嘘つきと猫は夜に笑う
「ねえ、レイナちゃん」
「その呼び方やめて」
「じゃあ、レイナさん」
「距離感が気持ち悪い」
「篠宮副班長」
「もっと気持ち悪い」
神代蓮司は、困ったように肩をすくめた。
「俺、どう呼べば正解なの?」
「黙ってれば正解」
「なるほど。難易度高いな」
午後十一時四十二分。
港湾地区に建つ高級ホテルの最上階。
眼下には、雨に濡れた架空都市の夜景が広がっている。
シャンパンゴールドの照明。
大理石の床。
ドレス姿の男女。
生演奏のピアノ。
その華やかなパーティー会場の片隅で、ヤタガラス特殊偵察班副班長――篠宮レイナは、小さくため息をついた。
今夜の彼女は戦闘服ではない。
深い紺色のイブニングドレス。
明るいアッシュブロンドの長髪は片側へ流され、普段の軽快な印象とは違う大人びた雰囲気をまとっていた。
そして隣には。
黒いスーツを完璧に着こなした、腹が立つほど顔のいい男。
神代蓮司。
コールサイン、JACKAL。
ヤタガラスでもトップクラスの潜入工作員であり――
レイナいわく。
「女を見ると口説かないと死ぬ病気の人」。
だった。
「なあ」
レンジが笑う。
「今日のドレス、似合ってるぜ」
「はいはい」
「本気なんだけどな」
「あなたの本気は一日何回あるの?」
「女性の人数による」
「死ね」
即答だった。
しかしレンジは楽しそうだった。
今夜の任務は、武器密売組織の会計責任者から取引記録を入手すること。
殺害は禁止。
可能な限り騒ぎを起こさず、対象の持つ暗号化端末へアクセスする。
作戦自体は単純だった。
問題は。
「カップルに見せる必要がある」ということだった。
レンジが自然な動作でレイナの腰に手を回す。
その瞬間。
「……手」
レイナが笑顔のまま囁く。
「あと三センチ下がったら折るよ」
レンジの手が三センチ上がった。
「ここ?」
「よろしい」
「優しいなあ」
「次は指だから」
二人とも満面の笑顔だった。
遠目から見れば、仲睦まじい恋人同士にしか見えない。
その実態は猛獣二匹である。
やがてターゲットが動いた。
レイナの目つきが変わる。
「対象、移動」
さっきまでの明るさが消えた。
猫を思わせる切れ長の瞳が冷える。
レンジもまた変わった。
笑顔は残っている。
だが目が笑っていない。
「見えてる」
対象は護衛二人を連れ、パーティー会場を出た。
レイナがグラスを置く。
「予定より三分早い」
「女でも待たせてんじゃない?」
「あなたじゃあるまいし」
「俺は待たせない男だぜ」
「約束の時間に来ないからね」
「そこまで調査済み?」
「ヤタガラス情報部を舐めないで」
「怖ぇ会社だなあ」
二人は対象を追った。
廊下。
エレベーターホール。
そして非常階段。
対象がサービスフロアへ降りた瞬間。
レイナが立ち止まる。
「レンジ」
「ああ」
説明はいらなかった。
ドアの向こう。
人の気配。
予定では二人だった護衛が、五人に増えている。
レンジはネクタイを緩めた。
「どうする、副班長」
レイナはハイヒールを脱いだ。
「三人お願い」
「そっちは?」
「二人と対象」
「不公平じゃない?」
レイナが笑った。
「JACKALでしょ?」
レンジも笑う。
「言うねえ」
扉が開いた。
次の瞬間。
レイナの肘が一人目の顎を跳ね上げた。
同時にレンジは二人目の腕を取り、壁へ叩きつける。
「――!」
三人目が銃へ手を伸ばす。
レンジの足が飛ぶ。
手首。
銃が床を滑る。
レイナはドレスの裾を翻しながら身体を沈め、男の膝裏を蹴った。
男が崩れる。
首筋へ掌底。
沈黙。
「一人」
レイナ。
レンジは男の拳をかわす。
肘。
腹。
肩。
床。
「こっちも一人」
「遅い」
「急かすなよ」
三人目が背後からレイナへ迫った。
しかし。
「後ろ」
レンジが言うより早く、レイナは動いていた。
身体を半回転。
男の手首を取り。
勢いをそのまま利用して――
床へ叩き落とす。
「見えてる」
「知ってる」
そのやり取りの間にも、最後の護衛がレンジへナイフを突き出した。
レンジの笑顔が消えた。
ほんの一瞬だった。
