89. 我が家の小さなお姫様②
エレナが生まれてから数か月が経ち、以前は泣いているか眠っているかのどちらかだった小さな娘にも、少しずつ表情が増えてきた。機嫌の良い時には意味の分からない声を出しながら元気よく手足を動かし、近くを歩く人の姿を目で追いかけることもある。何より家族を喜ばせているのは笑うようになったことで、口元を緩めるだけだった最初の頃とは違い、最近では誰かの顔を見ながら楽しそうに笑うことも増えていた。
初めてその笑顔を見た時、ローゼンはちょうど執務へ戻ろうとしていた。娘が笑ったと気づいた途端に足を止め、そのままもう一度笑わないかと待ち続け、危うく予定されていた会議へ遅れそうになったほどである。アリシアから早く行けと追い出されてからも何度か振り返っていたくらいなので、娘の成長が嬉しくて仕方がないのだろう。
そんな父親にも負けないほどエレナを可愛がっているのが、兄になって数か月のエドガーだった。朝起きれば妹のところへ顔を出し、昼間も時間があれば様子を見に来る。以前は寝台の横から眺めているだけで満足していたのに、初めて自分の腕で抱いてからは妹にしてあげたいことが増えたらしく、最近では自分で選んだ布のおもちゃを持ってきて遊んでやることも多くなっている。
エレナの方も兄の顔を覚えてきたようで、近づいてくるエドガーを見つけると機嫌が良くなることが多かった。今日も朝食を終えたエドガーが妹のところへやって来ると、寝台の上で横になっていたエレナはすぐに兄の姿を目で追い始めた。
「エレナ、おはよう。お兄ちゃんだよ」
寝台へ手をつき、エドガーが顔を近づける。エレナは兄の顔をじっと見つめたあと、口元を緩めて嬉しそうに笑った。期待していた反応をもらえたエドガーも笑顔になり、少しだけ顔を離してから、もう一度妹の前へ顔を出してみる。するとエレナは再び笑い、今度は両足まで元気よく動かし始めた。
少し離れたところに座っていたアリシアは、飽きもせず同じ遊びを繰り返す二人を眺めていた。エドガーが妹を笑わせることを覚えてから、こうした光景を見る機会も増えている。自分の顔を見せるだけではなく、布のおもちゃを動かしてみたり、いつもとは違う顔を作ってみたり、何をすればエレナが喜ぶのか本人なりに色々と考えているようだった。
「ほら、エレナ。こっちだよ」
今度は布のおもちゃを手に取ったエドガーが、小さな音を鳴らしながら左右へ動かしてみせた。エレナの目がゆっくりとその動きを追いかけ、途中で見失ったのか違う方向へ顔を向けると、エドガーは妹から見えるところへおもちゃを移動させる。以前は見せても泣き止んですらくれなかったことを思えば、随分と遊べるようになったものだとアリシアは二人を見守っていた。
しばらく遊んで満足したのか、エドガーはおもちゃを置いて再び妹の顔を覗き込んだ。エレナも兄の姿を見つけて笑い、エドガーが嬉しそうに笑い返す。そんなことを何度も繰り返しているうちに、扉の向こうから聞き慣れた足音が近づいてきた。
部屋へ入ってきたローゼンは、寝台の周りにいる二人へ目を向けた。エレナが生まれたばかりの頃ほど泣き声に慌てることはなくなったものの、執務の合間に娘の顔を見に来る習慣は残っている。仕事が忙しい日には朝から夜まで会えないこともあるからなのか、少しでも時間が空けばこうして立ち寄ることが珍しくなかった。
「パパ、見てて。今、エレナすごく笑うんだよ」
エドガーが父親を呼び、もう一度妹の前へ顔を出した。エレナはすぐに兄を見つけて笑い、手まで伸ばそうとする。エドガーが自分の指を差し出してやれば、小さな手がそれを握り、ますます嬉しそうな顔になった。
