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一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?  作者: 入多麗夜


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9. 偶然の不備

 馬車の扉が閉まると、外の喧騒は嘘のように遠ざかった。先ほどまで家の周囲に集まっていた村人たちの声も、騎士たちが慌ただしく動き回る音も、分厚い扉一枚を隔てただけですっかり小さくなっている。


 車内は王族が使うものだけあって思っていたよりも広く、座席には柔らかな布が張られ、窓には冷気を防ぐための厚いカーテンまで取り付けられていた。だが、向かい合って座る二人の距離が近いことに変わりはない。馬車がゆっくりと動き始めると、車輪が凍りかけた道を転がる音と、一定の間隔で響く馬蹄の音だけが、気まずいほど静かな車内へ伝わってきた。


 アリシアはすぐに窓の外へ目を向けた。後方にはもう一台の馬車が続いており、その周囲を数人の近衛騎士が固めている。エドガーはそちらへ乗せられたらしく、窓際に小さな影が見えたような気がした。先ほどの若い騎士も一緒にいるのだろう。護衛という意味では、自分と同じ馬車へ乗せるより安全なのかもしれない。そう頭では分かっていても、本人へ何の相談もなく息子と引き離されたことまで納得できるはずがなかった。


「これは誘拐よ!分かっているのでしょうね!?」


 我慢できずに勢いよく立ち上がると、馬車がちょうど小さな窪みを踏んだ。身体がぐらりと傾き、危うく座席へ倒れ込みそうになったアリシアの腕を、ローゼンが咄嗟に掴む。そのまま支えられたことが余計に腹立たしく、アリシアはすぐに手を振り払った。


「勝手に家へ押しかけてきて、嫌がる人間を抱え上げて、そのまま馬車へ押し込むなんて!しかもエドまで別の馬車へ乗せて……あの子に何かあったら、私絶対に許さないから!」

「エドガーには近衛騎士をつけている。君と一緒に乗せるより、護衛の配置を分けた方が安全だと判断しただけだ。怖がらせるつもりはなかった」

「そういうことを言っているんじゃないわ。何をするにも勝手なのよ、貴方は!私が王宮へ行くと一言でも言った?エドガーを連れて行ってもいいと言った?何一つ聞かずに全部決めて、あとから理由を言えば納得すると思っているの?」


 狭い車内で詰め寄れば、自然と互いの距離は近くなる。アリシアは膝が触れそうな位置まで身を乗り出し、ローゼンを睨みつけた。けれど、ローゼンは視線を逸らさなかった。怒鳴り返すことも、無理に言い聞かせることもせず、ただアリシアの怒りを受け止めるように静かに座っている。その落ち着いた態度が、今のアリシアにはかえって癇に障った。


「大体ね、もう何度も言ってるけど、貴方は私と離縁したから他人よ!今さら夫みたいな顔をして、私たちの暮らしに口を出さないで!」


 その言葉を聞いた途端、ローゼンの表情が僅かに変わり、小さく首を横へ振る。


「確かに、公にはそうなっている。王太子とレインフォート公爵令嬢の婚姻は解消され、君は王宮を去った。それは国中に知られていることだ」

「だったら――」

「だが、正式な離縁の手続きは成立していない」


 思いがけない言葉に、アリシアは眉をひそめた。聞き間違えたのかと思ったが、ローゼンは冗談を言っている様子ではない。むしろ、これまで以上に真剣な表情でアリシアを見つめていた。


「な、何を言っているのよ……!」

「あの時、君は離縁の書類に署名しなかっただろう」


 確かにアリシアは何も署名をせずに出ていっていた。


「それが何よ。王太子だった貴方なら、私の署名くらいどうとでもできたでしょう。離縁したと公表までしたのだから、手続きだって終わっていると思うのが普通じゃない」

「そんなことができるわけないだろう」


 ローゼンは即座に否定した。その声には、これまでの静けさとは違う強い響きがあった。


「離縁には双方の署名が必要だ。君の字でなければ意味がない。誰かに書かせることも、王家の権限で勝手に成立させることも許されない」


 アリシアは何も言えず、ゆっくりと座席へ腰を下ろした。離縁はとっくに成立したものだと思っていた。王宮を出た時点で、自分とローゼンの関係は完全に終わったのだと信じて疑わなかった。それなのに、たった一枚の書類に名前を書かなかったせいで、四年経った今も関係が続いていると言われても、すぐに理解できるはずがない。


