決める者の夜
午前零時を回ったヤタガラス本部は、妙に静かだった。
作戦部の照明はほとんど落とされ、廊下の非常灯だけが淡く床を照らしている。
それでも、代表執務室だけは明かりがついていた。
榊原宗一郎は、廊下の向こうに漏れるその光を見て足を止めた。
ノックを二度。
返事はない。
三秒待って、もう一度。
「……どうぞ」
聞こえてきた声は、いつもの九条ホオズキのものだった。
だが、少しだけ低かった。
榊原が扉を開けると、ホオズキは机に座っていた。
黒いシャツの袖を肘まで捲り、髪は高い位置で一つにまとめたまま。
机の上にはタブレット、契約書、損益計算書、作戦報告書。
そして中央に、一枚の人員配置表が置かれていた。
榊原は一目で察した。
「まだ帰っていなかったのですか、九条代表」
「それはこちらの台詞です」
「私は老人なので、夜中に目が覚めるのですよ」
「便利な言い訳ですね」
「五十八年生きると、使える言い訳も増えます」
ホオズキの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
だが、すぐに戻った。
榊原は何も訊かず、向かいの椅子に腰掛ける。
しばらく沈黙が続いた。
時計の秒針だけが鳴っている。
やがてホオズキが言った。
「……榊原さん」
「はい」
「人を辞めさせたこと、ありますか」
榊原は少し考えた。
「何人も」
「そうですか」
「死なせたこともあります」
ホオズキの目が上がった。
榊原は表情を変えなかった。
「昔の話です」
ホオズキは人員配置表へ目を戻した。
そこには一人の隊員の名前があった。
若手の班長候補。
腕はいい。
勇気もある。
仲間からの信頼も厚い。
だが、三日前の作戦で命令違反を犯した。
結果として民間人を救った。
しかし同時に、部隊全体を危険に晒した。
結果だけを見れば英雄。
過程だけを見れば重大な規律違反。
処分案には三つあった。
降格。
一定期間の作戦参加停止。
そして、契約解除。
ホオズキは言った。
「全員を守りたいと思うのは、間違っていますか」
榊原は答えなかった。
「私は……」
ホオズキが続ける。
「ヤタガラスを作った時に決めました」
その声は静かだった。
「ここでは、人間を駒にしない」
榊原は黙って聞いていた。
「契約だから死ね、命令だから死ね、会社の利益のために死ね。そういう組織にはしない」
「はい」
「だから私は、皆を帰すと決めた」
「はい」
「でも……」
ホオズキの指が、人員表の端をわずかに掴んだ。
「全員を帰そうとすれば、誰か一人を切らなければならないことがある」
榊原の目が細くなる。
「一人を守ろうとすれば、残りを危険に晒すこともある」
「……」
「それなら私は、何を守っているんでしょうね」
その言葉だけは、代表の言葉ではなかった。
二十代の一人の女性の声だった。
長いあいだ誰にも見せなかった迷いが、そこにあった。
榊原は腕を組んだ。
「昔、政府の危機管理部門にいた頃」
ゆっくりと話し始める。
「洪水がありました」
ホオズキが顔を上げる。
「かなり大きな災害です。河川が決壊し、複数の地区が孤立した」
榊原の目はホオズキではなく、もっと遠くを見ていた。
「救助部隊は足りない。ヘリも足りない。道路も使えない」
彼は机を指で軽く叩いた。
「A地区には百二十人。B地区には四十人。どちらも水位が上がっていた」
「……」
「私はA地区を優先しました」
ホオズキは何も言わない。
「数字だけを見れば、当然の判断です」
榊原は続けた。
「百二十人を助けるか、四十人を助けるか」
一瞬、言葉が止まった。
「結果としてA地区は全員助かった」
「B地区は?」
榊原は静かに答えた。
「三人、亡くなりました」
部屋の空気が重くなる。
「判断ミスだったんですか」
ホオズキが訊く。
榊原は首を振った。
「今でも、同じ情報しかなければ同じ命令を出します」
「……後悔していない?」
「しています」
ホオズキの眉がわずかに動いた。
榊原は淡々と言った。
「正しい判断と、後悔しない判断は別物です」
その言葉に、ホオズキは黙った。
榊原は続ける。
「指揮官になったばかりの人間は勘違いします」
「何をですか」
「正しい判断をすれば、心が痛まないと思っている」
榊原は苦く笑った。
「逆です」
「……」
「正しい判断ほど、痛いことがある」
ホオズキの目が少し伏せられる。
「では、どうすればいいんです」
「痛めばいい」
即答だった。
ホオズキが顔を上げる。
「痛んで、覚えて、次に使う」
榊原は言った。
「忘れようとすると、いつか人を数字でしか見なくなる」
机に置かれた人員配置表を見た。
