85. 今度は一人じゃないから
妊娠後期に入った頃には、アリシアのお腹もかなり大きくなっていた。歩く速度は以前より自然とゆっくりになり、長く立っているだけでも疲れやすい。
それでも、今回の妊娠でアリシアが強いストレスを抱えることはあまりなかった。もちろん、全くなかったと言えば嘘になる。身体が思うように動かないこともあれば、出産が近づくにつれて不安を感じることもある。ただ、少なくとも四年前と比べれば、ずっと穏やかに過ごせていた。それは何より、最愛の夫と息子がすぐそばにいたからだった。
本人はできる範囲で普段通りに過ごそうとしていたものの、周囲はそう簡単には許してくれなかった。ローゼンもミレイユも以前より細かくアリシアの様子を見るようになり、最近ではエドガーまで母親が少し長く立っているだけで心配する。その日の昼下がりも、王妃としての仕事を終えて自室へ戻ったアリシアが、机に残っていた書類へ手を伸ばそうとしたところで、すぐにミレイユから止められた。
「今日はもうお休みください。陛下からも、そう申しつけられておりますので」
「私の仕事なのに、どうしてローゼンが勝手に決めるのよ」
口ではそう言いながらも、長く座って仕事をしていたせいで身体が重いのは自分でも分かっている。結局それ以上は抵抗せず、ミレイユに促されるまま窓辺の椅子へ腰を下ろした。背もたれへ身体を預けると、思っていた以上に楽になり、アリシアは小さく息を吐く。
ほどなくして、今度はエドガーが部屋へやってきた。最近は時間があればすぐに母親のところへ顔を出し、大きくなったお腹を眺めている。今日もアリシアの隣まで来ると、そのまま膝へ寄りかかるようにして座り、お腹へ視線を向けた。
「ママ、赤ちゃんいつ生まれるの?」
「昨日も聞いたでしょう」
「でも、明日かもしれないよ」
「明日かもしれないし、もっと先かもしれないわ。赤ちゃんに聞かないと分からないもの」
何度同じことを聞いても飽きないらしい。エドガーは少し考えるようにお腹を見つめたあと、赤ちゃんが生まれたら何をしてあげるかをまた話し始めた。以前は一緒に遊ぶことばかり考えていたが、最近では絵本を読んであげる、泣いていたら教えてあげる、歩けるようになったら庭を案内すると、少しずつ兄らしい内容が増えている。
「でも、赤ちゃんが生まれてすぐは一人で歩けないわよ」
「知ってるよ。だから大きくなるまで待つの」
当然のように答える姿がおかしく、アリシアは小さく笑った。
そこへローゼンまで顔を出した。公務の途中らしく手には書類を持っていたが、部屋へ入って真っ先に見たのはアリシアだった。椅子へ座っていることを確認し、机の上に残っている書類にも手をつけていないと分かると、それだけで少し安心したような顔をする。
「……確認しに来ただけ?」
「近くを通ったからな」
「嘘。絶対わざわざ来たでしょう」
ローゼンは否定しなかった。アリシアは呆れたように息を吐いたものの、本気で追い返すこともなく、そのまま公務へ戻っていく背中を見送った。そんな二人のやり取りを見ていたエドガーまで、「ママ、ちゃんと休んでね」と念を押してくる。
「あなたまでパパみたいになってきたわね」
「だって赤ちゃんもいるから」
そう言われてしまえば、アリシアも何も返せなかった。
夕方になる頃、エドガーは一度自分の部屋へ戻ったあと、以前赤ん坊のために選んだ小さな布製のおもちゃを持って戻ってきた。何度も見せてもらっているものだったが、今日は寝台の近くへ置いておきたいらしい。
「ちゃんとここに置いておくよ!赤ちゃんが生まれたら、すぐ渡せるし!」
「まだ少し早いんじゃない?」
「なくなったら困るもん」
本人は至って真剣だった。寝台のそばに置いたあとも向きを何度か直し、きちんと見える場所へ収まったことを確認してようやく満足そうに頷く。まだ生まれてもいない妹か弟のために、すでに兄としてできることを探している姿を見ていると、アリシアの口元も自然と緩んだ。
やがて夜になり、エドガーは自分の部屋へ戻り、ミレイユも一日の仕事を終えて退出した。昼間は人の出入りが続いていた部屋にも静けさが戻り、窓の外には月明かりの落ちる庭が広がっている。アリシアは寝台の端へ腰掛け、重くなった身体を休ませていた。少ししてやってきたローゼンも近くの椅子へ座ったが、特に何かを話そうとはしない。二人で同じ部屋にいて、それぞれ静かに過ごすことも、今ではすっかり当たり前になっていた。
そんな中、不意にお腹の中で赤ん坊が大きく動いた。
「……っ」
思わず小さく息を漏らすと、ローゼンがすぐに顔を上げた。アリシアは何も言わずにその手を取ると、自分のお腹へそっと置く。少し待つと、掌の下でもう一度はっきりと赤ん坊が動いた。
ローゼンは僅かに目を細め、そのまま静かに触れていた。初めて胎動を感じた時のように驚いて固まることはもうない。それでも、動くたびに表情が少し柔らかくなり、そこにいる子どもの存在を確かめるように手を置き続けている。
アリシアはそんな横顔を眺めた。
少し離れた場所にはエドガーの部屋があり、朝になればまた赤ちゃんはまだかと聞きに来るのだろう。昼間はミレイユがそばにいて、少し疲れただけですぐ椅子へ座らされる。ローゼンも公務の合間に何度も様子を見に来るし、王宮の者たちも出産の日を今か今かと待っている。
アリシアはふっと口元を緩めた。
「……今回は、本当に一人になる暇がないわね」
ローゼンはその言葉を聞いても、何を意味しているのか細かく尋ねたりはしなかった。ただ、アリシアへ向ける表情が僅かに和らぐ。
アリシアもそれ以上は何も言わず、隣へ少し身体を寄せてローゼンの肩へ頭を預けた。大きくなったお腹を抱えていると、楽な姿勢を探すだけでも少し時間がかかる。それでもこうして身体を預けてしまえば、思っていたより心地よかった。ローゼンも動かずにそのまま受け止めている。
しばらくすると、昼間の疲れが出てきたのか、アリシアの瞼が少しずつ重くなってきた。ローゼンにそろそろ横になるよう促されても、今日は文句を重ねず、素直に寝台へ身体を横たえる。
「……本当に過保護ね」
小さく笑うと、ローゼンは掛布を整えた。その手つきもすっかり慣れたもので、アリシアは半分眠りかけた目で眺めていた。
やがてローゼンが立ち上がろうとする。
その瞬間、アリシアの手が無意識に袖を掴んだ。
ローゼンが動きを止めたことで、アリシアも自分が何をしたのか気づく。少しだけ気まずそうに目を逸らしたものの、指は袖を掴んだまま離れなかった。
それを確かめると、アリシアの表情から僅かに力が抜けた。そのまま目を閉じ、ほどなくして呼吸がゆっくりと穏やかなものへ変わっていく。
窓の外では夜が深まり、王宮全体も少しずつ静まり返っていた。
眠りに落ちたアリシアの手は、最後までローゼンの袖を掴んだままだった。




