらいしか分かりません」
「お前もか」
電子錠が小さく鳴った。
解錠。
蓮司がドアを開ける。
「じゃ、行きますか」
その瞬間だった。
内側から男が飛び出した。
真壁は一歩踏み込む。
男の腕を掴み、壁へ押さえ込む。
鈍い音。
男が崩れる。
もう一人。
蓮司は身体を半歩ずらした。
拳が空を切る。
手首を取る。
軸を崩す。
床へ。
わずか数秒。
「はい、おやすみなさい」
蓮司が男を寝かせる。
真壁が見る。
「軽いな、お前は」
「仁さんが重すぎるんですよ」
「生き方がか」
「体重が」
真壁の拳が蓮司の肩に入った。
「痛っ!」
「先に行け」
「暴力反対」
「仕事中だ」
「はいはい」
廊下の奥。
低い音楽。
笑い声。
グラスの触れ合う音。
地下へ続く階段。
蓮司が前。
真壁が後ろ。
足音はない。
二人とも、こういう場所の歩き方を知っていた。
地下二階。
鉄扉。
蓮司が止まる。
「六人」
「見えるのか」
「音です」
「よく分かるな」
「女性のヒールの音なら三十メートル先でも――」
「そういう話じゃねえ」
蓮司が笑った。
だが次の瞬間、その笑みが消えた。
中から声が聞こえた。
「……嫌です」
若い女の声。
「帰らせてください」
男の笑い。
「借金返してから言えよ」
真壁の眉が動いた。
蓮司がドアノブに手を掛ける。
真壁が止めた。
「待て」
「……」
「合図を待て」
蓮司は答えなかった。
普段なら軽口の一つでも返す男が。
真壁は気づいた。
こいつは今、怒っている。
静かに。
かなり深く。
「神代」
「分かってます」
声だけは平静だった。
「仕事ですから」
通信機から声。
久世冬馬だった。
『警備系統の遮断完了。突入可能』
真壁が言う。
「行くぞ」
「了解」
扉が開いた。
室内の男たちが振り向く。
一人が叫ぶ。
「誰だ!」
真壁が答えた。
「通りすがりだ」
蓮司が続ける。
「親切なね」
一人が懐へ手を入れた。
蓮司が一気に距離を詰める。
腕を制御。
体勢を崩す。
もう一人が真壁へ向かう。
真壁は正面から受けた。
避けない。
真正面。
拳を受け流し、肩を押し込み、男を床へ転がす。
三人目。
四人目。
蓮司は舞うように。
真壁は岩が進むように。
まるで正反対だった。
だが、不思議なほど噛み合った。
真壁が相手の注意を引く。
その死角へ蓮司が入る。
蓮司が相手を動かす。
その先に真壁がいる。
最後の男が倒れた時。
室内には、低い音楽だけが残っていた。
蓮司がジャケットを直す。
「三分?」
真壁が時計を見る。
「二分十四秒」
「さすが俺」
「俺もいた」
「七割俺です」
「殺すぞ」
「冗談です」
部屋の隅。
三人の若い女性が怯えていた。
真壁が近づこうとする。
すると一人が身体を縮めた。
真壁は止まった。
自分の体格。
顔。
傷。
どう見ても安心させる人相ではない。
「……神代」
「はい」
「お前行け」
「俺?」
「俺よりマシだ」
蓮司が少し笑う。
「それ褒めてます?」
「早くしろ」
蓮司は女性たちの前まで行くと、しゃがんだ。
目線を低くする。
距離は詰めすぎない。
手も出さない。
「こんばんは」
女性たちは答えない。
「怪しいですよね、俺」
一人がわずかに頷いた。
「正直で結構」
蓮司は胸元からヤタガラスの身分証を出し、床へ置いた。
差し出さない。
自分たちで確認できる位置に置くだけ。
「PMCヤタガラスです。助けに来ました」
女の一人が震える声で言った。
「……本当に?」
「本当です」
「連れていかない?」
「連れていきません」
蓮司は笑わなかった。
「あなたたちが行きたいところへ行くための手伝いだけします」
真壁がそれを見ていた。
軽薄。
女好き。
口を開けば冗談。
いつもそんな男だ。
だが今。
女性たちの前で蓮司は、一度も勝手に触れなかった。
立たせようとも、腕を取ろうともしない。
本人たちが動くまで待っている。
――なるほどな。
真壁は心の中で呟いた。
こいつにも。
こいつなりの線がある。
その時。
背後で音。
倒れていた男の一人が起き上がった。
懐から拳銃。
真壁が振り向く。
間に合わない。
男の銃口が女性へ向いた。
蓮司の顔から、完全に表情が消えた。
一瞬だった。
蓮司が女性たちの前へ滑り込む。
同時に真壁が男の腕を掴んだ。
銃口が天井へ向く。
乾いた音。
照明が砕ける。
暗闇。
真壁の低い声。
「てめえ」
男が呻く。
「離せ!」
「女に銃向けるたぁ」
真壁の腕に力が入る。
「随分、立派な男だな」
「うるせえ!」
男が叫ぶ。
「こいつらは金で――」
そこまでだった。
真壁の顔が変わった。
蓮司が静かに言う。
「仁さん」
真壁が止まる。
「……」
