93. 二人きりの夜
夜も深まり始めた頃、アリシアは椅子へ腰を下ろし、腕の中で眠りかけているエレナをゆっくりと揺らしていた。先ほどから何度も瞼を閉じているのに、眠ったと思って少し身体を動かせば、また薄く目を開けてしまう。今夜は随分と粘るものだと思いながら、アリシアは娘の背中を一定の速さで撫で続けていた。そして、椅子の背へ身体を預けたところで部屋の扉が開き、仕事を終えたローゼンが姿を見せた。
「今日は遅かったのね」
「少し仕事が長引いた。エレナは?」
「見れば分かるでしょう?さっきから寝そうで寝ないのよ」
ローゼンは眠りかけている娘の顔を覗き込み、起こさないよう隣の椅子へ腰を下ろした。代わろうかと手を伸ばしかけたものの、アリシアが首を振るのを見てすぐに引っ込める。ここで抱く人間が変われば、ようやく訪れた眠気がどこかへ行ってしまいそうだった。
しばらく二人で娘の寝顔を眺めていると、アリシアは今日レオナードと交わしたやり取りを思い出した。仕事量を以前と同じところまで戻そうとして止められたのだが、おそらくその話はすでにローゼンの耳にも届いている。横顔を窺いながら尋ねてみれば、案の定、彼は否定しなかった。
「あの人、あなたに何でも報告するのね」
「無理をしていないならいい。急ぐ必要はないと言っているだけだ」
「今日こんな時間まで仕事してた人に言われたくないわよ」
言い返されるとは思っていたらしく、ローゼンは困ったように口を閉じた。自分は遅くまで働いておきながら、妻には休めと言うのだから説得力がない。アリシアも本気で怒っているわけではなく、心配されていることくらい分かっているため、それ以上追及することはなかった。
腕の中へ視線を戻すと、エレナの身体からようやく力が抜けていた。アリシアはもう少しだけ待ってから慎重に立ち上がり、娘を寝台へ横たえる。掛け物を整えてしばらく様子を見ても起きる気配はなく、今夜の長い寝かしつけもようやく終わったらしい。
控えていた侍女へ後を任せ、二人は隣の居間へ移った。すぐ寝室へ向かうには惜しい気がして、アリシアは長椅子へ腰を下ろす。ローゼンも隣へ座ったが、仕事の書類も本も持っておらず、二人とも何をするでもなく同じ場所にいるという状況は随分と久しぶりだった。
「こうして二人だけで何もしないの、久しぶりじゃない?」
「ああ。昔はよくあったな」
婚約していた頃、アリシアは用事がなくてもローゼンのところへよく顔を出していた。王太子だった彼には勉強も仕事もあり、訪ねたところですぐ相手をしてもらえるとは限らなかったが、それなら向かいで本を読んでいればいい。飽きれば庭で見つけた花や昼食に出た菓子について話し始め、ローゼンが仕事を終えるまで平気で居座っていた。
何をそんなに話していたのだろうとアリシアが口にすると、ローゼンは少し考え込んだ末、ほとんどアリシアが喋っていたと答えた。すぐに抗議したものの、彼は一時間近く話し続けていた日まで覚えており、花から菓子、菓子から本へと話題が移った順番まで正確だった。
「……随分細かく覚えてるわね」
「途中から私が返事をしなくなっても話していたからな」
「ちょっと待って。あなた、聞いてなかったの?」
「聞いていたよ。楽しかった」
もっと何か言い返すつもりだったのに、あまりにも迷いなく答えられ、アリシアは口を閉じた。からかわれている様子はなく、ローゼンは本当に当時の時間を楽しかったものとして覚えているらしい。普段は言葉が足りないくせに、こういう時に限ってこちらが困ることを平然と言うところは昔から変わっていなかった。
「……そういうことを急に言うの、ずるいわよ」
アリシアは少し熱くなった頬を隠すように前を向いた。言葉にするのが苦手だった昔と比べれば、ローゼンは随分と素直になったと思う。以前なら胸の内にしまっていたことまで伝えてくれるようになり、それを嬉しく思う一方で、不意打ちには未だに慣れなかった。
変わったのは、そうしたところだけではない。以前のローゼンは自分の中で考えを固め、アリシアへ話す頃には答えまで決めてしまうことがあった。今は迷っていることも、不安に思っていることも、少なくとも一人で結論を出す前に話してくれる。
「今のあなたの方が好きよ。何でも一人で決めなくなったから。安心していられるわ」
ローゼンの表情が僅かに曇ったため、アリシアは言葉の選び方を間違えたと気づいた。四年前の別れを責めるために言ったのではない。あの頃の傷をなかったことにするつもりもないが、今夜まで昔の後悔で埋める必要はなかった。
「そんな顔しないでよ。責めてるんじゃないわ。今はちゃんと話してくれるから、それでいいの」
腕へ手を置くと、ローゼンはしばらくアリシアを見つめた後、静かに頷いた。その返事だけで十分だった。今度は自分一人で決めないと改めて誓わせるより、こうして同じ場所に座って話せている今の方が、アリシアにはずっと大切だった。
そのまま話しているうちに、アリシアは少しずつローゼンとの距離を縮めていた。朝から公務に出て、夜にはなかなか眠らない娘を抱いていたせいか、身体から力を抜いた途端に疲れが押し寄せてくる。気づけば肩へ頭を預けており、まだ眠るつもりはなかったはずなのに瞼まで重くなっていた。
「眠いなら寝室へ行こう」
「まだ寝ないわよ。休んでるだけ」
そう答えながら目を開ける気にはなれず、アリシアはローゼンの腕へ自分の腕を絡めた。彼も無理に立たせようとはせず、寄りかかりやすいよう少しだけ身体の向きを変える。その動きが心地よく、今から寝室へ移る方が面倒に思えてきた。
「……もう少し、このままでいて」
アリシアは安心して身体の力を抜いた。少し前まで眠らない娘を腕に抱いていた自分が、今度はローゼンへ寄りかかって眠気に負けようとしている。そんなことに気づく余裕もなくなり、やがて呼吸はゆっくりと一定になっていった。
ローゼンは肩へ預けられた重みを受け止めたまま、絡められたアリシアの腕へ手を重ねた。眠ってしまった妻を急いで起こす理由もないらしく、その夜はもうしばらく、二人だけの静かな時間が続いたのだった。




