81. 二度目の初夜
結婚式を終えた夜、昼間まで祝福と人の気配に満ちていた王宮は、時間が深くなるにつれて少しずつ静けさを取り戻していた。長い廊下には夜番のための柔らかな灯りだけが残り、窓の外には月明かりに沈んだ庭が広がっている。アリシアもようやく婚礼衣装を脱ぎ、ミレイユに髪をほどいてもらいながら、いつもの夜より少しだけ丁寧に整えられた寝間着へ着替えていた。朝からほとんど途切れることなく誰かがそばにいて、支度をし、式を挙げ、祝福を受け続けていたせいか、こうして自分の部屋へ戻って静かになると、今日ローゼンと正式に夫婦へ戻ったのだという実感が今さらになって胸の中へ落ちてくる。
最後まで髪を整えていたミレイユは、支度を終えると妙に満足そうな笑みを浮かべた。何も言っていないのに、その表情だけで十分すぎるほど意味が伝わってくる。
「それではアリシア様!良い夜を!」
「……余計なこと言ったら、明日覚えてなさいよ」
先回りして釘を刺すと、ミレイユは笑いを堪えるように口元を押さえながら一礼し、そのまま部屋を出ていった。
扉が閉まれば、途端に室内へ静けさが戻る。昼間は大勢の前で誓いを交わし、正面から口づけまでしたというのに、こうして夜になって二人きりになると思うと、急に意識してしまう自分がおかしかった。アリシアは寝台の端へ腰掛けてみたものの落ち着かず、すぐに立ち上がると窓の外へ目を向ける。庭は穏やかな月明かりに照らされ、時折風に揺れる枝葉の影が窓越しに動いていた。
しばらくして、控えめに扉が叩かれた。返事をすると入ってきたのはローゼンで、昼間の礼装はすでに脱ぎ、夜を過ごすための軽い服装へ着替えている。朝から何度も顔を合わせ、式の最中にはあれだけ近くにいた相手なのに、二人きりになった途端、ほんの少しだけ空気が変わった。ローゼンもそれを感じているらしく、普段なら何の躊躇もなく入ってくるはずなのに、今日は扉を越えたところで僅かに動きを止めている。
アリシアはそんな様子を見ながら何も言わずに扉を閉め、そのまま内側から鍵を掛けた。小さな音が鳴り、抜き取った鍵を自分の手の中へ収める。ローゼンが思わず目を瞬かせたのを見て、アリシアは鍵を見せるように軽く持ち上げた。
「何って、貴方が逃げ出さない為に鍵を掛けたのよ。悪く思わないでよね」
「た、大丈夫だよ。アリシア」
珍しく少し慌てた返事が返ってきたので、アリシアは堪えきれずに笑った。もちろん本気で逃げると思っているわけではない。それでも鍵を返す気はないらしく、そのまま手の中へ握り込み、何事もなかったように部屋の奥へ進んだ。
二人が最初に話したのは、今日の式のことだった。エドガーが朝からずっと嬉しそうだったことや、ミレイユが祝福を伝えながら今にも泣きそうな顔をしていたこと。今日一日の出来事を軽く振り返っているうちに、さっきまであった妙な緊張も少しずつ薄れていく。ただ、アリシアにはどうしても一つだけ言っておきたいことがあった。
「それにしても、昼間のあれは本当に聞いてないんだから」
「口づけのことか?」
「そうよ。正面から、あんなに長く……みんな見てたのよ?」
思い出しただけで少し頬が熱くなる。ローゼンは困ったようにしながらも、どこか嬉しそうだった。
「嫌だったか?」
「そういう意味じゃないわよ。ただ、恥ずかしかったのよ」
それだけ言うと、アリシアは少しだけ視線を逸らした。否定しなかったことが答えになっていると分かっているのか、ローゼンもそれ以上は何も言わなかった。
話しているうちに緊張はだいぶ解けたはずなのに、アリシアはまだローゼンがどこか落ち着かないことに気づいていた。普段なら自分の部屋へ来ても何ともない顔をしているくせに、今夜は時折視線の置き場に困っているように見える。そのことがだんだんおかしくなり、とうとう笑いを含んだ声で尋ねた。
