80. 二度目の結婚式
朝。王宮全体がまだ完全には目を覚ましていない時間から、婚礼のための準備だけは静かに始まっていた。長い廊下には侍女や式典関係者が行き交い、窓から差し込む朝の光が磨かれた床や壁の装飾を柔らかく照らしている。昨夜まで静まり返っていた場所には少しずつ人の気配が戻り、それでも普段の朝とはどこか違う、穏やかな華やかさが王宮全体に広がっていた。アリシアの部屋でも早朝から花嫁支度が進められ、何度も仮縫いを重ね、自分で布地や刺繍にも意見を出して仕上げた婚礼衣装が、朝の光を受けるたびに淡く輝いている。華美になりすぎないよう整えた分、細かな刺繍や布そのものの美しさがよく映え、長い裾も歩いた時に重くなりすぎないよう丁寧に仕立てられていた。
アリシアは鏡の前に座り、ミレイユたちに髪を整えられながら、その姿が少しずつ完成していくのを眺めていた。昨夜はなかなか眠れず、結局ローゼンと夜の廊下で鉢合わせるくらいには落ち着かなかったというのに、いざ朝を迎えてしまえば不思議と慌てる気持ちはない。ただ、髪飾りが留められ、衣装の袖や裾が整えられ、鏡の中の自分が少しずつ花嫁らしい姿へ変わっていくにつれて、今日これから本当にローゼンと結婚するのだという実感だけが静かに強くなっていった。
「できました!!」
最後の飾りを整え終えたミレイユは一歩下がると、しばらく何も言わずにアリシアを見つめた。やがてその顔いっぱいに嬉しそうな笑みを浮かべる。
「とても綺麗です……!アリシア様!!」
普段なら少しくらい茶化したかもしれないが、今日はわざわざ否定する気にはならなかった。アリシアは鏡の中の自分を改めて見つめ、少しだけ照れたように笑う。
「そう?ならよかったわ」
そこへ小さな足音が近づいてきた。扉が開き、濃紺の礼装を身につけたエドガーが姿を見せる。襟元や袖口には銀糸の刺繍が入り、普段よりずっと王太子らしい装いをしているのに、本人はそんなことにはほとんど興味がないらしい。部屋へ入るなりアリシアを見上げ、そのまま目を丸くして立ち止まった。
「ママ、きれい!」
あまりにも素直に言われ、アリシアは思わず笑った。衣装の裾を気にしながらしゃがみ込み、少し曲がっていたエドガーの襟元を直してやる。
「エドガーも格好いいわよ。とっても似合ってる」
褒められたエドガーは満足そうに胸を張ったものの、すぐに昨日まで何度もしていた確認を今日も繰り返した。本当に今日パパと結婚するのかと尋ねられ、アリシアが笑いながら「そうよ」と答えると、それだけで嬉しそうに頷く。そのあとは支度が完全に終わるまで部屋から出ようともせず、少し離れた場所から何度もアリシアを見上げていた。
一方のローゼンも、別室ですでに支度を終えていた。国王として大きな式典へ臨む時と同じように正装を整え、身なりには何一つ乱れがない。それでも普段ならほとんど気にも留めない時刻を何度も確認し、何か物音がするたびに扉へ視線を向けてしまう。準備はとうに終わっているのに、式の開始まではまだ少し時間がある。大勢の前で国政について話す時には平然としている男が、今日に限っては一人の女性を待つことに妙に落ち着かなくなっていた。
式場にも少しずつ人が集まり始めていた。重臣や王宮関係者、近衛、そして二人と親しい者たちがそれぞれの場所へ着き、広い空間には穏やかな話し声が満ちていく。ミレイユは最後までアリシアのそばに付き、ユリウスやノアは警備も兼ねながら式を見守っている。アリスも参列しており、少し離れたところにいるノアと目が合えば、ほんの僅かに笑った。長く王宮を覆っていた緊張はもうなく、この日ばかりは誰もが純粋に二人を祝うために集まっていた。
