90. 王妃様は休んでいられない
アリシアの生活にも、ようやく以前のような時間が戻り始めていた。もちろん、何もかもが元通りになったわけではない。朝になれば娘の様子を確かめ、エドガーが顔を見せれば今日の予定を聞き、少しでも泣き声が聞こえれば仕事の途中であろうと気になってしまう。それでも、出産直後のように一日のほとんどを寝台や長椅子の上で過ごす必要はなくなり、身体の調子もすっかり戻っている。
そんなある朝、アリシアは久しぶりに王妃として使っている執務机の前へ座っていた。机の上にはミレイユが用意した書類がいくつか積まれており、その横では今日一日の予定が読み上げられている。以前なら当たり前だった光景なのに、しばらく離れていただけで妙に懐かしく感じられ、アリシアは一枚目の書類を手に取りながら小さく息を吐いた。
「午前中は宰相閣下から、王都にある施療院への援助についてご説明があります。その後は冬季に備えた王宮内の備蓄について確認をお願いしたいとのことです。午後については、まだ予定を入れておりません!」
「午後も空いているなら、何かあるでしょう? 出産前に止めていたものだって残っているんじゃないの?」
「ございますが……」
そこで言葉を濁したミレイユが、アリシアではなく、その少し離れた場所へ視線を向ける。何を気にしているのかは確認するまでもなく分かり、アリシアも同じ方向へ顔を向けると、そこには朝から当然のように部屋へやってきていたローゼンが立っていた。
「午後は休んだ方がいい。初日から以前と同じ量に戻す必要はないだろう」
「ローゼン。私が出産したの、昨日じゃないのよ?」
「分かっている」
「だったら、そろそろ普通に仕事をさせてちょうだい。いつまでも寝ていたら、今度は身体が鈍ってしまうわ」
ローゼンは何か言いたそうな顔をしたものの、アリシアが譲るつもりのないことも分かっているのだろう。それ以上は口を挟まず、傍らに用意されていた揺り籠へ目を向けた。その中ではエレナが目を覚ましており、天井を見上げながら小さな両手を忙しなく動かしている。
少し前までは眠っているか泣いているかのどちらかだった娘も、最近では起きている時間が随分と長くなった。手足を動かす力も強くなり、昨日などは仰向けに寝かせていたはずなのに、いつの間にか身体を横へ向けようとしていたほどである。
「ママ、おはよう!」
扉の向こうから元気な声が聞こえ、ほどなくエドガーが部屋へ入ってきた。朝の挨拶を済ませると、父親よりも先に揺り籠へ向かい、背伸びをしながら中を覗き込む。
「エレナもおはよう。今日は泣いてないね」
「さっきまでは泣いていたわよ。あなたが来る少し前に、ようやく機嫌が直ったところ」
「じゃあ、ぼくが遊んであげる」
エドガーは嬉しそうにそう言うと、近くに置いてあった布のおもちゃを手に取った。エレナも兄の声が聞こえたのか、小さな顔をそちらへ向けようとしている。しばらく妹と遊んでいたエドガーだったが、今日は朝から勉強があるらしく、迎えに来た者から声をかけられると露骨に残念そうな顔をした。
「終わったら、また来てもいい?」
「もちろんよ。でも、ちゃんと先生のお話を聞いてくるのよ」
「うん!」
エドガーが元気よく出ていったところで、アリシアも立ち上がった。エレナのことは信頼できる侍女たちへ任せ、今日は久しぶりに王宮の中を歩くことになる。ローゼンは最後まで何か言いたそうだったが、自分にも執務が待っているため、結局はアリシアより先に部屋を出ていった。
午前中にレオナードから説明されたのは、王都にある施療院への援助についてだった。王家から毎年一定額を出しているものの、今年は薬草や布類の価格が上がっており、例年と同じ額では冬を越すのが難しいという。特に身寄りのない者や貧しい家庭から運ばれてくる患者を多く受け入れている施療院では、早いうちに追加の援助を決めてほしいと要望が出されていた。
「薬草については、王都で買い集めることだけを考えなくてもいいんじゃないかしら。地方から直接仕入れられるものもあるでしょう?」
「輸送費を考慮しても、その方が安く済むものはいくつかございます。すでに候補となる地域について調査を進めております」
「だったら、それも含めて比較したものを見せて。お金だけ増やして終わりにしたら、来年も同じことで困ることになるわ」
「承知いたしました」
勿論、商会との縁を繋ぎ止める為に、ある一定の量は購入するべきだとアリシアは考えた。
話が一段落したところで扉が開き、別の書類を持ったローゼンが入ってきた。自分の用事でレオナードを訪ねたらしいが、机に向かっているアリシアを見るなり足を止める。
「まだやっていたのか?」
「まだって、始めてからそんなに経っていないわよ」
「少し休憩したらどうだ?」
「あなた、仕事をしに来たんでしょう?私の監視をしに来たんじゃないわよね?」
レオナードが静かに視線を落とした。明らかに関わらないことを選んだ宰相へアリシアが目を向けると、彼は何事もなかったかのように次の書類を整え始めている。昔からローゼンの扱いには慣れている男なので、この程度の夫婦のやり取りへ口を挟む気はないらしい。
「私は自分で休むくらいできるわ。ほら、あなたも仕事に戻りなさい」
「……分かった」