手首を制し。
懐へ入り。
肘を折らないギリギリの角度で固定する。
護衛の身体が止まる。
「悪いな」
レンジが静かに言った。
「今日は殺すなって言われてんだ」
男を床へ寝かせる。
気絶。
終了。
およそ十五秒。
レイナがドレスの裾を整えた。
「三人お願いって言ったよね?」
「四人来たんだけど」
「言い訳?」
「残業代申請していい?」
「一乗寺さんに直接言って」
「やめとく」
会計責任者は、壁際で青ざめていた。
レイナが端末を取り上げる。
「こんばんは」
明るい笑顔が戻る。
「ちょっとだけ、お借りしますね」
「な、何者だ……」
レイナとレンジは顔を見合わせた。
レンジが答える。
「ただのカップルです」
レイナが即座に言う。
「違います」
「即否定?」
「死ぬほど違います」
「そんなに?」
「太陽と深海魚くらい違う」
「どっちが深海魚?」
「あなた」
「せめて太陽にしてくれよ」
その会話を聞きながら、対象の男はさらに混乱していた。
端末のコピーが完了する。
任務終了。
二人はホテルを脱出した。
――午前一時十三分。
離脱用車両までの裏路地。
雨が降っていた。
レイナは裸足だった。
「最悪」
「靴は?」
「さっき投げた」
「護衛の顔面に?」
「うん」
「似合ってたよ」
「何が」
「ハイヒールで人を倒すの」
「褒めてないでしょ」
レンジは少し歩いたところで止まった。
「乗る?」
しゃがむ。
レイナが眉を上げた。
「何に?」
「背中」
「嫌」
「足、切れてるぞ」
レイナが足元を見る。
ほんの少しだけ血が滲んでいた。
「これくらい平気」
「知ってる」
レンジは答えた。
「でも平気かどうかと、歩かせていいかは別だろ」
レイナが黙る。
こういうところが。
この男はズルい。
普段はどうしようもなく軽薄で。
女を見れば口説き。
冗談ばかり言い。
真面目な顔をするだけで天変地異でも起きたのかと思うような男なのに。
線を越えるべきでない瞬間を。
不思議なほど正確に知っている。
「……レンジ」
「ん?」
「女の子全員にやってる?」
レンジは振り返らなかった。
「こういうの?」
「そう」
少しだけ間があった。
「やらない」
珍しく。
冗談のない声だった。
レイナの目が細くなる。
「ふーん」
「乗らないなら行くぞ」
「待って」
レイナはレンジの背中に乗った。
「重いって言ったら殺す」
「軽い軽い」
「今の言い方腹立つ」
「注文多いなあ」
雨の中。
レンジはレイナを背負って歩き始めた。
「ねえ」
「ん?」
「さっき」
「うん」
「私のドレス似合ってるって言ったじゃん」
「ああ」
「何点?」
レンジは少し考える。
「九十八」
「残り二点は?」
「俺の彼女じゃないから」
沈黙。
三秒。
四秒。
そして。
レンジの後頭部にレイナの拳が落ちた。
「痛ぇ!」
「マイナス百点」
「百九十八点下がった!」
「うるさい」
「褒めたのに!」
「余計なこと言うからでしょ!」
「俺、正直者だからさ」
「嘘つきのくせに」
「じゃあ一個だけ、本当のこと言う?」
レイナが少しだけ身構えた。
「何」
レンジが笑った。
「お前と組む任務、結構好きだぜ」
レイナは黙った。
雨音だけが続く。
やがて。
レンジの肩越しに、小さな声が聞こえた。
「……私も嫌いじゃないよ」
レンジが目を丸くする。
「マジ?」
「一回しか言わない」
「録音しとけばよかった」
「降ろして」
「ごめんなさい」
「今すぐ降ろして」
「足怪我してるでしょうが!」
夜の路地に二人の声が響く。
数十メートル先。
離脱車両の運転席では、待機していたヤタガラス隊員が無線を切った。
そして助手席の隊員に呟いた。
「……あれ、付き合ってないんですよね?」
助手席の男は遠い目をした。
「触れるな」
「でも」
「触れるな」
雨の向こうから。
「レイナ、痛い痛い!」
「黙って歩け!」
という声が聞こえてくる。
隊員は深く頷いた。
「……了解です」
ヤタガラスには。
敵より扱いの難しい案件が、いくつか存在する。
神代蓮司と篠宮レイナの関係は。
その筆頭だった。




