【番外編α】在りし日の二人②
アリシアとローゼンが正式な婚約者となってから、しばらく経った頃のことである。
王太子であるローゼンが、珍しく風邪を引いた。ここ数日は朝から晩まで勉強や公務に追われており、本人も多少の疲れを感じていたらしいのだが、いつものように大丈夫だと思って無理を続けた結果、とうとう朝になって寝台から起き上がれなくなったのである。幸いにも重い病ではなく、侍医の見立ても数日大人しく休んでいれば治るというものだったが、それでも熱は高く、その日の予定はすべて取りやめとなった。
当然、その話はアリシアの耳にも入った。
「だから無理しないでって言ったのに……」
ローゼンが体調を崩したと聞いたアリシアが最初に口にしたのは、心配する言葉ではなく呆れたような一言だった。しかし、それで本当に呆れて放っておけるのなら、彼女も苦労はしない。ローゼンは昔から我慢強いというより、自分の体調に関して妙なところで無頓着な人間だった。少しくらい具合が悪くても平然と勉強を続けるし、周囲から休めと言われても「大丈夫だ」と答える。そうして本当に倒れてしまったことも、これが初めてではない。
だからこそ、その日の夜になってもアリシアはローゼンのことが気になって仕方がなかった。昼間より悪くなっていないだろうか。薬はきちんと飲んだだろうか。そして何より、侍医から休めと言われているのに、隠れて何か仕事をしているのではないだろうか。考え始めれば始めるほど眠れなくなり、とうとうアリシアは寝台から起き上がった。
向かったのは扉ではなく、窓だった。
アリシアとローゼン、それぞれの部屋の窓側には、二つの部屋を繋ぐ通路が設けられている。二人が幼い頃に作った通路であり、互いの部屋へ行くために何度となく使ってきたものでもあった。今さらそこを歩くこと自体に特別な感情などない。ただし、夜もすっかり更けたこの時間に正面の廊下を通って王太子の寝室へ向かえば、さすがに使用人から止められるだろう。
「……様子を見るだけならいいわよね」
誰に言うでもなく呟くと、アリシアは窓を開けて通路へ出た。夜風を受けながら慣れた道を進み、やがてローゼンの寝室へ続く窓へ辿り着く。室内が暗いことを確認してから静かに窓を開け、なるべく音を立てないよう中へ入った。
本人に後ろめたい目的など一切ない。愛しい婚約者が風邪を引いて寝込んでいるので、様子を見に来ただけである。
もっとも、傍から見れば話はまったく違ってくる。婚約したばかりの令嬢が夜も更けた頃、人目を避けるように窓側の通路を渡り、王太子である婚約者の寝室へ窓から忍び込んでいるのだ。事情を知らない人間が目撃すれば、看病ではなく夜這いだと思われても仕方のない状況だった。
「……誰だ?」
小さな物音で目を覚ましたらしく、寝台から掠れた声が聞こえた。アリシアが振り返ると、ローゼンが上半身をわずかに起こし、暗がりへ目を凝らしている。熱のせいなのか普段よりも反応が鈍かったが、やがて窓辺に立っている人物が誰なのか分かると、驚いたように目を見開いた。
「……アリシア?」
「起こしちゃった?ごめんなさい。ちょっと様子を見に来ただけよ」
「様子をって……こんな時間に、どうやって来たんだ?」
「いつもの通路よ。廊下から来たら止められるでしょう?」
アリシアが窓の向こうを指差すと、ローゼンはしばらく何も言わなかった。熱で頭が回っていないわけではない。むしろ、今の説明を理解したからこそ困っているのである。正式に婚約したとはいえ、夜中にアリシアが自分の寝室へやって来たという状況は、もともと内気なローゼンには刺激が強かった。
そんな彼の心境など知らないアリシアは、さっさと寝台へ近づいていく。起き上がっていたローゼンの肩を押して再び横にならせると、その額へ手を当てた。触れた瞬間に眉を寄せる。聞いていたよりも熱が高い。
「まだ熱いじゃない。薬は飲んだの?」
「ああ。夕食のあとに飲んだよ」
「お水は?」
「それも飲んだ。だから大丈夫だよ」
「大丈夫って言葉、あなたの場合はまったく信用できないのよね」