「そこまで」
数秒。
真壁は男の腕を放した。
代わりに床へ組み伏せる。
拘束。
必要以上には殴らない。
蓮司が言った。
「意外と冷静ですね」
「誰に言ってんだ」
「昔の仁さんなら?」
真壁が睨む。
「聞くな」
蓮司は笑わなかった。
「了解」
その答えが。
真壁には少しありがたかった。
***
救出を終えた頃。
雨はまだ降っていた。
警察への引き渡し。
証拠の確保。
被害者の保護。
後処理班が動き始める。
二人は少し離れた自動販売機の前にいた。
真壁が缶コーヒーを買う。
一本。
もう一本。
蓮司へ投げる。
「お」
蓮司が受け取る。
「奢りですか?」
「百三十円だ」
「仁さんから奢ってもらったという事実が重要なんですよ」
「返せ」
「絶対返しません」
二人で缶を開けた。
雨の音。
しばらく無言。
蓮司が口を開く。
「昔、ヤクザだったって本当ですか」
「誰から聞いた」
「情報部」
「久世の野郎……」
「別に隠してないでしょ」
「まあな」
真壁は缶を見た。
「大した話じゃねえ」
「そうですか」
「ろくでもねえガキだった。喧嘩ばっかりしてた」
「想像つきます」
「うるせえ」
蓮司がコーヒーを飲む。
「でも」
少し間を置いた。
「人を助けるんですね」
真壁が鼻で笑う。
「善人みてえに言うな」
「違うんですか」
「違う」
即答だった。
「俺は善人じゃねえ」
雨音。
「ただな」
真壁は続けた。
「何してもいい人間なんざ、この世にいねえんだよ」
蓮司が黙る。
「悪党なら悪党なりに、越えちゃいけねえ線がある」
昔。
山口源蔵という男に言われた言葉が、真壁の中に蘇る。
――強いなら、守るものを決めろ。
「一般人を巻き込まねえ」
一本目。
「女子供を食い物にしねえ」
二本目。
「仲間を売らねえ」
三本目。
「この三つを破る奴とは、俺は付き合わねえ」
蓮司は缶を見つめた。
「……いいですね、それ」
「古臭いだろ」
「いや」
蓮司は少し笑った。
いつもの軽薄な笑みではない。
「分かりやすい」
真壁が見る。
「お前はどうなんだ」
「俺?」
「線だよ」
蓮司は少し考えた。
「嫌がる相手には手を出さない」
「女の話か?」
「女も、それ以外もです」
笑顔が消える。
「弱って判断できない相手にはつけ込まない。部下にも手を出さない。任務対象にも手を出さない。既婚者も面倒だから避ける」
「最後だけ理由が軽いな」
「人生、面倒は少ない方がいい」
「他には?」
蓮司は夜の街を見る。
「仲間を置いていかない」
真壁の目が止まった。
蓮司は続ける。
「昔、一度置いていかれたことがあるんで」
それ以上は言わなかった。
真壁も聞かなかった。
人間には。
喋りたくない夜がある。
それを無理にこじ開けるのは仁義じゃない。
「そうか」
それだけ言った。
しばらくして。
蓮司が真壁を見る。
「仁さん」
「なんだ」
「俺たち、意外と似てますね」
真壁は即答した。
「どこがだ」
「女好き」
「俺は違う」
「強がらなくても」
「殺すぞ」
蓮司が笑う。
ようやく。
いつもの顔に戻った。
「でも俺、仁さん結構好きですよ」
「気持ち悪いこと言うな」
「そっちの意味じゃないですって」
「分かってる」
「代表に言っておこう。“真壁仁、神代蓮司との友情を否定できず”」
「神代」
「はい?」
真壁が首を鳴らす。
ゴキッ。
蓮司が一歩下がった。
「……冗談ですよね?」
真壁が笑う。
「嫌だって言ったらやめてやる」
蓮司の顔が引きつった。
「嫌です」
「そうか」
一歩。
真壁が近づく。
「仁さん?」
「俺はお前ほど紳士じゃねえ」
「ちょっと待ってください、さっきの話なんだったんですか!」
夜の路地に。
蓮司の声が響いた。
「代表ー! パワハラです! 古参による新人いじめです!」
「うるせえ!」
「暴力反対!」
「逃げんな!」
「嫌だって言ったでしょうが!」
「男は別だ!」
「そのルール今初めて聞いた!」
雨はまだ降っていた。
汚れた街を。
善人も悪人も。
何も区別せずに。
ただ静かに洗い流している。
けれど。
その雨の中を歩く二人には。
それぞれ一本の線があった。
誰に褒められるでもない。
法律に書かれているわけでもない。
ただ自分自身が、
人間でいるために決めた線。
古い仁義を背負う男と。
笑顔で戦場を渡るジャッカル。
生き方はまるで違う。
けれどその夜。
二人はたぶん、
互いの背中なら、
少しくらい預けてもいいと思った。
――もちろん。
翌日、神代蓮司が本部中に、
「仁さんに缶コーヒー奢ってもらったんですよ」
と言いふらした結果、
真壁仁がその判断を激しく後悔することになるのだが。
それはまた。
別の話である。