「じ、じゃあ……私は今も、貴方の……」


 最後まで言葉にすることができず、アリシアは口を閉ざした。ローゼンはその先を引き取るように、静かに告げる。


「書類上は、君は今でも俺の妻だ」


 心臓だけが信じられないほど激しく鳴っている。アリシアはローゼンの顔を見つめたまま固まり、何度か瞬きを繰り返した。やがて動揺を悟られまいと、勢いよく腕を組んで窓の外へ顔を背ける。


「ふん!それなら王宮へ連れて行って、今度こそ離縁の書類へ署名させようというわけね。ええ分かったわ!今度こそ王宮で署名してやりますとも!」


 できる限り冷たく言ったつもりだった。しかし、自分でも分かるほど声が上ずっていた。


「違う。君に離縁の署名をさせるつもりはない」


 予想していた返事とは正反対の言葉が返ってきて、アリシアは思わず振り返った。ローゼンは膝の上で手を組み、逃げることなく真っ直ぐアリシアを見つめている。


「もう一度やり直すために来たんだ」


 その一言に、アリシアは再びローゼンを睨みつけた。


「やり直すって……何の冗談よ。あれだけ愛しといて子ども作らせておいて、捨てたの忘れる訳ないからね!」


 腕を組み、ぷいっと窓の外へ顔を向ける。その態度は精一杯の拒絶だったが、耳たぶだけは隠しようもなく真っ赤に染まっていた。


 ローゼンはその横顔を見つめ、苦く笑う。


「信用できないのも当然だ。俺が自分でまいた種だからな」


 ローゼンは言い訳をするつもりはなかった。


 アリシアが自分を恨む理由も、信じられないと言う理由も、すべて自身の選択が招いたものだと分かっている。だからこそ、責められても受け止めるしかない。


 馬車は一定の揺れを刻みながら街道を進み続ける。車輪の音だけが静かに響く中、ローゼンはゆっくりと口を開いた。


「でも、これだけは信じてほしい」


 アリシアは返事をしない。

 それでもローゼンは言葉を続けた。


「あの朝、君を置いていかざるを得なかったことも、一人で辺境へ行かせてしまったことも、毎日後悔しなかった日は一日もない」

「な、何を言っているのよ……そんなの……!」


 ローゼンは静かに頷いた。


「ああ、分かっている。何を言っても、今のままじゃ言い訳にしか聞こえないだろう」


 その言葉には諦めも開き直りもなかった。


「だから、まずは王宮に来てほしい。何を言っても言い訳にしかならないのは分かってる。それでも……俺の気持ちだけは、君に分かってほしい」


 窓の外へ視線を向けたまま、ぎゅっと唇を結ぶ。ローゼンの言葉は胸の奥へチクリと刺さる。


 そんなことを言われるとは思ってもみなかった。四年前、何も説明せず自分を置いていった人だ。彼は自分の気持ちなど少しも考えてくれなかったのだと、そう思い込んで今日まで生きてきた。だからこそ、今さらそんな願いを口にされても、素直に頷けるはずがない。


「……そんな顔しないでよ」


 ぽつりと漏れた言葉に、ローゼンが僅かに目を見開く。


「そんなに後悔してるみたいな顔をされたら……私が悪いみたいじゃない。悪いのは貴方でしょう……?」

「ああ。全部、俺が悪い」


 その一言に、アリシアは返す言葉を失う。


 馬車は一定の揺れを刻みながら街道を進んでいく。窓の外では見慣れた村の景色が少しずつ遠ざかり、代わりに王都へ続く街道が真っ直ぐ伸びていた。アリシアは膝の上で握り締めた手へ視線を落とす。信じてはいけない。簡単に心を許してはいけない。そう何度も自分へ言い聞かせる。


「……ずるい。ずるいわよ。今さら、そんなこと言うなんて」


 怒っているようにも、泣き出しそうにも聞こえる声だった。


 互いに聞きたいことは山ほどある。そしてどれも今すぐ口にできるほど簡単なものではなかった。

 二人を乗せた馬車は、わずかな揺れを繰り返しながら、王都への道を進み続けていたのだった。

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