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一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?  作者: 入多麗夜


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86. 娘の誕生

 出産予定日が近づいたある日の夜明け前、王宮はまだ深い静けさの中にあった。窓の外はようやく白み始めたばかりで、庭も建物も淡い青灰色の光に沈んでいる。アリシアはそんな静かな時間の中、腹部に走った鈍い痛みで目を覚ました。最初は赤ん坊が強く動いただけかと思い、そのままもう一度目を閉じようとしたものの、しばらくすると同じような痛みが再び訪れる。まだ耐えられないほどではなかったが、何度か間隔を確かめているうちに、以前にも経験した感覚だと気づいた。


 アリシアは小さく息を吐き、隣で眠っていたローゼンの肩へ手を伸ばした。


「ローゼン。起きて。……たぶん、始まったみたい」


 その一言で、ローゼンは完全に目を覚ましたらしい。少し前まで眠っていたとは思えない勢いで身体を起こすと、侍医と出産を担当する者たち、それからミレイユも呼ばなければと一度に動き始める。寝間着の上へ羽織った服もまともに整っておらず、どう見ても産む本人より落ち着いていなかった。


「ちょっと、落ち着きなさいよ。あなたが産むわけじゃないんだから」


 アリシアが呆れたように言った直後、また腹部へ痛みが走った。今度は先ほどより少し強く、眉を寄せながら反射的にお腹へ手を当てる。ローゼンはすぐに寝台のそばへ戻り、何かできることはないかとでも言いたげに顔を覗き込んだ。アリシアはゆっくり息を吐きながら波が引くのを待ち、しばらくしてようやく肩の力を抜いた。


「……まだ大丈夫よ」


 そう答えたものの、さっきまでの軽い調子は少し薄れていた。


 ほどなくしてミレイユや侍医、出産を担当する者たちが集まり、静まり返っていた王宮の一角だけが急に慌ただしくなった。必要なものが次々と運び込まれ、部屋の灯りも増やされていく。アリシアは寝台の上で身体を起こし、ミレイユに髪をまとめてもらいながら、その様子を眺めていた。まだ陣痛の間隔には余裕があり、痛みが引いている間なら普通に話すこともできる。そのため、何度も周囲へ何かできることはないかと尋ねているローゼンの方がよほど大変そうに見えた。


「そんなにうろうろしないで。見てるこっちが落ち着かないわ」


 そう言われてようやくローゼンも寝台のそばへ腰を落ち着けたが、少し物音がするたびに視線を向けているので、完全に落ち着いたとは言い難い。アリシアはそんな様子に苦笑していたものの、時間が経つにつれて自分の方にも余裕がなくなっていった。


 陣痛は少しずつ強くなっていった。最初のうちは痛みの合間に話すこともできたが、波が来るたび身体へ力が入り、呼吸を乱さないよう意識してゆっくり息を吐かなければならなくなる。額には薄く汗が滲み、ミレイユがそのたびに布で拭ってくれた。痛みが引けば少しだけ身体から力を抜けるものの、次が来るまでの時間は確実に短くなっている。


 一度、特に強い痛みが押し寄せた時には、アリシアは寝台の上で僅かに身体を丸めるようにし、すぐそばにあったローゼンの手を強く掴んだ。目を閉じたまま声も出せず、浅い呼吸を何度も繰り返す。ローゼンが思わず名前を呼んだものの、すぐには返事ができなかった。


 やがて波が引き始め、ようやく指先から少しずつ力が抜けていく。アリシアはゆっくり目を開き、何度か呼吸を整えた。


「……大丈夫」


 声には、もうはっきりと疲れが滲んでいた。ローゼンは何も言えないまま、ひどく不安そうな顔でアリシアを見ている。


「そんな顔しないでよ……」


 苦しさの中でもそう言うと、ローゼンはただ彼女の手を握り直した。代わってやることもできず、そばにいることしかできない。それでも痛みが来るたび周囲へ視線を向けるものだから、とうとうミレイユから静かに「陛下はそこにいてください」と言われ、ようやく余計に動き回るのをやめた。


