【番外編α】在りし日の二人③
閲覧注意です(エッ的な意味で)
何気に初めて書きました。
アリシアとローゼンの結婚が近づいていた頃、その日は珍しく、ローゼンの夜の予定が綺麗に空いていた。昼間のうちに執務を終え、側仕えにも今夜はもう休むと伝えてあるため、急用でも起きない限り朝まで私室を訪れる者はいない。普段なら夜になっても書類を抱えていることの多いローゼンが、こんなにも早く自由になる日は滅多になかった。
そのことを知ったアリシアが大人しく自室で過ごしているはずもなく、夜が更け始めた頃には、すでに窓側に設けられた通路を渡ってローゼンの部屋へ向かっていた。あの時は使用人が入ってきたせいで寝台の中へ隠される羽目になったが、今日はその心配もない。
窓を開けると、物音に気づいたローゼンが振り返った。まさかこの時間に誰かが窓から入ってくるとは思っていなかったらしく、椅子に座ったまま目を丸くしている。
「……アリシア?」
「私よ私。窓開けて頂戴」
「またそこから来たのか」
呆れられてもアリシアは気にせず、勝手知ったる様子で部屋へ入って窓を閉めた。ローゼンも追い返すつもりなどないらしく、読みかけだった本を閉じて卓上へ置く。そもそも幼い頃から互いの部屋を行き来してきた二人である。婚約者になってからもその習慣は大して変わらず、むしろ将来夫婦になることが正式に決まってからは、アリシアの遠慮がますますなくなったくらいだった。
卓上にはローゼンが食べなかった菓子が残っており、アリシアは話しながら当然のように一つ摘まんだ。さらに二つ目へ手を伸ばしたところでローゼンに見られたものの、食べないなら貰っても同じでしょう、と開き直れば、それ以上は何も言われない。婚礼の準備はどこまで進んだだとか、今日ローゼンが会った大臣が随分と話の長い人だったとか、そんな話をしているうちに時間は過ぎていった。
雨が降り始めたことに二人が気づいたのは、それからしばらくしてからだった。
窓を小さく叩いていた雨粒は、気づけばはっきりと音が聞こえるほど強くなっている。アリシアは一度外へ目を向けたものの、その時にはまだ帰ることを考えなかった。少し待てば弱くなるだろうと思っていたし、何よりローゼンと二人でいられる時間をわざわざ早く切り上げる理由もない。
ところが、そうしている間にも雨脚は強まっていった。やがて風まで吹き始め、窓が大きく鳴ったところで、さすがのアリシアも腰を上げる。
「そろそろ戻るわ。これ以上酷くなったら面倒だもの」
そう言って窓を開けた途端、吹き込んできた雨に顔を背け、慌てて閉じることになった。通路はすっかり濡れているうえ、夜の暗さも重なって足元がよく見えない。無理をして渡れば滑る危険があり、ローゼンも窓の外を確認して首を横に振った。
「今はやめた方がいい。危ないよ」
「……そうね」
だからといって扉から出るのも気が進まない。すでに深夜に近く、こんな時間に王太子の私室から婚約者が一人で出てくるところを見られれば、何をしていたのかと聞かれるに決まっている。実際には菓子を食べながら話をしていただけなのだが、それをわざわざ説明するのも馬鹿らしかった。
「雨が弱くなるまで待つわ。どうせ今日は誰も来ないんでしょう?」
「ああ。朝までは来ないと思う」
「なら決まりね」
結局、アリシアは先ほどまで座っていた場所へ戻った。
ところが、待っても待っても雨は弱くならなかった。遠くで雷まで鳴り始め、気づけば普段ならとっくに眠っている時間になっている。最初こそ平気だったアリシアも次第に眠気には勝てなくなり、何度目かの欠伸をローゼンに見つかった。
ローゼンは寝台を指し、自分は長椅子を使うからそこで眠ればいいと言った。アリシアは一度断ったものの、窓の外を見れば帰れるようになるまでまだ時間がかかりそうで、眠気もすでに限界に近い。結局、朝まで借りるだけだからと寝台へ入り、ローゼンは約束通り長椅子へ移った。
それで眠れると思っていた。