アリシアは呆れながら掛け物を整え、寝台脇に置かれていた水差しを確認した。そこまでは問題なかったのだが、そのすぐそばに何枚かの書類が置かれているのを見つけた瞬間、彼女の目が細くなる。手に取ってみれば、どう考えても病人が今夜確認しなければならないような内容ではない。
「……これは何?」
「少し目を通そうと思って」
「ほら。やっぱり来て正解だったじゃない。病人が何してるのよ」
有無を言わせず書類を取り上げると、アリシアは寝台から離れた机の上へ置いた。ローゼンも取り返そうとはしなかった。彼女がこうなった時に何を言っても無駄だということくらい、幼い頃からの付き合いで嫌というほど理解している。
そのままアリシアは寝台脇の椅子へ腰を下ろした。少なくともローゼンが眠るまでは見張っているつもりだった。そんな彼女を見て、今度はローゼンの方が困ったような顔をする。
「アリシア、もう遅いから戻った方がいいよ」
「あなたが寝たら戻るわ。どうせすぐそこなんだから」
窓の向こうにある通路を示しながら答えた直後、二人はほとんど同時に扉の方を見た。
廊下から足音が聞こえてきたのである。
最初は遠かったそれが、少しずつ近づいてくる。やがてローゼンの寝室の前で止まり、アリシアの表情が変わった。おそらく夜間の様子を確認するために使用人が来たのだろう。もちろんアリシアが普通に面会しているだけなら問題はない。しかし今は深夜であり、彼女は誰にも知らせず窓側の通路から忍び込んでいる。
「……まずいわね」
アリシアは立ち上がり、来た時と同じように窓から戻ろうとした。しかし、すでに扉の向こうから声が聞こえている。今から窓を開けて通路へ出れば、物音で気づかれる可能性が高かった。
隠れる場所を探して室内を見回した、その時だった。
「アリシア」
「えっ――」
ローゼンが彼女の腕を掴んだ。普段の内気な彼からは想像できないほど迷いのない動きで引き寄せられ、アリシアの身体が寝台へ倒れ込む。驚いて声を上げそうになった彼女へ、ローゼンは小さく「静かに」と告げると、そのまま掛け布の中へ押し込んだ。
一人分の寝台に二人が横たわれば、掛け布の形だけで誰かがいると分かってしまう。そこでローゼンは仰向けになると両膝を立て、掛け布を持ち上げることで、その下に空間を作った。アリシアは何が何だか分からないまま、作られた空間の中で身体を小さくするしかない。
直後、扉が開いた。
「お休みのところ失礼いたします。お加減はいかがでしょうか」
「……ああ。大丈夫だ」
使用人の声に答えるローゼンは、できる限り平静を装っていた。しかし寝台の掛け布の中には婚約者が隠れている。それを意識した途端、ただでさえ熱を持っていた顔がさらに赤くなってしまう。
「先ほどよりお顔が赤いようですが……熱が上がりましたか?」
「……たぶん、そうだと思う」
嘘ではなかった。実際に熱はある。ただし、今この瞬間に顔が赤くなった理由のすべてを風邪のせいにするのは無理があった。
掛け布の中でそれを聞いていたアリシアは、思わず笑いそうになって口元を押さえた。今笑えばすべてが終わる。どうして看病に来ただけの自分が、婚約者の寝台へ潜り込んで息を殺しているのか。考えれば考えるほどおかしかったが、今だけは耐えるしかなかった。
しかも、使用人はなかなか帰ってくれない。水差しを新しいものへ交換し、室内の温度を確認し、翌朝また侍医が来ることまで丁寧に伝えている。その間、ローゼンは不自然に膝を立てたまま動くことができず、アリシアも掛け布の中でじっとしていなければならなかった。
「それでは殿下、どうかごゆっくりお休みください」
「ああ。ありがとう」
ようやく扉が閉じる。それでも二人はすぐには動かなかった。廊下を歩いていく足音が十分に遠ざかったところで、ローゼンが大きく息を吐き、掛け布を持ち上げた。
そこからアリシアが顔を出す。
「……なんで寝台の中に入れるのよ」
「ほかに隠せるところがなかったんだ」
「だからって……」
