82. それぞれの恋の行く末
ローゼンとアリシアが再び夫婦となってから、王宮にはようやく穏やかな日々が戻り始めていた。朝になれば侍女たちがいつも通り廊下を行き交い、近衛の騎士たちは決められた持ち場へ向かい、窓を開ければ庭から柔らかな風が入り込んでくる。少し前までは何かが起こるたびに誰もが身構え、廊下を走る足音一つにも緊張が走っていたというのに、今ではそれもすっかり遠いことのように感じられた。
アリシアも王妃として任される仕事に少しずつ慣れ始め、ローゼンやエドガーと過ごす時間を変わらず大切にしながら、自分なりの生活を作り始めている。そんな平穏の中で、これまで二人のそばにいた者たちの時間も、静かに動き始めていた。
ある日の午後、ミレイユはアリシアから頼まれていた用事を終え、王宮の回廊を歩いていた。高い窓から差し込んだ午後の光が石床へ斜めに伸び、開かれた窓の向こうでは庭の木々が風に揺れている。急ぐ必要もなく、いつもの歩調で進んでいると、向こうから第二近衛騎士団の任務を終えたらしいユリウスが歩いてきた。顔を合わせること自体は今さら珍しくない。ミレイユもいつものように挨拶をして、そのまますれ違うつもりだった。
「ミレイユさん」
ところが、今日はユリウスの方が足を止めた。
呼ばれたミレイユも振り返る。ユリウスは普段と変わらない落ち着いた顔をしているように見えたが、すぐには用件を口にしなかった。任務のことなら迷うような人ではないだけに、そのほんの僅かな間だけで、ミレイユにもいつもの話ではないことが分かった。
「次のお休みは、いつですか?」
「私ですか?ええと……数日後なら、午後からお休みをいただけると思いますけど」
突然そんなことを尋ねられ、不思議に思いながら答える。するとユリウスは少しだけ表情を和らげた。
「その日、王都へ出かける予定はありますか」
「特にはありませんけど……何か必要なものでもあるんですか?」
第二近衛の用事なら、自分が同行する理由がよく分からない。ミレイユが純粋な疑問として尋ねると、ユリウスはすぐには答えず、一度だけ窓の外へ目を向けた。風に揺れる木々を見ているわけでもないらしく、普段ならまず見せない僅かな迷いが横顔に浮かんでいる。
それから改めてミレイユへ向き直った。
「今度、お休みが合うようでしたら……王都へご一緒しませんか」
ミレイユは一度瞬きをした。やはり何か用事があるのだろうと思ったが、続く言葉は予想していたものとは違っていた。
「いえ。仕事で必要なものがあるわけではありません。……仕事とは関係なく、あなたと出かけてみたいと思いまして」
その言葉を聞いて、ようやく意味が繋がった。
ユリウスは一度もそれを何と呼ぶのか口にしていない。それでも、任務でも買い物の付き添いでもなく、最初から自分と二人で出かけるために休みの日を尋ねられたのだと分かれば、さすがのミレイユにも理解できた。
頬が少しずつ熱くなる。
これまでにも二人で話したことは何度もあった。雨の日に一緒になったこともあれば、王都祭では人混みの中でユリウスに手を掴まれたこともある。けれど、どれも何かの出来事の中で自然にそうなっただけだった。最初から互いのために時間を空け、二人だけでどこかへ出かけようと約束したことは一度もない。
ユリウスはそんなミレイユの反応を急かそうとはしなかった。少し困らせてしまったかと思ったのか、都合が悪ければ気にしなくてもいいと続けようとしたらしい。しかし、その前にミレイユが小さく首を横へ振った。
「……行きたいです」
声は少し小さくなってしまったものの、返事そのものには迷いがなかった。
ユリウスの表情がそこで初めてはっきりと和らいだ。
「では、楽しみにしています」
どこへ行くのかも、何をするのかも、まだ何一つ決めていない。それでも今は、次の休みに二人で王都へ出かけるという約束だけで十分だった。ユリウスはいつもの穏やかな調子で別れを告げ、そのまま回廊の向こうへ歩いていった。
ミレイユはすぐには動けなかった。
ほんの少し前まで何でもなかった午後の回廊が、急に明るくなったように感じる。高い窓から差し込む光も、外から入ってくる風も何一つ変わっていないはずなのに、自分だけが妙に浮ついていた。ようやく歩き始めても、頭の中では先ほどの言葉が何度も繰り返される。
仕事とは関係なく、あなたと。
思い出すたびに頬が熱くなり、ミレイユは誰も見ていないことを確かめるように一度だけ周囲を見回した。
アリシアの部屋へ戻る頃には、どうにか普段通りの顔へ戻したつもりだった。扉を開ければ、アリシアは机に向かって書類へ目を通している。ミレイユも何事もなかったように部屋へ入り、終えた用事について簡単に報告したが、長くそばにいる相手を誤魔化すには少し足りなかったらしい。