ところが、先ほどまであれほど眠かったはずなのに、横になった途端に目が冴えてしまった。雨音を聞きながら何度か寝返りを打ち、目を閉じては開くことを繰り返す。自分の部屋ではないから落ち着かないのかもしれないと思ったが、もっと単純に、同じ部屋にローゼンがいることが気になっているだけなのかもしれない。
「……ローゼン。まだ起きてたの?」
「アリシアこそ」
「眠れないのよ。少し話しましょう」
暗がりの中で長椅子から身体を起こしたローゼンは、すぐにこちらへ来ようとはしなかった。アリシアが寝台の端を軽く叩いてやると、ようやく諦めたように立ち上がり、それでも中へ入ることはせず端に腰掛ける。そういうところは昔から変わらない。ほかの令嬢に比べればアリシアには遥かに慣れているものの、ローゼンは元来内気で、こういう時だけ妙なところで律儀だった。
二人が話し始めれば、そんな気まずさもすぐになくなった。今度は婚礼の話になり、式が終わったら部屋をどうするのか、今と同じように勝手に窓から入ってきたら困るのかとアリシアが聞けば、ローゼンは夫婦になった後まで窓を使う必要はないだろうと苦笑する。
「でも、もうすぐ本当に夫婦になるのね」
口にしてみると、急にその事実が現実味を帯びた気がした。ローゼンも同じことを考えたのか、少しだけ表情を緩めて頷いている。幼い頃からずっと一緒だったのだから、結婚したところで何も変わらない。アリシア自身、つい先ほどまではそう思っていた。
けれど、今はローゼンが妙に近く見えた。
寝台の端へ座っているだけなのに肩が触れそうで、目を向ければすぐに視線が重なる。今までなら何とも思わなかったはずなのに、一度気にしてしまうと駄目だった。アリシアは頬が熱くなっていくのを感じながら、それを誤魔化すようにローゼンの肩へ額を預けた。
「どうした?」
「……別に」
そのまま腕を回して抱きつけば、ローゼンも少し遅れて背中へ腕を回してくれる。抱きしめてもらうことだって初めてではない。なのに今夜は落ち着くどころか鼓動が速くなり、アリシアはローゼンの胸元へ顔を隠したまま、しばらく動けなくなった。
やがて顔を上げると、思ったより近いところにローゼンの顔がある。
アリシアはしばらく見つめていた。
ローゼンも何も言わない。
先に目を逸らしたのはアリシアだった。頬が赤くなっているのを自覚しているから、まともに見られると恥ずかしい。それでも離れることはせず、少し迷った末にローゼンの肩へ両手を置いた。
「アリシア?」
「……何でもないわよ」
何でもないはずがなかった。
アリシアは自分でも驚くほど思い切ってローゼンの身体を押し、そのまま寝台へ倒した。勢いに任せて自分も身体を乗り出したため、気づいた時にはローゼンの上へ覆い被さっている。
さすがに、これは恥ずかしい。
やってから後悔したわけではない。ただ、もう少し別の方法があったのではないかとは思った。真下からローゼンに見上げられ、アリシアの頬は一気に熱くなる。
「……な、何よ」
「何も言ってないよ」
「だったらそんなに見ないでよ……」
自分から覆い被さっておいて見るなというのも無茶な話だが、アリシアにそこまで考える余裕はなかった。ここで慌てて退くのも余計に恥ずかしく、赤くなった顔を見られないようにするには、むしろ距離をなくしてしまった方がいい。
そう考えたのかどうか、アリシアはローゼンへ顔を寄せ、そのまま唇を重ねた。
二人がキスをするのは初めてではない。
最初はもっと幼かった頃だった。森の中に二人だけの秘密の小屋があり、そこでアリシアが突然してみたいと言い出したのが始まりである。あの時もローゼンはされるがままで、アリシアはキスを終える頃合いというものを知らず、あまりにも長く続けたせいでローゼンが本気で息苦しくなった。肩を何度も叩かれてようやく唇を離した時には、ローゼンは真っ赤な顔で必死に息をしていたものだ。
もちろん、今はあの頃とは違う。キスの仕方くらい分かっているし、何より相手がもうすぐ夫になる男性だということも理解している。だからこそ唇を離した途端、昔とは比べものにならないほど恥ずかしくなった。