ローゼンも自然と表情を緩め、息子の隣へ腰を下ろした。エドガーが少し場所を譲ると、今度は父親が娘の前へ顔を出す。いつも抱いてくれる相手だと分かっているのか、エレナはローゼンから目を逸らすことなく見つめていた。
けれども、笑わない。
ローゼンが少し顔を近づけても、エレナは大きな瞳で父親を見つめている。泣き出す様子はなく、嫌がっているようにも見えないのだが、先ほどまでエドガーへ向けていた笑顔は綺麗に消えていた。ローゼンが僅かに首を傾けると、エレナはその動きを目で追いながら、やはり真面目な顔をしている。
アリシアは椅子に座ったまま、口を挟まずに二人を見ていた。ローゼンは場所が悪いと思ったのか少し身体を動かし、別の方向から娘の顔を覗き込む。そんなことで結果が変わるはずもなく、エレナは父親を見つめたまま一向に笑おうとしなかった。
「エレナ、ぼくだよ」
待ちきれなくなったエドガーが横から顔を出した途端、エレナの口元が緩んだ。兄へ向かって嬉しそうに笑いながら手足を動かし始める娘を前に、ローゼンの動きが止まる。
「パパより、ぼくの方が好きなのかな?」
エドガーには父親を困らせようという気などなく、純粋に浮かんだ疑問を口にしただけなのだろう。ローゼンは返事をせず、笑っている娘と息子を交互に見ている。その表情があまりにも真剣だったため、アリシアは椅子から立ち上がると、とうとう夫のところまで歩いていった。
「四歳の息子に張り合わないでよ」
「張り合ってはいない」
「だったら、そんなに真剣な顔で考え込まないの。エドガーの方がこの子と遊んでいる時間が長いんだから、よく笑うことだってあるでしょう?」
アリシアに言われても、ローゼンはまだ少し納得していないようだった。やがて自分が抱けば反応も変わると思ったのか、エレナの身体へ手を伸ばして抱き上げる。生まれたばかりの娘を初めて抱いた時には、壊れ物でも渡されたかのように全身を固くしていたローゼンも、今では首を支えながら自然に抱けるようになっていた。
父親の腕へ移ったエレナは、居心地が悪い様子も見せず大人しく収まっている。ローゼンの胸元へ手を置き、しばらく周囲を眺めたあとで父親の顔を見上げるものの、やはり笑顔にはならなかった。
ローゼンも娘を見つめ返している。笑ってほしいと思えば思うほど意識してしまうらしく、その顔は普段よりも真剣になっていた。エレナまで父親につられたような顔で見上げているため、二人とも黙って向かい合う妙な時間が続いていく。
「あなた、そんな怖い顔で見つめて笑ってもらえると思ってるの?」
とうとう耐えられなくなったアリシアが笑うと、ローゼンは自分では普通にしていたつもりだったらしく、少し困ったように妻へ目を向けた。娘を笑わせたいのなら、笑わせようと考えすぎず普段のように接していればいいのだと教えてやると、ローゼンは腕の中のエレナへ視線を戻した。
エドガーも父親の隣へやって来て、エレナの手へ指を差し出した。小さな指が兄の指を握り、エドガーが嬉しそうに笑えば、エレナもすぐに口元を緩める。どうやら兄が笑っている顔を見るのが好きらしく、エドガーが表情を変えるたびにエレナも楽しそうに反応していた。
「エドガー。いつも何をしているんだ?」
ローゼンに尋ねられたエドガーは、少し考えるように首を傾けた。妹を笑わせるために特別なことをしているという感覚がないらしく、普段使っているおもちゃの話や、顔を近づけると喜んでくれることを一生懸命に説明し始める。
「普通に遊んでるだけだよ。エレナ、ぼくが来るといっぱい笑ってくれるんだ」
