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一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?  作者: 入多麗夜


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87. 帰る場所があるのだから

 第二子が生まれてから少し時間が経ち、王宮では四人で暮らす日々が少しずつ当たり前のものになり始めていた。出産を終えたアリシアの身体も順調に回復しており、まだ以前と同じように動き回ることは周囲から止められているものの、部屋の中を歩いたり、天気のいい日には短い時間だけ庭へ出たりできるようになっている。そして、そんな四人の日常の中心にいるのが、生まれたばかりの娘だった。娘はとにかくよく泣く子で、お腹が空いても泣き、眠いのに上手く眠れなくても泣き、ようやく眠ったと思って寝台へ下ろせば、それが気に入らなかったのかまた泣く。小さな身体のどこからそれほどの声が出るのかと思うほど元気で、時には王宮の廊下の向こうまで泣き声が響き渡った。最初の頃こそ侍女や近衛まで何事かと振り返っていたものの、今ではすっかり慣れてしまい、大きな泣き声が聞こえてくれば今日も元気なのだと思う程度になっている。


 ただ一人、ローゼンだけはなかなか慣れなかった。公務の途中であっても遠くから娘の泣き声が聞こえれば僅かに顔を上げ、少し長く続けば結局アリシアの部屋まで様子を見に来る。大抵の場合、娘はお腹が空いたか、眠いか、それともただ抱いてほしかっただけであり、特別なことは何も起きていない。


「泣いてるだけよ」


 何度アリシアがそう言っても、ローゼンは娘が落ち着くまで何となく部屋から出ていかなかった。


 そんな娘には、エレナという名前がつけられていた。名付けを任されたのはローゼンだった。エドガーの名前は四年前、アリシアが一人で考えてつけたものだったから、今度の子については最初から夫に任せようと決めていた。出産から数日後、まだ寝台で身体を休めていたアリシアは、眠っている娘を飽きもせず眺めているローゼンへ、何でもないことのようにその役目を押しつけた。


「エドガーの名前は私が考えたでしょう?だから、この子はあなたが考えて」


 ローゼンは少し驚いた顔をしたものの、その役目を断りはしなかった。それから何日か、本当に真剣に悩んでいたらしい。いくつか候補を考えては決めきれず、娘の顔を見てはまた考えることを繰り返し、ある日、眠る赤ん坊のそばでアリシアと二人きりになった時に、ようやく一つの名前を口にした。


「……エレナはどうだろう」

「エレナ……」


 アリシアはその名を一度口にし、隣で眠っている娘へ視線を落とした。小さな胸を規則正しく上下させながら眠る姿を眺め、もう一度心の中で響きを確かめてから、素直に笑う。


「いい名前じゃない。私は好きよ」


 それで娘の名前は決まった。その後すぐに妹の様子を見に来たエドガーにも教えると、本人は新しい名前を覚えたことが嬉しくて仕方がないらしく、「エレナ」と何度も繰り返した末に、「ぼくの妹、エレナなんだね」と満足そうに笑った。それからというもの、家族の中で最も多くその名前を呼んでいるのは間違いなくエドガーだった。


 ある日の昼下がり、アリシアは窓辺の長椅子へ腰掛け、少し前まで王宮中へ聞こえそうな勢いで泣いていたエレナを腕の中で眠らせていた。窓から差し込む柔らかな光が娘の頬を淡く照らし、そのすぐ隣ではエドガーが飽きもせず妹の顔を覗き込んでいる。起こしてはいけないと思っているのか動きは妙に慎重で、そっと指を近づけると、眠っているエレナの小さな手が反射的にその指を握った。途端にエドガーの目が輝く。


「ママ、エレナがまたつかんだ!」

「昨日も同じことで喜んでたじゃない」


 アリシアが呆れながら笑っても、エドガーにとっては何度目だろうと関係ないらしい。握られた指を嬉しそうに見つめ、起こさないよう声だけは抑えているものの、口元はずっと緩んだままだった。