「もしかして、緊張している?」
ローゼンは少し迷ったものの、誤魔化すのを諦めたらしく「……少し」と素直に認めた。アリシアはそれを聞いて楽しそうに笑う。
「うふふ。夜に私や貴方の部屋なんて何度も入っているのに変よね」
実際、夜に二人きりで過ごすことそのものは珍しくなかった。昔から人目の少ない時間まで話し込むことはあったし、王宮へ戻ってからもローゼンが熱を出した夜にはアリシアがそばにいた。互いの部屋へ入ることも、肩を寄せることも、抱き締め合うことも、もう特別珍しいことではない。それでも、昼間に正式な夫婦へ戻ったというだけで、普段なら気にならない距離や視線まで妙に意識してしまう。ローゼンだけではなく、アリシア自身も同じだった。
しばらくそんな空気のままでいたが、やがてアリシアの方が先に距離を詰めた。何かを言う代わりにローゼンのそばまで歩いていき、そのまま何の遠慮もなく身体を寄せる。肩へ頭を預け、腕へ絡むようにくっついてしまえば、さっきまで二人の間にあった妙な距離などあっという間になくなった。
ローゼンが少し驚いたようにこちらを見る。
「何よ」
アリシアはそう返しただけで離れなかった。むしろもう少し身体を寄せ、昔そうしていたように当然の顔でローゼンへ甘える。エドガーの前では母親として振る舞うことが多く、王宮では周囲の目もあるため、以前ほど遠慮なくくっつくことは少なくなっていた。それでも二人きりになれば、そこにいるのは王妃でも母親でもなく、昔からローゼンだけが知っているアリシアだった。
そのことを感じたのか、ローゼンの肩からも少しずつ力が抜けていった。やがて腰へ腕が回り、自然に抱き寄せられる。アリシアも抵抗せず、そのまま胸元へ身体を預けた。灯りを落とした部屋には僅かな衣擦れと、近くで聞こえる互いの呼吸だけが残り、少し前まで交わしていた会話も自然に途切れていった。
しばらくして、アリシアがゆっくり顔を上げた。視線が合う。昼間の式ではローゼンから距離を詰められたが、今度はアリシアの方からほんの少しだけ近づいた。それだけで意図は伝わったらしく、ローゼンも急ぐことなく顔を寄せてくる。
二人は静かに唇を重ねた。
昼間の口づけよりも、ずっとゆっくりだった。誰かに見せる必要もなく、拍手も歓声もない。
ただ二人だけの部屋で、互いの温もりを確かめるように唇を重ねる。アリシアは自然にローゼンの服を掴み、腰へ回った腕にも少しだけ力が加わった。一度離れたあとも距離はほとんど開かず、額を寄せたまましばらく互いの顔を見る。それからどちらからともなくもう一度近づき、今度は先ほどより短く唇を重ねた。
ようやく離れたアリシアは、少し照れたように笑った。
「……本当に今さらね」
ローゼンも僅かに笑った。そのまま二人で寝台の方へ移ると、アリシアはまた当然のように肩へもたれ、ローゼンも自然に受け入れる。何か特別な言葉を交わさなければならないわけではなかった。むしろ、こうして昔と同じように身体を寄せ合っていることの方が二人には合っていた。
ふと、アリシアはまだ手の中に残っていた鍵へ目を落とした。ローゼンもそれに気づいたらしく、何とも言えない顔をする。
「今夜は返さないわよ。朝まで寝かせたりしないんだから」
アリシアは楽しそうにそう言って鍵を握り直した。ローゼンも今度は何も言わず、ただ小さく笑う。
やがて部屋の灯りが一つずつ落とされていった。最後に残った淡い光の中で、アリシアはさらにローゼンへ身体を寄せ、ローゼンも迷うことなく腕の中へ収める。月明かりが窓から薄く差し込み、床の上へ長く伸びていたのだった。




