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一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?  作者: 入多麗夜


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92. 王太子の休日

 午前の公務を終えたアリシアは、レオナードから渡された書類を抱えて執務室を出た。出産を理由に減らされていた仕事も少しずつ元へ戻り、王妃として王宮内を歩く機会も増えている。今日は午後にも予定が入っていたが、次の仕事までは少し時間があり、自室へ戻る前に庭を通っていくことにした。


 昼を過ぎたばかりの庭は静かで、庭師たちが植え込みの手入れをしているほかに人影はほとんどなかった。アリシアも何気なく歩いていたのだが、少し先にある木の下へ目を向けたところで足を止める。見慣れた金色の髪をした小さな男の子が、長椅子へ座って足をぶらぶらさせていた。


「……エドガー?」


 名前を呼ばれたエドガーは勢いよく振り返り、アリシアを見つけると嬉しそうに長椅子から飛び降りた。すぐに駆け寄ってきた息子を迎えながらも、アリシアは首を傾げる。この時間なら教師と一緒にいるはずであり、一人で庭にいる予定ではなかった。


「ママ!お仕事終わったの?」

「午前のお仕事はね。それより、あなたはお勉強じゃなかったの?」

「今日はもう終わったよ。先生が午後から用事なんだって」

「そうだったの。じゃあ、どうしてこんなところで一人で座ってたの?」


 そう尋ねると、先ほどまで嬉しそうだったエドガーが少し困ったような顔になった。叱られるようなことをしたわけでもないのに、何と答えるべきか迷っているらしい。アリシアが急かさず待っていると、エドガーは庭の向こうへ視線を向けた。


「何しようかなって考えてた」

「遊べばいいじゃない。せっかくお勉強が早く終わったんでしょう?」

「何して?」

「……何してって」


 思わぬ質問を返され、今度はアリシアが言葉に詰まった。遊びたい盛りの四歳児なのだから、自由な時間を与えれば喜んで駆け出していくものだと思っていた。それなのに本人は真剣な顔で悩んでおり、何か面白いことを用意してもらえるのを待っている様子でもない。


 考えてみれば、エドガーが王宮で暮らすようになってからは、一日の予定を周囲の大人が決めることが増えていた。朝食の時間が決まり、教師が来る時間が決まり、王太子として顔を出さなければならない場があれば、それも事前に伝えられる。まだ自由に遊ぶ時間の方が長いとはいえ、北で暮らしていた頃とは環境そのものが違っていた。


「少しくらいなら付き合えるわよ。どこか行きたいところがある?」

「どこでもいいの?」

「王宮の中ならね。私が行けないところは駄目よ」

「じゃあ……」


 エドガーは腕を組み、今まで見たこともないほど真剣な顔で考え始めた。何をしたいのか尋ねただけなのに、難しい問題を出されたような悩み方をしている。アリシアが笑いそうになるのを堪えて待っていると、やがてエドガーは何かを思いつき、ぱっと顔を明るくした。


「厨房に行きたい!」

「最初にそこなの?」

「うん!」


 あまりにも迷いのない返事に、アリシアは笑ってしまった。行き先が決まればエドガーの行動は早く、アリシアの手を取って歩き始める。どちらが連れていかれているのか分からない状態になりながら、二人は庭を抜けて王宮の厨房へ向かった。


 昼食の片付けが一段落した厨房では、料理人たちが夕食の準備を始めていた。突然現れた王妃と王太子に驚く者もいたが、エドガーは以前から何度か顔を出しているらしく、料理人たちへ元気よく挨拶をしていく。アリシアが知らないところでも息子なりに王宮での居場所を増やしているようだった。


「今日はどうされたんですか、殿下?」

「今日はお勉強が早く終わったの。だからママと遊んでる」

「なるほど。それなら、ちょうど焼けたものがありますよ」


 料理人が持ってきたのは、小さな焼き菓子だった。エドガーはすぐに手を伸ばしかけたものの、途中で止まり、アリシアの顔を見る。食べてもいいかと目で尋ねているのが分かり、アリシアが一つだけよと告げると、満面の笑みで受け取った。


「ママも食べる?」

「あなたがもらったんでしょう?」

「半分あげる」

「じゃあ、もらおうかしら」


 小さな焼き菓子を二人で分けて食べると、エドガーは満足したように厨房を後にした。次にどこへ行くのか尋ねても、今度はすぐには答えず、歩きながら王宮のあちこちへ目を向けている。普段なら目的地へ向かうために通り過ぎるだけの場所も、今日は何か面白いものがないか探しながら歩いているらしい。


 やがて外へ続く廊下の前で立ち止まり、エドガーが遠くから聞こえてくる馬の声へ顔を向けた。王宮の敷地内には王族や近衛が使う馬を置いている厩舎がある。そこへ行ってみたいのかとアリシアが尋ねると、エドガーは何度も頷いた。