 そこへ、ちょうどローゼンが部屋へ入ってきた。少し様子を見に来ただけだと言うものの、アリシアには先ほどまで響いていた泣き声を聞きつけて来たことが丸分かりだった。何も言わず夫を見ると、ローゼンはその視線を受け流しながらエレナのそばへ寄り、眠っている顔を確認して明らかに安心したあと、今度はエドガーと同じように自分の指をそっと差し出した。


 エレナの小さな手が、その指を握る。


 ローゼンの口元が僅かに緩み、その横ではエドガーも満足そうな顔をしている。アリシアはそんな二人を見比べ、思わず小さく呟いた。


「……親子ね」


 二人がほとんど同時にこちらを見たので、その反応までよく似ていることがおかしくなり、今度こそアリシアは声を立てて笑った。


 そんな穏やかな時間を過ごしていると、ミレイユが一つの荷物を抱えて部屋へ入ってきた。北の村から届いたものだと聞き、アリシアが包みを開いてみると、中には保存食や乾燥させた薬草、それから小さな毛布が入っていた。王宮にある高価な品々とは比べるまでもなく素朴なものだったが、一目で丁寧に作られたことが分かり、柔らかな布の端には小さな刺繍まで施されている。明らかにエレナのために用意されたものだった。


 一緒に添えられていた手紙には、第二子の誕生を喜ぶ言葉と、母子ともに無事だったことへの安堵が綴られていた。アリシアは読み進めながら懐かしそうに笑う。かつて自分とエドガーが暮らしていた村から、今度は新しく生まれた娘のための贈り物が届いている。そのことが少し不思議で、同時にとても嬉しかった。


「これ、エレナの?」

「そうみたいよ。あなたがいた村の人たちが作ってくれたの」


 エドガーはそれを聞くと、今まで以上に大切なものを見るような顔で毛布を撫でた。そのまま妹のそばへ持っていこうとする姿を、アリシアは止めなかった。昔の生活は終わったわけでも、消えてしまったわけでもない。ただ形を変えながら、今の家族へこうして穏やかに繋がっている。


 午後になっても空はよく晴れていたため、四人はエレナに負担がかからない範囲で庭へ出ることにした。遠出をするわけではなく、いつもの庭を少し歩く程度の短い散歩だった。エレナはアリシアの腕の中で眠り、エドガーはローゼンの隣を歩く。出発した時には妹が寝ているから静かにすると張り切っていたものの、しばらくするとそのことを忘れて前へ走りそうになり、ローゼンに呼ばれて慌てて戻ってきた。その様子がおかしくてアリシアが笑うと、腕の中でエレナがゆっくり目を開ける。


 嫌な予感がした。


 次の瞬間には、庭いっぱいに大きな泣き声が響き渡った。近くにいた侍女まで思わず振り返るほどの声だったが、もはや家族の三人は慣れている。エドガーなど驚くどころか感心したように妹を見ている。


「今日もすごいね」

「本当にね……」


 アリシアが苦笑している間に、ローゼンが自然に手を差し出した。出産直後は娘を抱いただけで身体を固くしていたというのに、今では随分と慣れたものだった。まだ慎重すぎるところはあるものの、腕の中へエレナを収め、ゆっくり身体を揺らしてあやすことくらいなら普通にできる。ただし、相手は国王だからと遠慮してくれるような赤ん坊ではない。エレナはローゼンの腕の中でも元気いっぱいに泣き続けた。


「この国の王様でも駄目みたいね」


 アリシアが笑うと、ローゼンは何とも言えない顔をした。それでも諦めずにあやし続けているうち、エレナの声は少しずつ小さくなり、やがて泣き疲れたように父親の胸元で眠り始める。