得意げな息子の話をローゼンは真面目に聞いていたが、結局どうすれば自分にも笑ってくれるのかは分からなかったらしい。エドガーが布のおもちゃを持ってきて使い方まで見せ始めると、ローゼンもいつの間にか娘を笑わせることを忘れ、腕の中のエレナを抱いたまま息子の話へ耳を傾けていた。
エドガーが最近覚えた遊びを身振りまで交えて説明している途中、エレナの小さな手が動いた。目の前にある父親の服へ指を伸ばし、布地を掴むと、そのまま離そうとせずに握っている。
引っ張られた感触に気づいたローゼンが娘へ目を落とした。何をしているんだと言いたげに目元を緩め、小さな手が服を握っているのを見ながら自然と笑みを浮かべる。
その顔を見上げていたエレナが、にっこりと笑った。
「パパ!今、エレナ笑ったよ!」
エドガーの方が先に喜び、父親の腕の中を覗き込んだ。ローゼンは娘の顔を見たまま一瞬動きを止め、エレナも機嫌よく父親を見上げている。もう一度笑ってくれるのではないかと期待していることが分かるほどローゼンの表情は緩んでおり、普段の国王としての顔などすっかり消えていた。
「よかったね。エレナ、パパにも笑ったね」
自分より父親の方が好かれているかもしれないなどとは考えないらしく、エドガーは純粋にローゼンが笑ってもらえたことを喜んでいる。そんな息子の頭をローゼンが片手で撫で、もう片方の腕ではエレナを大切そうに抱いていた。
アリシアは三人の姿を眺めながら、これから先のことを少しだけ考えた。エドガーは妹が笑えば自分まで嬉しくなり、ローゼンも娘に笑ってもらっただけで普段の落ち着いた顔が簡単に崩れてしまう。今ですら二人揃ってこの調子なのだから、エレナが歩くようになり、言葉を覚え、自分から二人を呼ぶようになれば、どれほど甘やかされるのか想像するのも難しくなかった。
ローゼンが娘を抱いたまま椅子へ座ると、エドガーもすぐ隣へ腰を下ろした。エレナは父親の腕の中から兄の方へ顔を向け、エドガーが名前を呼ぶと嬉しそうに足を動かす。兄は妹の手へ再び指を差し出し、小さな手に握ってもらいながら、今日も一緒に遊ぼうと楽しそうに話しかけていた。
エレナはまだ言葉を返せない。それでも兄の声が聞こえるたびに目を向け、エドガーが笑えば自分も口元を緩める。その隣ではローゼンが娘の顔を見ており、先ほど自分へ笑ってくれたことがよほど嬉しかったのか、いつまで経っても仕事へ戻ろうとする気配がない。
「ところでローゼン。あなた、いつまでここにいるつもり?」
アリシアに尋ねられ、ローゼンはようやく執務の途中だったことを思い出したように顔を上げた。それでもすぐに立ち上がろうとはせず、腕の中の娘を見てから、もう少しだけと言いたそうな顔をしている。
そんな父親の気持ちなど知らないエレナの前へ、エドガーがもう一度顔を近づけた。兄を見つけたエレナは先ほどまで以上に嬉しそうな笑顔を浮かべ、声まで出しながら両手を動かし始める。
ローゼンの顔に、ほんの少しだけ複雑そうな色が戻った。
「だから、張り合わないの」
アリシアは笑いながらローゼンの肩を軽く叩いた。エドガーは父親が妹と張り合っている理由など分かっておらず、今日も自分を見ると笑ってくれることが嬉しくて、何度もエレナの名前を呼んでいる。
ローゼンも今度は無理に娘を笑わせようとはせず、そんな兄妹を見守りながら穏やかに笑っていた。やがて執務へ戻る時間になれば名残惜しそうにエレナをアリシアへ預け、最後に娘の頬へ軽く触れてから部屋を出ていく。
扉が閉まると、エドガーはすぐにアリシアの腕の中へいる妹を覗き込んだ。エレナは兄の顔を見つけると、待っていたかのようにまた笑う。アリシアはその光景を見て、このことだけはしばらくローゼンへ教えないでおこうと思いながら、楽しそうな二人を眺めていた。