「しかし、痛むのが怖くて決断を避ければ、もっと多くの人間が傷つく」
「……」
「それが指揮官です」
ホオズキは小さく息を吐いた。
「ずいぶん割に合わない仕事ですね」
「そうですよ」
「誰がやりたがるんです」
「まともな人間は、やりたがりません」
一拍。
ホオズキが思わず笑った。
「それ、副代表が言います?」
「副代表だから言えるのです」
榊原も笑った。
しばらくして、ホオズキは人員配置表を見つめた。
「この隊員を切れば、組織の規律は守れる」
「はい」
「でも、私は切りたくない」
「はい」
「甘いでしょうか」
榊原は即答しなかった。
数秒考えてから言う。
「では逆に聞きます」
「何でしょう」
「九条代表は、その隊員を残す理由を説明できますか」
ホオズキは黙った。
「仲間だから、ではありません」
榊原の声が少し厳しくなる。
「可哀想だから、でもない」
「……」
「彼を残すことが、ヤタガラス全体にとって利益になる理由を説明できますか」
ホオズキは資料を見た。
戦闘記録。
勤務評価。
仲間からの報告。
訓練成績。
過去の行動。
しばらくして言った。
「技量は高い」
「はい」
「判断力もある。ただし、今回だけは感情が先に出た」
「はい」
「そして命令違反の理由は、自分の手柄ではなく民間人の救助」
「はい」
「処分は必要です」
榊原は頷いた。
ホオズキは続ける。
「でも、捨てる必要はない」
榊原の口元に、ほんの少し笑みが浮かんだ。
「では答えは出ていますね」
「……ずるいですね」
「何がです」
「結局、私に言わせたじゃないですか」
「副代表の仕事は、代表の代わりに決めることではありませんから」
「……」
「代表が決められるようにすることです」
ホオズキは椅子にもたれた。
天井を見上げる。
「榊原さん」
「はい」
「あなたが副代表でよかったです」
榊原は少しだけ眉を上げた。
「珍しいですね」
「何がです?」
「九条代表が人を褒めるとは」
「取り消します」
「もう聞きました」
「忘れてください」
「五十八歳は都合の悪いことほど覚えているものです」
ホオズキは深くため息をついた。
そしてペンを取る。
契約解除の欄に引かれていた線を消した。
新しい処分を書き込む。
――三ヶ月の作戦参加停止。
――再訓練。
――指揮権一時停止。
――復帰後、班長候補資格再審査。
そして最後に一行。
――民間人救助の判断そのものについては処分対象外。
榊原はその文面を見た。
「厳しいですね」
「当然です」
「しかし、切らない」
「ええ」
ホオズキはペンを置いた。
「私は、人を捨てない組織を作ったんです」
榊原は首を横に振った。
「違います」
ホオズキが彼を見る。
「人を捨てない組織というのは、甘い組織ではありません」
榊原は立ち上がった。
「間違えた人間に、もう一度正しく立つ責任を負わせる組織です」
ホオズキはその言葉をしばらく考えていた。
「……なるほど」
榊原は扉へ向かう。
「もう一つ」
ホオズキが呼び止めた。
「何でしょう」
「さっきの洪水の話」
榊原の足が止まる。
「亡くなった三人の名前、覚えていますか」
榊原は振り返らなかった。
ただ静かに答えた。
「全員」
ホオズキは何も言えなかった。
榊原は扉を開ける。
「九条代表」
「はい」
「指揮官が背負うというのは」
少しだけ顔を横へ向けた。
「死者の数を覚えることではありません」
静かな声だった。
「名前を忘れないことです」
扉が閉まった。
再び執務室に静寂が戻る。
ホオズキは一人、椅子に座っていた。
机の上には、隊員たちの名前。
戦闘員。
整備員。
情報要員。
衛生兵。
事務職員。
一人一人に家族があり、人生があり、帰る場所がある。
ホオズキは人員配置表に目を落とした。
そして、小さく呟いた。
「……名前を忘れない、か」
午前零時四十三分。
九条ホオズキはようやく端末を閉じた。
照明を消し、執務室を出る。
廊下の先では、榊原が自販機の前で缶コーヒーを二本持って待っていた。
ホオズキは眉をひそめた。
「帰ったんじゃなかったんですか」
「夜更かしした代表を家まで帰すのも、副代表の仕事です」
一本差し出される。
ホオズキはそれを受け取った。
まだ温かい。
二人は並んで歩き始めた。
戦場の話も。
会社の話も。
明日の会議の話もしなかった。
ただ静かな本部の廊下を歩く。
その夜。
九条ホオズキは一つの決断をした。
そして一つだけ、新しいことを覚えた。
人を率いる者に必要なのは、
迷わないことではない。
迷った末に決めること。
決めた責任から逃げないこと。
そして――
その決断の向こう側にいた人間の名前を、
忘れないことだった。