 夜が明け、窓から朝の光が差し始める頃には、アリシアの苦しさもかなり強くなっていた。陣痛の間隔は短くなり、休める時間も少しずつ減っていく。姿勢を変えるだけでも辛そうになり、ミレイユに背中を支えてもらいながら何度も呼吸を整えた。痛みが来ればローゼンの袖や手を掴み、引けば力を抜いて目を閉じる。その繰り返しで、体力は少しずつ削られていった。


 その頃、騒ぎを聞きつけたエドガーも目を覚ました。まだ寝間着のまま廊下へ出てきて、慌ただしく動く侍女たちを見ながら不安そうに母親の部屋を見つめている。一度部屋を出たローゼンがその姿に気づき、そばまで歩いていった。


「赤ちゃんが生まれようとしている」


 そう伝えると、エドガーは一瞬だけ目を大きくした。ずっと待ち続けていた日が本当に来たことへの驚きと嬉しさが浮かんだものの、すぐに閉じられた扉へ視線を戻す。中からは人の動く気配が聞こえ、時折アリシアの苦しそうな声も微かに届いていた。


「ママ、痛いの?」

「皆がそばについている。それに君のママは強いから大丈夫だ」


 ローゼンは安易に大丈夫だと言い切らず、エドガーの肩へ手を置いた。エドガーもそれ以上は何度も問いかけず、ただ不安そうな顔で扉を見つめたまま、小さく頷いた。


 ローゼンが再び部屋へ戻った時、アリシアは先ほどより明らかに疲れていた。汗で髪が頬に張りつき、呼吸も荒くなっている。ローゼンが寝台のそばへ来ると、アリシアは何も言わず、手を探すように指を伸ばした。ローゼンはすぐにその手を取る。


 間もなく、また強い痛みが来た。


「……っ、う……」


 今度はアリシアも声を抑えきれず、苦しそうに息を漏らした。握る力も強くなり、爪が食い込むほどだったが、ローゼンは何も言わない。ただ痛みが引くまで、そのまま手を握らせていた。


 やがて波が引き、アリシアは目を閉じたまましばらく動かなかった。不安になったローゼンが名前を呼ぶと、ようやく薄く目を開ける。


「……ねぇ、いる?」

「大丈夫だ。アリシア。ここにいるから心配しないで欲しい」


 それだけ確認すると、アリシアは少しだけ安心したように再び目を閉じた。苦しさの中で、ただローゼンがまだそこにいることを確かめたかった。


 やがて出産が本格的な段階に入り、周囲からローゼンは部屋の外へ出るよう求められた。それでもすぐには動けず、アリシアも苦しそうに呼吸をしながら、まだ彼の手を掴んでいる。しばらくして、アリシアの方からゆっくりと指を緩めた。


「……大丈夫だから、行って」


 声にはほとんど力が残っていなかった。それでもローゼンを送り出そうとするアリシアの手を、一度だけ強く握り返してから離し、ローゼンは名残惜しそうに部屋を出た。


 扉の外ではエドガーが待っていた。ローゼンはその隣へ座り、父子二人で閉ざされた扉を見つめる。部屋の中からは人の声や、時折アリシアの苦しそうな声が聞こえてきたが、エドガーはそのたびに唇をきゅっと結んだまま耐えていた。やがて自分からローゼンの手を握り、ローゼンもその小さな手を握り返す。弟なのか妹なのかは、まだ誰にも分からない。それでも今はそんなことより、母親と赤ん坊が無事でいてくれることだけを願いながら、二人とも黙って扉を見つめ続けていた。


 一方、部屋の中ではアリシアが限界に近づいていた。痛みの間隔はさらに短くなり、休める時間もほとんどない。額や首筋には汗が滲み、息を整えようとしても、すぐに次の波が押し寄せる。ミレイユがそばについて何度も声をかける中、アリシアは顔を歪めながら、それでも必死に呼吸を続けていた。