アリシアは書類から目を上げ、ミレイユをちらりと見る。
「何かいいことでもあったの?」
「え?」
「なんだか機嫌がいいじゃない」
「そんなこと……」
ない、と言おうとしてやめた。自分でも隠せていないことくらい分かっている。ミレイユは少しだけ迷ったあと、観念したようにアリシアの近くへ寄った。
「実は……今度のお休みに、ユリウス様から王都へ誘われまして」
アリシアの表情がすぐに変わる。
「二人で?」
「はい。最初は何かお仕事の用事かと思ったんですけど、そうではなくて……私と出かけてみたいと」
そこまで話すと、ミレイユ自身がまた恥ずかしくなったらしく、少し俯いた。何かが決まったわけではないし、ただ出かける約束をしただけだと慌てて付け加えたものの、口元には小さな笑みが残っている。
「よかったじゃない」
アリシアはからかうより先に、素直にそう言った。
ミレイユが顔を上げる。
「……はい」
今度の返事は先ほどよりさらに小さかった。それでも嬉しいことだけは隠せていない。これまでアリシアの恋を一番近くで見守り、時には振り回されながらもそばにいてくれたミレイユにも、ようやく自分自身の恋が始まりそうな気配があった。
その後、ミレイユが次の仕事へ向かうと、部屋には再び静かな時間が戻った。夕方が近づき、窓から差し込む光も昼間より柔らかくなっている。アリシアは残っていた書類へ目を戻そうとしたが、その時、机の端に置かれていた私信の中に見覚えのある筆跡を見つけた。
差出人はアリスだった。
王都で偶然知り合って以来、二人は時折こうして手紙を交わしている。アリシアは少し嬉しくなりながら封を開き、椅子へ座ったまま中身を読み始めた。最初には最近あったことがいくつか書かれていたものの、アリスらしく前置きはそれほど長くない。何行か読み進めたところで、すぐに一番伝えたかったらしい話へ移った。
ノアと結婚することになった。
その一文を見たところで、アリシアの目が少し大きくなる。
二人が恋人同士であることは以前から知っていたし、仲良くやっていることも分かっていた。それでも、ついに結婚が正式に決まったと知れば話は別だった。驚きのあとにはすぐに嬉しさが込み上げ、自然と口元が綻ぶ。
さらに読み進めれば、自分にも式へ来てほしいと書かれていた。王妃になったばかりで忙しいだろうから無理にとは言わない。それでも、もし時間が作れるならぜひ来てほしいらしい。
その直後には、先ほどまでより明らかに大きな文字で一文が添えられていた。
『もちろん、お忍びで!』
アリシアは思わず吹き出した。
「……何よ、それ」
王妃になった友人を自分の結婚式へ呼ぶ方法として、真っ先にお忍びを思いつくところがいかにもアリスらしかった。本当に参加するならローゼンにも話さなければならないし、護衛のことだって考える必要がある。それでも今はそんな現実的なことより、これを書いている時のアリスの嬉しそうな顔が簡単に想像できてしまった。
ただ、手紙には結婚が決まったという報告だけではなく、そこへ至るまでのことも書かれていた。今回、ノアとの結婚についてようやく母国から正式な許可が下りたらしい。これまではノアとの身分差やアリス自身の立場との釣り合いなどを理由に慎重な姿勢を取られ、二人だけではなかなか話を進めることができなかったという。
その状況が変わった理由の一つとして、アリシアの名前が出てきたかららしい。
アリスが現在の王妃であるアリシアと親しく、単なる社交上の知り合いではなく、個人的に手紙を交わすほどの友人であることが母国にも知られた。その事実がアリス自身への信用を大きくし、ノアとの結婚についても以前より前向きに話が進むようになったらしい。
アリシアはそこで一度読む手を止めた。
自分としては、王都で偶然出会って、話してみたら気が合ったから友人になっただけだった。王妃になることも、その友情がこんな形で誰かの結婚を後押しすることも、出会った頃には考えてすらいなかった。
手紙の続きには、アリス自身もそんなことになるとは思わなかったと書かれていた。 ただ、友人になれたことがこんな形で自分を助けてくれたのが嬉しいと素直に綴られ、最後にはいかにも彼女らしい言葉で締められていた。
『だから私は絶対に幸せになるわ。だから貴方も絶対に幸せになってね!』
アリシアは手紙を丁寧に畳み直すと、机の引き出しから新しい便箋を取り出した。『王妃になったばかりだから行けない』などと最初から返事をするつもりはない。どうにか時間を作れないか、それからローゼンにはどう話そうかと考えながら、ゆっくり筆を取ったのだった。




