【番外編α】在りし日の二人①
お待たせしました!!番外編です。
王太子ローゼン・クライゼンの婚約者選びが本格的に始まったのは、春も終わりに近づいた頃だった。将来の王妃を決めることにもなる以上、単純に家柄の高い令嬢を選べばよいというものではない。本人の教養や人柄、王太子との相性はもちろん、その実家が王家にとってどのような存在なのかまで慎重に見極める必要があった。
特に警戒されるのが、王太子妃となる女性の実家があまりにも大きな権力を持っている場合である。王家を支えられるだけの家格や財力は必要だが、それが強大になりすぎれば、婚姻を足掛かりに王家へ影響力を及ぼすこともできてしまう。実際、この王国の長い歴史を振り返れば、王妃の実家が宮廷の要職を一族で固め、国王が外戚の意向に逆らえなくなった時代が何度か存在していた。王家そのものが傀儡に近い状態へ追い込まれた例さえある以上、王太子の婚約者選びにおいて実家の力は、弱すぎても強すぎても問題になる。
その点において、レインフォート家は申し分なかった。古くから続く家柄で王家からの信用もあり、王太子妃を出しても不足のない立場にありながら、王家を呑み込めるほど突出した権力を持っているわけでもない。そして、その令嬢であるアリシア自身にも、将来王妃となるために必要な教養や礼儀作法が身についている。王宮にも幼い頃から何度も足を運んでいるため、その空気に慣れていることも評価された。
そうして複数の令嬢が候補として挙げられた婚約者選びだったが、いざ始まってみれば競争と呼べるほどのものにはならなかった。
アリシア・レインフォートが、あまりにも独走していたのである。
最大の理由は、やはりローゼンとの関係だった。二人は幼い頃から互いを知っており、今さら相性を確かめる必要などないほど長い時間を一緒に過ごしている。好きな食べ物も嫌いな食べ物も、機嫌が悪い時の顔も、疲れている時に僅かに口数が減ることも知っていた。何よりアリシアには、ローゼンが自分の婚約者になるかもしれない男性だという意識がほとんどなかった。
ほかの候補となった令嬢たちは、王太子であるローゼンを前にすれば少なからず緊張した。将来の夫になる可能性がある相手なのだから当然であり、普段以上に言葉を選び、少しでも良い印象を与えようとするのも無理はない。しかし、アリシアだけは昔から何も変わらなかった。婚約者選びのために王宮へ招かれ、ローゼンと二人で茶を飲む機会を設けられても、本人にとってはいつもの時間が少し改まった場所で用意されただけである。
「ローゼン、昨日ちゃんと寝たの? なんだか顔が疲れているわよ」
「寝たよ。ただ、少し遅くなっただけだ」
「それなら今日は早く休みなさい。無理して体調を崩したら意味ないでしょう?」
王太子へ向けるには随分と遠慮のない言葉だったが、ローゼンも気分を害した様子はない。それどころか、分かったと素直に頷いている。
もともとローゼンは内気な性格だった。特に同年代の令嬢と話すことを得意としておらず、ほかの婚約者候補を前にすれば、相手だけではなくローゼンの方にも多少のぎこちなさが生まれる。ところがアリシアを前にした時だけは、それが嘘のようになくなった。幼い頃から隣にいることが当たり前だった彼女に対して今さら緊張する理由もなく、アリシアの遠慮のない距離感もごく自然に受け入れている。
ある時など、茶菓子として用意された焼き菓子をローゼンが一つだけ残しているのを見つけたアリシアが、何の遠慮もなく彼の皿へ手を伸ばした。
「それ、食べないなら貰ってもいい?」
「アリシアが好きだから残しておいたんだ。食べていいよ」
「そうなの?だったら最初から私のお皿に置いてくれればよかったじゃない」
礼を言うより先にそんなことを言いながら、アリシアは嬉しそうに焼き菓子を食べる。ローゼンもそれを見て僅かに笑っているだけで、二人にとっては特別なやり取りですらなかった。
互いの好みも、癖も、その日の機嫌さえも大抵分かってしまう。まだ正式な婚約者ですらないというのに、二人の間に流れる空気には初々しい男女の緊張など欠片もなく、むしろ長年連れ添った夫婦のような妙な余裕があった。婚約者候補として相性を見るために用意された時間でさえ、結局は普段と変わらない二人のお茶の時間になってしまうのだから、見守っている者たちの方が困惑するほどだった。
そして何より、ローゼン自身がアリシアを望んでいた。
家柄に問題はない。実家の力も強すぎず弱すぎず、王家との関係も良好。本人の資質にも大きな懸念はなく、王宮にも慣れている。そのうえ王太子本人と幼い頃から親しく、内気なローゼンが唯一と言っていいほど自然体で接することのできる令嬢となれば、ほかの候補がそこへ割って入る余地はほとんどなかった。
選定が進むほど差は広がり、やがてアリシアが正式にローゼンの婚約者となることが決まった。
「そう。私に決まったのね」
知らせを受けたアリシアの第一声は、それだけだった。