アリシアは顔を赤くしたままローゼンを見つめ、それから恥ずかしさを誤魔化すように、もう一度自分から唇を重ねた。
今度は先ほどより長かった。
唇が離れたところで、ローゼンの両手がアリシアの肩に触れた。押し返すほど強くはない。ただ、それ以上近づかないように止められていることくらいは分かる。
「……アリシア。今日はもうやめた方がいい」
アリシアは返事をしなかった。
言われなくても、その先に何があるのかくらい知っている。ここで離れればいいだけなのに、自分からここまでやっておいて素直に引き下がるのも妙に恥ずかしい。ローゼンが嫌なわけでもなく、むしろ離れたくないと思っている自分に気づけば、ますます顔が熱くなった。
「……もしかして、怖いの?」
口にした直後、アリシアは少しだけ後悔した。
ローゼンが黙ってしまったからである。
さっきまで困ったようにアリシアを見ていた目が、今度は真っ直ぐこちらを向いている。肩に触れていた手は動いていないのに、それだけで先ほどまでとは空気が違って感じられた。
「……アリシア。本当に、分かってやってる?」
アリシアは顔を真っ赤にしたまま視線を逸らした。それでもローゼンの服を掴んだ指だけは離れず、しばらく迷った末に、むしろ少しだけ力を込める。
「……分かってるわよ」
そこまで言ってしまえば、もう誤魔化すこともできない。アリシアは一度だけローゼンを見て、また恥ずかしそうに目を伏せた。
「……今さら止めるの?」
次に動いたのはローゼンだった。
それまで寝台へ押し倒されていた身体が起き上がり、アリシアが驚くより先に距離がなくなる。今度はローゼンの方から唇を重ねられ、自分から仕掛けていた時にはどうにか残っていたアリシアの余裕が一瞬で吹き飛んだ。
「ちょ、ちょっと待って。さっきまでと違――」
最後まで言わせてもらえなかった。
ローゼンはアリシアを抱きしめると、そのまま再び寝台へ倒れ込む。自分から始めたくせに、いざローゼンに主導権を握られると途端に余裕がなくなり、アリシアは真っ赤になりながら彼の服を掴んだ。
窓の向こうでは、まだ雨が降り続いていた。
◇
翌朝、アリシアが目を覚ました時には、昨夜あれほど激しく降っていた雨はすっかり止んでいた。窓から差し込む朝の光に目を細めながら、まだ眠気の残る頭でぼんやりと天井を眺める。見慣れた自室とは違う天井だったが、それよりも先に気になったのは、自分の身体に回された腕だった。
ローゼンは、アリシアを抱きしめたまま眠っていた。
すぐそばに寝顔があり、身体もぴったりと寄せられている。その光景を数秒ほど呆然と眺めたところで、昨夜の記憶が一気に蘇り、アリシアの眠気は跡形もなく吹き飛んだ。
「…………」
雨が止まずに帰れなくなったことも、眠れないからとローゼンを寝台のそばへ呼んだことも覚えている。そのあと自分から抱きついて、ローゼンを寝台へ倒し、その上へ覆い被さってキスをしたことも。そして止めようとしたローゼンに、怖いのかと余計なことを言った挙げ句、「今さら止めるの?」とまで口にしたことも、残念ながら何一つ忘れてはいなかった。
アリシアはローゼンを起こさないよう、そっと両手で顔を覆った。
やってしまった。
まだ結婚していないのに。
婚礼の日はもう近い。いずれ夫婦になることも決まっていて、相手は幼い頃からずっと好きだったローゼンなのだから、昨夜のことそのものを後悔しているわけではなかった。それでも、結婚するまではきちんと一線を守るつもりだったのである。少なくとも昨日、この部屋へ遊びに来た時には、こんな朝を迎えることになるなど欠片も考えていなかった。
それなのに今、自分はローゼンの寝台にいて、その本人に抱きしめられたまま朝を迎えている。
言い逃れのしようがなかった。
「……何やってるのよ、私……」
声に出した途端、昨夜の自分がますます恥ずかしくなった。
しかも、雨で帰れなかったから仕方なくこうなったわけではない。ローゼンは長椅子で眠ろうとしていた。それを呼んだのは自分で、抱きついたのも、押し倒したのも、最初にキスをしたのも自分。途中ではローゼンの方が一度止めようとしてくれていたのだから、雨のせいにすることさえできない。
