83. お兄ちゃんになる日
ここ数日、アリシアはどうにも身体の調子が悪いと感じていた。朝から妙に身体が重かったり、食事の匂いで気分が悪くなったり、普段なら平気な時間帯でも強い眠気に襲われたりする。それでも本人は、王妃としての仕事が続いたせいで疲れが溜まっているのだろうと考えていた。少し休めば治ると思っていたし、わざわざ周囲を騒がせるほどのことでもない。その朝もいつも通り支度を整えたものの、寝台から起き上がった時から身体が重く、鏡に映った顔も自分で分かるくらい少し青白かった。
当然、そばにいたミレイユにもすぐ気づかれた。
「アリシア様、今日はお顔の色がよくありません。少しお休みになった方が……」
「少し寝不足なだけよ。今日の予定が終わったら休むわ」
軽く流してしまったが、朝食の席へ行けばローゼンにも気づかれた。普段なら普通に口へ運ぶ料理へほとんど手をつけず、温かな料理の匂いが漂っただけで僅かに顔を背けたからだ。ローゼンはしばらくアリシアの様子を見ていたが、今日は予定を減らした方がいいとだけ告げた。それでもアリシアは朝から決まっているものだけ済ませるつもりだと答え、結局そのまま公務へ向かった。
午前中のうちは、何とか普段通りに振る舞うことができた。人と話している間は意識もはっきりしていたし、書類へ目を通す程度なら問題はない。ただ、時間が経つにつれて身体のだるさは強くなり、立っているだけでも少し息苦しく感じるようになった。時折視界がぼやけ、そのたびに一度目を閉じてやり過ごす。さすがに休んだ方がいいかもしれないとは思ったものの、もう少しで午前中の予定も終わる。あと少しだけなら大丈夫だと考え、そのまま最後まで済ませてしまった。
昼前、アリシアはミレイユと共に自室へ戻るため廊下を歩いていた。高い窓から差し込む光が磨かれた石床へ伸び、遠くでは近衛の騎士たちが持ち場を交代している。部屋へ着いたら今度こそ横になろうと思いながら歩いていたところで、突然足元の感覚が薄くなった。
「あれ……?」
立ち止まろうとした瞬間、視界が大きく揺れた。床が傾いたように見え、身体から一気に力が抜ける。ミレイユが声を上げたのとほとんど同時に、倒れかけた身体を誰かの腕が受け止めた。
「アリシア!」
聞き慣れた声がすぐ近くで響いた。ちょうど向こうから歩いてきていたローゼンが異変に気づき、駆け寄ってきたらしい。アリシアは完全に意識を失ったわけではなかったが、頭の奥がぼんやりして、身体へうまく力が入らない。
ローゼンの表情からは、普段の落ち着きが完全に消えていた。
「侍医を。すぐに呼べ!!」
それだけ指示すると、アリシアが何か言うより先にその身体を抱き上げた。自分で歩けると言おうとしたものの、さっきまで立っていることすらできなかった以上、さすがに説得力がない。結局アリシアはそのまま目を閉じ、ローゼンに運ばれるに任せた。
騒ぎはすぐに伝わったらしく、エドガーも母親が倒れたと知って部屋の近くまで来ていた。しかし診察が終わるまでは中へ入れるわけにもいかず、ミレイユがそばについて安心させることになった。
アリシアが次にしっかりと目を開けた時には、自分の寝台の上にいた。すぐそばにはローゼンが座っており、目が合った瞬間、険しかった表情が僅かに緩む。それでもまだ顔色はよくなく、どれほど心配していたのかは聞かなくても分かった。
「……そんな顔しないでよ。もう平気だから」
アリシアがそう言うと、ローゼンは何か言い返す代わりに、黙ってその手を握った。そのまま侍医へ視線を向ける。診察を終えた侍医は二人の前まで進むと、まず重大な病ではないことを伝えた。
その一言で、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
「ただ、今回の体調不良については、ひとつ考えられる理由がございます」
その言葉を聞いたところで、アリシアの胸の奥に何かが引っかかった。ここ数日の眠気、食事の匂いで気分が悪くなったこと、身体の重さ、食欲の変化。どれも別々の不調だと思っていたが、今になって一つずつ繋がっていく。
四年前にも、似たような感覚があった。
アリシアはゆっくりと自分のお腹へ手を置いた。
「……まさか」
侍医は静かに頷いた。
「ご懐妊と見て間違いないかと存じます」