喜んでいないわけではない。むしろ嬉しい。ただ、本人にとっては驚くような結果ではなかった。自分が選ばれて当然だと思い上がっていたのではなく、幼い頃からローゼンの隣にいることがあまりにも当たり前で、ほかの誰かが彼の隣に立つ未来を真剣に想像したことがなかったのである。むしろ他の子を選んでいたら、彼女自身が押し倒していたのかもしれない。
結局、今までと同じなのだ。
少なくとも、その日の午後まではそう思っていた。
アリシアが王宮を訪れると、ローゼンはいつもの庭にいた。正式に婚約が決まったばかりだというのに、顔を合わせても特別な挨拶をするわけではない。アリシアも普段と同じように彼のもとへ歩いていった。
「聞いたか?」
「もちろん。私に決まったんでしょう?」
「ああ」
そこまでは、いつもの二人だった。
けれどローゼンはそこで少しだけ表情を緩め、アリシアを真っ直ぐに見つめた。
「今日から正式に、アリシアが私の婚約者だ」
「……そうね」
返事をしたアリシアは、自分でも分かるほど僅かに間を空けてしまった。
午前中にも同じことを聞いたばかりである。それなのに、ローゼン本人の口から「私の婚約者」と言われた途端、その言葉が急に違うもののように聞こえた。
ローゼンは幼い頃からの友人であり、最も近くにいる異性でもある。それが今日からは、自分がいつか結婚する相手になる。そんなことは婚約者候補になった時点で分かっていたはずなのに、今さらになって妙に意識してしまった。
「どうした?」
「何でもないわよ。婚約したからって、今までと何か変わるわけじゃないでしょう?」
誤魔化すようにそう言うと、ローゼンは少し考えてから頷いた。
「そうだな。でも、僕は嬉しいよ。ずっとアリシアがいいと思っていたから」
「……そういうことを急に言わないでよ」
思わず視線を逸らしたアリシアに、ローゼンは不思議そうな顔をする。どうやら本人には照れさせた自覚すらないらしい。普段は内気なくせに、昔からアリシアに対してだけは妙なところで素直なのである。
二人はそのまま庭を歩き始めた。いつもなら何も考えず隣を歩いているというのに、その日に限ってアリシアはローゼンとの距離が妙に気になった。こちらに合わせて少しゆっくり歩いていることも、肩が思ったより近くにあることも、今までなら意識すらしなかったはずなのに、今日は一つ一つ目についてしまう。
けれど、そんな時間が長く続くはずもなかった。
昔から散々一緒に過ごしてきた相手を、婚約者になったからといって急に遠慮する方がおかしい。そう思ったアリシアは、しばらく歩いたところで自分からローゼンとの距離を詰め、その腕へ抱きついた。
「アリシア?」
「何よ。もう私の婚約者なんでしょう?だったら、これくらいいいじゃない」
「ああ。もちろんいいよ」
ローゼンは迷うことなく答えた。それどころか、あまりにも嬉しそうに笑ったので、今度はアリシアの方が恥ずかしくなってしまう。
「……やっぱり離れる」
「どうして?」
「いいから離して」
アリシアが腕を解こうとしたものの、ローゼンは珍しく素直に従わなかった。強引に引き寄せるわけではなく、彼女が絡めた腕へ自分の手をそっと添えて、そのままでいてほしいと示すだけだった。
結局、アリシアも本気で離れようとはしなかった。
少し前まで『婚約者』という言葉を妙に意識していたというのに、こうして歩いていればすぐに昔からの感覚へ戻っていく。変わったようで、何も変わっていない。ただ一つ違うとすれば、これからは誰に遠慮することもなく、ローゼンの隣が自分の場所だと言えるようになったことくらいだった。
庭を一周して戻る頃には、アリシアはすっかりいつもの調子を取り戻していた。ローゼンの腕にくっついたまま歩くことにも慣れてしまい、むしろ正式な婚約者になったのだから今まで以上に堂々としていても構わないのではないかとさえ思い始めている。
「これからは、堂々とあなたの隣にいられるのね」
「今までもずっといたと思うけど」
「そういう意味じゃないわよ」
アリシアが少しむっとして見上げると、ローゼンは楽しそうに笑った。そして庭を出る少し前、彼はアリシアの腕から手を離す代わりに、その手をそっと握った。
子供の頃から何度も繋いできた手だった。それでも今日だけは、少し違う意味を持っているような気がした。
「アリシア。これからも、ずっと僕のそばにいてくれるか」
ローゼンが真面目な顔で尋ねてくる。
アリシアは一瞬だけ目を丸くして、それから可笑しそうに笑った。
「今さら何を言ってるのよ。あなたが嫌だって言っても、そばにいるつもりよ」
そう答えて、握られた手をアリシアの方から握り返した。
こうしてアリシア・レインフォートとローゼン・クライゼンは、正式な婚約者同士となった。幼い頃からあまりにも近かった二人は、婚約したところで初々しい関係になることもなく、ほんの少しだけ互いを意識したかと思えば、すぐに以前と変わらない距離へ戻ってしまった。
ただし、婚約者という立場を得たことで、それまで以上に遠慮がなくなったのも事実である。
この日を境に二人は、周囲が呆れるほど仲の良い婚約者として過ごしていくことになるのだった。