アリシアは真っ赤になった顔を隠したまま、しばらく動けなかった。
できることなら、ローゼンが目を覚ます前に自室へ戻りたい。けれど、そのローゼンの腕がしっかりと腰に回っている。
「……どうやって逃げるのよ」
結婚を目前にして、まさかお互いが待てなくなるとは思ってもいなかった。
腕を持ち上げれば起こしてしまいそうで、かといってこのまま朝まで寝ているわけにもいかない。もう朝なのだから、いつ使用人がやって来てもおかしくなかった。昨夜は誰も来ないと分かっていたからこそ安心していたが、日が昇ってしまえば話は別である。
アリシアがどうしたものかと悩んでいるうちに、腰に回っていた腕が僅かに動いた。続いてローゼンが小さく身じろぎをし、ゆっくりと目を開ける。
近い距離で目が合った。
「…………」
「…………」
先に顔を赤くしたのは、ほとんど同時だった。
ローゼンは目を覚ましたばかりで状況が分からなかったらしく、数秒ほどアリシアを見つめていたものの、自分が彼女を抱きしめたまま眠っていたことに気づくと慌てて腕を離した。
「……お、おはよう。アリシア」
「おはよう……」
いつもなら何でもない朝の挨拶まで妙に気まずい。アリシアはローゼンから目を逸らしながら身体を起こし、乱れた髪を手で整えた。
その間にも昨夜の記憶は容赦なく蘇ってくる。
「……私たち、まだ結婚してないのよね」
「確かにそうだね」
「あと少しだったのに……」
婚礼まで待てなかったことを責めているというより、自分自身に呆れている声だった。アリシアは両手で顔を覆い、深く息を吐く。昨日の自分に会えるのなら、ローゼンを寝台へ呼んだあたりで一度よく考えなさいと言ってやりたい。
「……後悔してる?」
ローゼンの声に、アリシアは顔を覆っていた手を少しだけ下ろした。
「それはしてないわよ」
そこだけはすぐに答えた。
「あなたとだったことを後悔してるわけじゃないの。ただ……結婚するまでは、ちゃんと待つつもりだったのよ。私だって」
最後の方は少しだけ声が小さくなる。ローゼンは黙って聞いていたが、やがて申し訳なさそうに眉を下げた。
「すまない」
「どうしてあなたが謝るのよ。最初に始めたの、私じゃない」
それを自分の口で認めると、また恥ずかしくなった。
「……もう。この話は終わり。思い出したくないわ」
「分かった」
「昨日のことも、絶対に誰にも言わないでよ」
「僕から言うわけがないから心配しないで」
窓の外はすっかり明るくなっている。そろそろ戻らなければ本当に誰かが来てしまうだろう。アリシアは寝台から降りて身支度を整えると、昨夜渡ってきた窓側の通路を確かめた。雨は完全に上がり、朝日を受けた通路には昨夜の雨粒だけが残っている。
窓を開けようとしたところで、ローゼンに名前を呼ばれた。
「アリシア」
「何?」
アリシアは振り返る。ローゼンは何かを言おうとして、少し迷っていた。
何年一緒にいると思っているのだろう。それだけでアリシアには大体分かってしまった。
「……大丈夫よ」
「え?」
「だから、後悔してないって言ったでしょう?」
ローゼンの表情が僅かに緩む。
それを見たアリシアは、今度は自分の方から少しだけ笑った。
「ただし、次はちゃんと結婚してからよ。もうすぐなんだから、それくらい待てるでしょう?」
「ああ。もちろん」
「私も待つわ。……昨日みたいなことは、もうしないから」
そこまで言ってから、アリシアは自分で自分の言葉に自信がなくなったのか、僅かに目を泳がせた。
「……たぶん」
「アリシア」
「何よ。待つって言ってるでしょう!」
思わず声が大きくなり、二人揃って扉の方を見る。幸い、廊下から誰かが近づいてくる気配はない。
アリシアは胸を撫で下ろし、今度こそ窓を開けた。
「じゃあ、戻るわね。……またあとで」
「またあとで、アリシア」
アリシアは通路を渡って自室へ戻り、窓を閉める。誰もいない部屋を見回してから、ようやく大きく息を吐いたのだった。