素直に引き下がっただけでも以前よりは進歩したのかもしれない。そう思いながらアリシアも書類を閉じ、予定していた午前中の仕事を終えることにした。
部屋へ戻る途中、中庭へ続く回廊の近くで何人かの近衛騎士と出会った。先頭にいたクラウスがアリシアへ気づいて足を止め、その後ろにいたディートリヒたちも続いて礼を取る。出産後は居住区画からほとんど出ていなかったため、彼らとこうして顔を合わせるのも久しぶりだった。
「王妃陛下。お身体はもうよろしいのですか?」
「ええ。今日から少しずつ仕事にも戻ることにしたの。みんなにも随分心配をかけたわね」
クラウスと言葉を交わしていると、少し遅れて別の方向からユリウスがやってきた。第二近衛を率いる彼もアリシアへ礼を取ったのだが、その直後、アリシアの後ろに立っていたミレイユと目が合う。
「……ミレイユ」
「ユリウス様。お久しぶりでございます!」
交わされた言葉はそれだけだった。ユリウスはすぐに普段の表情へ戻り、ミレイユも何事もなかったようにアリシアの後ろへ控える。周囲にいたクラウスたちも特に気に留めた様子はなく、それぞれの持ち場へ向かうため歩き出した。
アリシアだけが、隣を歩き始めたミレイユの横顔を見ていた。
「……アリシア様?」
「別に?」
ミレイユは明らかに警戒していたが、アリシアはそれ以上何も言わなかった。今ここで聞いてしまうより、部屋へ戻ってからゆっくり聞いた方が面白そうだったからである。
自室へ戻ると、アリシアの意識はすぐに娘へ向いた。数時間ぶりに見るエレナは機嫌よく寝台の上へ転がっており、侍女によればミルクもよく飲んだらしい。アリシアはほっとしながら娘の隣へ腰を下ろし、小さな腹を優しく撫でた。
「いい子にしてたのね、エレナ」
エレナは返事の代わりに両足を動かした。その動きが以前より随分と力強くなっているのを見ていると、ほどなく勉強を終えたエドガーまで戻ってくる。朝に約束したことを覚えていたらしく、真っ先に妹のそばへ座り込んだ。
「ミレイユ。ところで、さっきの――」
「ママ!」
エドガーの声に遮られ、アリシアは振り向いた。エレナが寝台の上で身体を横へ向け、片方の腕を懸命に動かしている。その先には、エドガーが朝にも使っていた布のおもちゃが置かれていた。
「エレナが動いてる!」
「待って、エドガー。そのままにしてあげて」
手伝おうとした息子を止め、アリシアも身を乗り出した。エレナは一度仰向けへ戻りかけ、それでも再び身体を捻る。小さな足が寝台を蹴り、肩がゆっくりと持ち上がった。
ころり、と身体が返った。
うつ伏せになったエレナは、自分でも何が起きたのか分かっていないような顔で瞬きをしている。アリシアも思わず目を見開き、すぐに娘の身体へ手を添えた。
「ママ!ひっくり返った!」
「ええ。できたわね、偉いわエレナ」
「すごい!もう一回できる?」
エドガーが大喜びする横で、ミレイユまで嬉しそうに寝台へ近づいてくる。エレナはしばらく顔を上げようと頑張っていたものの、やがて疲れたのか、不満そうに声を上げ始めた。
「あらあら。戻る方はまだ分からないのね」
アリシアが身体を戻してやると、エレナは安心したように手足を伸ばした。その顔を見ながら笑っていたアリシアだったが、ふと顔を上げる。
「それで、ミレイユ。さっきの話だけど」
「は、はい!なんでしょうか!?」
ミレイユが困った顔をしたところで、再び扉が開いた。仕事を終えたローゼンが戻ってきたらしく、エドガーが立ち上がって父親のところへ駆けていく。
「パパ!エレナがね、ひっくり返ったんだよ!」
「寝返りしたのか?」
「うん!ぼくとママとミレイユお姉ちゃんが見たんだよ!」
ローゼンは少しだけ残念そうな顔をしたものの、すぐに寝台へ近づいてエレナを抱き上げた。娘は父親の腕の中でも機嫌よくしており、ローゼンの服を小さな手で掴んでいる。
「そうか。できるようになったのか」
「一回だけだけどね。戻れなくなって困っていたわよ」
アリシアも隣へ座り、今日あったことを順番に話した。施療院への援助についてレオナードと相談したこと、久しぶりにクラウスやディートリヒたちと会ったこと。話している間もローゼンはエレナを抱いており、その足元にはエドガーが座っている。
「疲れていないか?」
「少しはね。でも、久しぶりに仕事ができて楽しかったわ。やっぱり私は、一日中部屋にいるよりこっちの方が合ってるみたい」
「無理だけはするな」
「分かってるわよ。あなたこそ、私が少し仕事をしたくらいで何度も様子を見に来ないでちょうだい」
ローゼンは返事をしなかった。その顔を見る限り、明日も同じことをするつもりなのだろう。アリシアは呆れながらも追及せず、ローゼンの腕の中にいるエレナの頬を指先で軽く触った。
そのうちミレイユが外を確認し、静かに頭を下げた。
「それではアリシア様、私はそろそろ失礼いたします!」
「待ちなさい」
扉へ向かいかけていた足が止まった。
「……何でしょうか?」
「忘れてないわよ」
アリシアは椅子の背へ身体を預け、逃がすつもりはないとばかりにミレイユを見る。何の話なのか分からないローゼンが怪訝そうな顔をし、エドガーも母親と侍女を交互に見ていた。
「それで、ユリウスとはどこまで進んだの?」
「ア、アリシア様!?」
今日一番慌てたミレイユの声が、部屋いっぱいに響いた。