文句を続けようとしたアリシアだったが、改めて室内を見回して口を閉ざした。確かに、咄嗟に人一人を隠せる場所などほかにはない。それでも納得しきれずにローゼンを睨んでいたものの、やがて別のことに気づいたように表情を止める。
夜中に人目を忍んで窓側の通路から王太子の寝室へ入り、その王太子本人の寝台へ潜り込んでいたのである。
もし先ほど掛け布をめくられていたら、どう説明すればよかったのだろう。
「……今のこと、絶対に誰にも言わないでよ」
「私から言うわけがないだろう」
「そうよね。看病しに来ただけなのに、絶対に変な勘違いされるもの」
「そもそも、夜中に来るからこうなるんだよ」
ローゼンがもっともなことを言うと、アリシアは一瞬だけ唇を尖らせた。
「だって、あなたが心配だったんだもの」
それは言い訳でも何でもなく、ただ思ったことをそのまま口にしただけだった。
すると、ローゼンは何も言えなくなった。アリシアは気づいていなかったが、彼の顔は先ほどとは違う理由で再び赤くなっている。ローゼンは昔からほかの令嬢を前にすると上手く話せなくなるほど内気だったが、アリシアだけは例外だった。それでも、こうして真正面から自分を心配していると言われれば、平然としていられるわけではない。
「ほら、もう寝なさい。今度こそ何もしちゃ駄目よ」
アリシアは寝台から抜け出して椅子へ戻り、ローゼンへ掛け物をかけ直した。ローゼンも今度こそ諦めたのか、素直に目を閉じる。しばらくすると呼吸がゆっくりと整い始め、アリシアもようやく安心した。
これならもう大丈夫だろう。そう思って椅子から立ち上がったところで、不意に袖を引かれた。
振り返ると、眠っているはずのローゼンがアリシアの袖を掴んでいた。
「……ローゼン?」
呼びかけても返事はない。本当に眠っているらしく、本人も自分が何をしているのか分かっていないのだろう。起きている時なら、内気なローゼンが自分からこんなふうに引き止めることなど滅多にない。アリシアはその手をしばらく眺めたあと、無理に外すことを諦めて椅子へ座り直した。
「……仕方ないわね。もう少しだけよ」
もちろん、眠っているローゼンから返事はなかった。
その「もう少し」が思っていたよりも長くなったことにアリシアが気づいたのは、窓の外がわずかに明るくなり始めてからだった。椅子に座ったまま眠ってしまっていたらしく、慌てて身体を起こす。ローゼンの額へ手を当ててみれば、幸い昨夜よりも熱は下がっているようだった。
ほっとしたところで、今度は別の問題に気づく。もうすぐ使用人たちが動き始める。このままここにいる方がよほどまずい。
アリシアは静かに立ち上がると、来た時と同じ窓へ向かった。ちょうどその頃、ローゼンも目を覚ましたらしく、寝台から彼女を見る。
「……またそこから帰るのか?」
「当たり前でしょう。今さら扉から出たら、私があなたの部屋で一晩過ごしたと思われるじゃない」
当然のことを言ったつもりだったアリシアに対し、ローゼンは少し考えてから口を開いた。
「窓側の通路から朝帰りするところを見つかる方が、もっと誤解されると思う」
「…………」
窓へ伸ばしていたアリシアの手が止まった。
夜中に人目を忍んで婚約者の寝室へ入り、そのまま一晩を過ごし、夜が明ける頃になって窓から自分の部屋へ帰る。しかも途中では、実際にローゼンの寝台の中にまで潜り込んでいる。
そこまで考えて、ようやくアリシアの頬が見る見るうちに赤くなった。
「か、看病よ!私は本当に看病しかしてないんだから!」
「分かってるよ、アリシア」
「だったら笑わないでよ!」
ローゼンは熱が下がり始めたばかりだというのに、堪えきれないように笑っていた。アリシアはますます顔を赤くしながら窓を開けると、最後に振り返って「早く治しなさいよ」と言い残し、足早に通路を渡って自分の部屋へ戻っていった。
傍から見れば、どう考えても夜這いである。しかし実際にその夜アリシアがしたことといえば、ローゼンの熱を確かめ、水を飲んだかと確認し、仕事を取り上げ、大人しく眠るまで見張っていただけだった。
少々大胆すぎる、婚約者の看病だったのである。