「馬が見たいの?」

「うん!ぼく、近くで見たい!」

「暴れたりしたら危ないから、勝手に触っちゃ駄目よ」

「分かってる!」


 返事だけは立派だったため、アリシアは息子の手を握ったまま厩舎へ向かった。中へ入ると馬の世話をしていた者たちが慌てて頭を下げたが、アリシアは仕事を続けるように伝える。エドガーは初めて間近で見る大きな馬に圧倒されたのか、しばらく口を開けたまま見上げていた。


「ぼくも乗れる?」

「一人ではまだ無理ね」

「パパは一人で乗れるよ?」

「あなたのお父さんを何歳だと思ってるのよ」


 比べる相手がおかしくて、アリシアは思わず笑った。エドガーは納得できないらしく、もう少し大きくなったら乗れるのかと何度も尋ねてくる。アリシアがきちんと教われば乗れるようになると答えると、それだけで将来の楽しみが一つ増えたらしく、息子は再び馬へ目を輝かせた。


 厩舎を出ても興奮は収まらず、エドガーは馬について知っていることを次々に話していた。教師から聞いた知識も混じっているらしく、途中から何を説明しているのか本人も分からなくなっていたが、アリシアは訂正せずに聞いていた。覚えたことを母親へ話したいという気持ちの方が大切に思えた。


 そのまま歩いていると、今度は訓練場から木剣のぶつかる音が聞こえてきた。音に気づいたエドガーが足を止め、柵の向こうを覗き込む。何人もの近衛騎士が訓練しており、その中には第一近衛隊長のクラウスの姿もあった。


「ママ、見てもいい?」

「邪魔しないならね」


 二人が訓練場の端へ近づくと、こちらに気づいたクラウスが訓練を別の騎士へ任せて歩いてきた。エドガーは先ほど馬を見つけた時と同じように目を輝かせ、騎士たちが持っている木剣をじっと見つめている。


「王妃陛下、殿下。珍しいですね」

「今日はこの子のお休みに付き合ってるの。エドガーが見たいって言うから来ただけよ」

「ぼくも剣、持ってみたい!」

「エドガー、いきなりお願いしないの」


 アリシアに注意されると、エドガーは慌てて口を閉じた。それでも視線は木剣から離れず、クラウスはそんな様子を見て笑っている。訓練用のものをそのまま渡すにはまだ大きすぎるため、クラウスは近くに置かれていた軽い練習用の木剣を一本選んだ。


「これなら持てるでしょう。振り回さず、持つだけですよ」

「うん!」


 両手で受け取ったエドガーの腕が予想以上の重さに少し下がった。それでも本人は嬉しそうで、剣を胸の前に抱えるようにして眺めている。馬を見た時もそうだったが、今まで知らなかったものへ触れるたび、エドガーの表情は次々に変わっていった。


「ママ、見て!」

「見てるわよ。でも、クラウスの言うことを聞いて。ほら、剣を振り回さないの」

「分かってるってば」


 少し得意げに答えたエドガーは、しばらく木剣を眺めた後、自分からクラウスへ返した。もっと持っていたいと言い出すかと思っていたアリシアは少し意外に感じたが、本人はもう満足したらしく、騎士たちへ礼を言って訓練場を離れた。


 気づけば午後の予定が近づいており、そろそろアリシアも仕事へ戻らなければならなかった。エドガーも十分に遊んだのか、来た時より足取りが軽い。二人で王宮へ戻る途中、アリシアは今日巡った場所を思い返しながら息子へ顔を向けた。


「エドガー。今日は何が一番楽しかった?」

「今日?」

「焼き菓子も食べたでしょう? 馬も見たし、剣も持たせてもらったじゃない」

「うーん……」


 エドガーは歩きながら真剣に考え始めた。あれだけ興奮していたのだから馬を選ぶだろうとアリシアは予想していたが、息子はなかなか答えを決めない。やがて繋いでいた手を握り直すと、迷いが消えたように顔を上げた。


「ママといっぱい歩いたこと!」


 予想していなかった答えに、アリシアは足を止めた。エドガーは何かおかしなことを言ったのかと首を傾げている。その顔を見ているうちに自然と笑みがこぼれ、アリシアは小さな手を握り返した。


「……そう。じゃあ、また時間がある時に歩きましょうか」

「うん!今度はもっと遠くまで行こうね!」


 嬉しそうに歩き出したエドガーに引かれ、アリシアも再び足を進めた。午後の仕事へ戻るまで残された時間はもう僅かだったが、息子の歩幅に合わせるくらいの余裕はある。二人は手を繋いだまま、ゆっくりと王宮へ戻っていった。

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