 何度目かの強い痛みのあと、とうとう弱い声が漏れた。


「……もう、無理……」


 普段のアリシアなら簡単には口にしない言葉だった。ミレイユはすぐそばへ寄り、その手を取る。周囲からも、もう少しだと声をかけられ、アリシアは目を閉じたまま何度か大きく息をして僅かに頷いた。


 けれど、次の痛みは待ってくれない。アリシアはまた身体を強張らせ、苦しそうに息を吐きながら最後の力を振り絞った。もう一度、さらにもう一度と耐え続け、どれだけ時間が経ったのか分からなくなるほど長く感じられた末、それまでとはまったく違う声が部屋の中に響いた。


 赤ん坊の泣き声だった。


 高く、小さく、それでもはっきりと廊下まで届く。


 エドガーがぱっと顔を上げた。さっきまで不安で強張っていた顔が一瞬で変わり、閉ざされた扉を食い入るように見つめる。ローゼンもすぐには何も言えなかったが、長く張り詰めていたものが一気に緩んだように深く息を吐いた。


 ほどなくして扉が開き、母子ともに無事であること、そして生まれた子が女の子であることが告げられた。


 その瞬間、エドガーの表情が一気に明るくなった。


「女の子……!じゃあ、ぼくの妹なの!?」


 ローゼンが小さく頷くと、エドガーは嬉しさを隠しきれなくなったらしく、今にもその場で跳ねそうなほど身体を弾ませた。


「妹ができた……!」


 何度も聞き返すのではなく、その事実そのものが嬉しくて仕方がないらしい。口元はずっと緩み、早く会いたい気持ちが全身から溢れている。


 ローゼンも娘が生まれたことへの喜びはあったが、それより先に尋ねた。


「アリシアは?アリシアは大丈夫なのか!?」


 母子ともに無事だと改めて告げられて、そこでようやく肩から完全に力が抜けた。


 少し時間を置いてから、二人は部屋へ入ることを許された。出産を終えたアリシアは寝台へ横になっており、髪は乱れ、顔にははっきりと疲労が残っている。それでも二人の姿に気づくと、僅かに口元を緩めた。


 ローゼンは赤ん坊より先に、まっすぐアリシアのそばへ向かった。


「アリシア!大丈夫か!?」

「……ちょっとだけ疲れたわ」


 声は弱かったが、返ってきた言葉にはいつものアリシアらしさが残っていた。それを聞いて、ローゼンもようやくほんの少し笑う。アリシアの手を取り、無事だったことを確かめるように静かに握った。


 そのすぐ隣には、柔らかな布に包まれた小さな赤ん坊が眠っていた。


 エドガーは部屋へ入った時からずっと、その姿ばかり見ていた。早く会いたくて仕方がなかったはずなのに、いざ目の前にすると想像していたよりずっと小さい。小さな顔も、鼻も、手も何もかもが不思議らしく、嬉しそうな表情のまま少し離れたところで足を止めていた。


「エドガー。こっちへいらっしゃい」


 アリシアに呼ばれて、ようやくゆっくり寝台へ近づく。赤ん坊の顔を覗き込み、しばらく黙ったまま見つめていたが、その口元はずっと緩んだままだった。


「……ほんとに妹なんだ」

「そうよ。あなたの妹。エドガー、あなたお兄ちゃんになったわよ」


 その言葉を聞いた途端、エドガーの顔がさらに明るくなった。


「ぼく、お兄ちゃんなんだ……!」


 嬉しくて仕方がないらしく、小さく笑いながらもう一度妹の顔を覗き込む。生まれる前から何度も兄になったあとのことを考えていたが、こうして本人を目の前にすると、その実感はまったく違うらしい。