 それを見届けたエドガーが満足そうに笑った。


「パパが勝ったね」

「何と戦ってるのよ」


 アリシアが笑えば、ローゼンも僅かに口元を緩めた。


 庭の休憩場所まで歩き、四人はしばらくそこで腰を落ち着けることにした。ローゼンの腕の中ではエレナが静かな寝息を立て、その横へ座ったエドガーは、今日あったことを妹へ一方的に話している。朝に食べたものから、見かけた騎士のこと、庭で見つけた虫のことまで、どう考えても赤ん坊には理解できないことばかりだったが、本人は至って真剣だった。


「大きくなったら、ぼくが全部教えてあげるからね」


 アリシアは少し離れた場所から、その光景を眺めた。ローゼンとエドガーとエレナ。その三人が同じ景色の中にいることも、いつの間にか特別ではなくなり始めている。


 かつて、この王宮はアリシアにとって帰りたいと思える場所ではなくなった。一度ここを離れ、二度と戻ることはないだろうと思っていた時期もある。けれど今さら、過去の出来事を一つずつ思い返す必要はなかった。目の前ではエドガーが笑い、ローゼンが娘を抱いている。少し前まで王宮中へ響くほど泣いていたエレナは、何事もなかったように眠っていたのだ。


「どうした?」


 視線に気づいたローゼンが尋ねる。


「何でもない」


 アリシアが少し笑いながら返すと、ローゼンは怪訝そうな顔をした。


「いつものあなたの真似よ」


 それで意味が分かったのか、ローゼンも小さく笑った。それ以上、二人の間に余計な言葉は必要なかった。


 やがて夕方が近づくと、庭を吹く風も少し冷たくなってきた。まだ幼いエレナを長く外へ出しておくわけにもいかず、四人は王宮へ戻ることにする。帰り道では、エドガーがローゼンの空いている手を握り、もう片方の腕には眠ったエレナがいる。アリシアはその隣をゆっくり歩いていた。


「お腹すいた」

「さっきお菓子食べたでしょう」


 夕食前にもかかわらず言い出したエドガーへアリシアが呆れて返すと、本人はほんの少ししか食べていないと主張する。ローゼンまで夕食までもう少しだから我慢するよう言えば、今度は一つだけならいいだろうと交渉が始まった。その途中、ローゼンの腕の中でエレナがもぞりと身じろぎし、三人の視線がほとんど同時に集まる。今にもまた大泣きが始まるかと思ったが、エレナは小さく欠伸をしただけで、そのまま再び眠った。エドガーがほっとしたように息を吐き、それを見たアリシアはまた笑った。


 夕暮れの光に染まる王宮が、少しずつ近づいてくる。白い石壁も高い窓も、傾いた陽を受けて淡い橙色に染まり、いつも見ているはずの建物が少しだけ柔らかく見えた。


 アリシアはその王宮を見上げる。


「そろそろ帰りましょうか」


 ごく自然に出た言葉だった。


 ローゼンもエドガーも、その一言に特別な意味を見つけることなく、当然のように王宮へ向かって歩いていく。アリシアもその隣へ並んだ。


 ローゼンの隣へ並ぶと、彼の空いている方の手が自然にこちらへ伸びた。アリシアも何も言わず、その手を握り返す。隣にはエドガーがいて、ローゼンの腕にはエレナが眠っている。少しすれば、また王宮中へ響くほどの声で泣き始めるかもしれない。エドガーも明日になればまた妹の顔を覗き込み、同じことで何度でも喜ぶのだろう。ローゼンも娘が泣くたびに公務の途中から様子を見に来るに違いない。それでも今では、そんな全部が四人の日常の一部だった。


 アリシア・クライゼン。

 二児の母であり、最愛の夫――ローゼン・クライゼンの妻である。


 四人の足音が、夕暮れの王宮へ続いていったのだった。

最後までありがとうございました!一旦は完結となります。アリシア&ローゼンの成長した子ども達の話を短編にて執筆中です! シリーズ or 代表作から覗いて見てください!


※番外編も制作中です。今暫くお待ち下さい!

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