一瞬、部屋の中が静まり返った。
アリシア自身もすぐには何も言えなかった。可能性には気づいたものの、本当にそうだと告げられると、胸の奥へ落ちてくるまでに少し時間がかかる。
それ以上に、隣にいたローゼンは完全に固まっていた。
ついさっきまで重い病気ではないかと青ざめていたのだから、安心と驚きと嬉しさが一度に押し寄せたのだろう。何度か瞬きをし、それでもすぐには言葉が出てこない。その様子を見ているうちに、アリシアの方が先に笑ってしまった。
「ローゼン?」
名前を呼ばれて、ようやく我に返ったらしい。次の瞬間、勢いのままアリシアを抱きしめる。
「く、苦しいわ……!」
「……っ!、すまない」
慌てて腕の力が緩んだ。
アリシアは呆れたように笑いながらも、離れようとはしなかった。ローゼンも今度は慎重に肩へ腕を回し、そのまましばらく何も言わずにいた。アリシアも自分のお腹へ目を落とす。まだ外から見て分かるような変化は何もない。それでも、そこに新しい命がいるのだと思うと、胸の奥へゆっくりと温かなものが広がっていった。
診察が一段落すると、外で待っていたエドガーもようやく部屋へ入ることを許された。扉が開くなり駆け込んできたものの、寝台にいるアリシアを見た途端に足を止める。その顔にはまだ不安が残っていた。
「ママ……大丈夫?」
「大丈夫よ。病気じゃなかったから」
そう言うと、エドガーの表情が目に見えて緩んだ。すぐに寝台のそばまで来て、アリシアの顔を確かめるように見上げる。
アリシアはそんな息子の頭を撫でながら、少しだけ笑った。
「それでね。どうやら、ママのお腹に赤ちゃんがいるみたいなの」
エドガーは一度瞬きをした。すぐには意味が分からなかったらしく、少しだけ考えてから、何かに気づいたように目を大きくする。
「ぼく、おにいちゃんになるの?」
「そうよ」
アリシアが頷いた瞬間、エドガーの顔がぱっと明るくなった。
「ほんと!?」
さっきまで母親が倒れたことで不安そうにしていたのが嘘のように、声まで一気に弾む。その場で跳ねそうになりながら寝台のそばまで寄ると、嬉しさを抑えきれないままアリシアへ抱きついた。
「やった!ぼく、おにいちゃんになるんだ!」
「ちょっと、エドガー。そんなに勢いよく来たら危ないでしょう」
注意されると慌てて身体を離したものの、嬉しさは少しも収まっていなかった。今度はアリシアのお腹へ目を向け、まだ何の膨らみもないそこへ恐る恐る手を伸ばす。
「ここにいるの?」
「そうみたい。でも、まだすごく小さいから、触っても分からないわよ」
それでもエドガーは不思議そうに手を当てたまま、じっとお腹を見つめていた。少しすると、今度は次から次へと気になることが浮かんできたらしい。
「男の子かな。女の子かな」
「まだ分からないわよ」
「どっちでもいい!ぼく、いっぱい遊んであげる!」
ほとんど間を置かずにそう言うと、さらにおもちゃも貸してあげる、王宮の中も案内してあげると、早くも赤ん坊が生まれた後のことまで楽しそうに話し始めた。アリシアはその勢いに思わず笑い、ローゼンも隣でようやく表情を和らげる。
「まだ生まれるのはずっと先よ」
「でも、ぼく今日からおにいちゃんでしょ?」
その言葉に、アリシアは少しだけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「そうね。今日からお兄ちゃんね」
それだけでエドガーはまた嬉しそうに笑った。アリシアのお腹へ当てていた手をそっと撫でるように動かし、まるで今すぐ声が届くと思っているように顔を近づける。
「赤ちゃん、早く大きくなってね。ぼく、待ってるから」
まだ何も聞こえるはずはない。それでもエドガーは本気で話しかけているらしく、その表情は誇らしさと嬉しさでいっぱいだった。アリシアはそんな小さな頭へ手を伸ばして髪を撫で、ローゼンへ視線を向ける。ローゼンも同じようにこちらを見ていて、目が合うと僅かに笑った。
ほんの少し前まで、アリシアが倒れたことで部屋の中には不安しかなかった。それが今では、エドガーが寝台のそばから離れようともせず、まだ膨らんでもいない母親のお腹を何度も見ながら、自分が兄になる日を今から待ちきれないように笑っている。
アリシアはその姿を見ながら、静かに目を細めた。