「触っていい?」

「そっとならね」


 アリシアに許され、エドガーは恐る恐る指を一本だけ差し出した。


 すると、眠っていた赤ん坊の小さな手が僅かに動き、その指を握った。


 エドガーは驚いて目を大きくした。


「……つかんだ!」


 次の瞬間には、満面の笑みになっていた。


「パパ、見て!妹がぼくの指つかんでる!」


 今度の声には不安など少しもなく、ただ嬉しさを誰かへ伝えたくて仕方がない気持ちだけが溢れていた。ローゼンもその姿を見て目を細める。


 エドガーはまた妹へ視線を戻し、握られた指を動かさないようにしながら小さな声で話しかけた。


「ぼくがお兄ちゃんだよ。いっぱい遊んであげるからね」


 まだ言葉の意味など分かるはずもない。それでもエドガーは本気だった。生まれる前から考えていたことをようやく本人へ伝えられたのが嬉しいらしく、その後も妹のそばからほとんど離れようとしなかった。


 やがて赤ん坊は再び深く眠り、小さな手から力が抜けてエドガーの指が解放された。エドガーは少し名残惜しそうにしたものの、起こしてはいけないと思ったらしく素直に手を引いた。それでも離れる気はなく、今度は寝台の横から飽きもせず妹の顔を眺めている。


 次に娘のそばへ近づいたローゼンは、抱いてみるかと勧められると珍しく一瞬躊躇した。あまりにも小さく、自分の腕に抱けば壊してしまいそうに見えたらしい。


「そんなに怖がらなくても大丈夫よ」


 アリシアに促され、ようやく慎重に抱き上げる。しかし娘が腕の中へ収まった途端、普段なら何が起きてもほとんど動じない男の身体が目に見えて固まった。肩にも腕にも必要以上に力が入り、赤ん坊が少し顔を動かすだけで表情まで緊張する。


 それを見ていたエドガーが楽しそうに笑った。


「パパ、固まってる」

「本当ね。大丈夫だってば」


 アリシアも疲れたまま小さく笑った。ローゼンは何も言い返せず、娘が眠ったままでいることを確かめるように慎重な手つきで抱き続けていた。


 しばらくして娘をアリシアのそばへ戻すと、寝台にはアリシアと生まれたばかりの娘、そのすぐ横には妹を眺め続けるエドガー、そして寝台の脇にはローゼンがいる。四人が初めて同じ場所に揃った。


 ローゼンはその光景をしばらく黙って眺めていた。やがて何でもないような顔をして立ち上がると、窓辺へ歩いていき、そこに置かれたものでも確認するように皆へ背を向けた。


 母子ともに無事だったこと。アリシアがこうして目の前にいること。エドガーが妹のそばで嬉しそうに笑っていること。そして、自分も今、その四人の中にいること。それまで張り詰め続けていたものが一気に緩み、ローゼンはほんの少し俯いた。


 誰にも見られないよう、目元を拭う。


 声を上げることもなく、すぐにいつもの顔へ戻そうとする。本人は完全に隠せているつもりだった。


 ただ、寝台にいるアリシアだけは、ローゼンが急に窓辺へ行った理由に何となく気づいていた。それでも何も言わず、からかいもしない。あえて見ていないふりをしながら、生まれたばかりの娘の頬へ視線を落とした。


 少ししてローゼンが何事もなかったように戻ってくると、エドガーはまったく気づかないまま嬉しそうに手招きした。


「パパ、妹見て」


 呼ばれるまま再び寝台のそばへ座る。


 昼近くになる頃には、窓から柔らかな光が差し込んでいた。娘は静かに眠り、エドガーは飽きもせずその小さな顔を見つめている。時折、思い出したように「妹なんだ」と嬉しそうに呟き、そのたびにまた頬を緩ませていた。ローゼンはアリシアのそばへ座ったまま、その手を握っている。


 アリシアはもうほとんど目を開けていられないほど疲れていた。それでも眠る前にもう一度だけ、生まれたばかりの娘と、そのそばで嬉しそうにしているエドガー、それから自分の手を握っているローゼンを眺める。


 やがて眠気に負け、ゆっくりと目を閉じた。眠りに落ちる直前まで、娘の小さな寝息と、エドガーが妹へ「ぼくがお兄ちゃんだからね」と囁く声、それから隣にあるローゼンの手の温かさが残っていた。


 そしてこの日、ローゼンは誰にも気づかれないようにしたつもりで、部屋の端でこっそりと涙を拭ったのだった。

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