やがて式の時刻が近づき、アリシアは大きな扉の前に立った。部屋で支度をしていた時には平気だったのに、その扉一枚向こうにローゼンがいると思った途端、胸の鼓動が少しだけ速くなる。隣にはエドガーがいて、その小さな手がアリシアの手をしっかり握っていた。アリシアも握り返し、一度だけゆっくり息を整える。
やがて合図があり、大きな扉がゆっくりと開いた。
朝の光が差し込む式場の奥に、ローゼンが立っていた。
視線が合った瞬間、ローゼンが僅かに目を見開いた。普段ならほとんど崩れない表情が完全に止まり、しばらくアリシアから視線を外せなくなっている。その反応を見た途端、さっきまで胸にあった緊張が少しだけ薄れた。むしろ笑いそうになり、アリシアの口元がほんの僅かに緩む。どうやら、自分よりローゼンの方が緊張しているらしい。
アリシアはエドガーと手を繋いだまま、一歩を踏み出した。婚礼衣装の裾が磨かれた床を静かに滑り、その隣ではエドガーの小さな足音が続く。高い窓から差し込む朝の光が進む先へ伸び、遠くからは婚礼を知らせる鐘の音が聞こえていた。参列者たちの視線が集まっていることは分かっていたが、不思議と気にはならない。アリシアが見ていたのは、ずっとローゼンだけだった。
一歩ずつ、距離が縮まっていく。ローゼンはその場から動かず、ただアリシアが近づいてくるのを待っていた。長いと思っていた道のりは、実際にはそれほど長くない。それでもアリシアには、一歩ごとに時間がゆっくり流れているように感じられた。エドガーの手の温もりを感じながら進み、やがてローゼンの表情がはっきり見える距離まで近づく。目の前へ辿り着くと、エドガーは少し誇らしそうに二人を見上げ、自分の役目を果たしたようにアリシアの手を離して所定の場所へ移っていった。
二人は改めて正面から向き合った。
式が始まる。
婚礼の儀式そのものは、それほど長いものではなかった。必要な言葉が告げられ、二人もそれぞれ誓いを口にする。ローゼンの声はいつものように落ち着いていたが、長く一緒にいるアリシアには、ごく僅かに緊張していることが分かった。それが少しおかしく、それ以上に嬉しかった。アリシアも自分の言葉で応え、互いに一度も目を逸らさないまま誓いを交わしていく。
そして、二人の婚姻が正式に成立したことが告げられた。
式場いっぱいに祝福の拍手が広がる。エドガーも誰より嬉しそうに手を叩いていたが、アリシアとローゼンはすぐには周囲へ視線を向けなかった。ほんの少し前まで、気持ちは通じていてもどこか曖昧だった二人の関係に、ようやくもう一度「夫婦」という名前が戻った。そのことを確かめるように、しばらく互いを見つめたままでいる。
儀式の最後、ローゼンが一歩だけ近づいた。すぐに触れることはせず、ほんの僅かな間だけアリシアの目を見る。その視線だけで何を確認しているのかは分かり、アリシアは小さく頷いた。するとローゼンの片手がそっと頬へ添えられ、アリシアも自然に彼の胸元へ手を置く。
次の瞬間、唇が重なった。
アリシアは最初だけ僅かに身体を強張らせた。形式として頬に軽く触れる程度だと思っていたのに、ローゼンはすぐには離れなかった。ただし決して急ぐことはなく、互いが今ここにいることを確かめるように静かに唇を重ねる。アリシアもすぐに目を閉じ、頬へ添えられた手の温もりを感じながら、その口づけを受け入れた。
再び大きな拍手が起こったことで、アリシアはようやくここが二人きりではないことを思い出した。
ローゼンがゆっくり離れる。
アリシアの頬は、自分でも分かるほど熱くなっていた。
「……正面からするなんて聞いてないわよ。前は……!」
周囲には聞こえないよう、思わず小声で抗議すると、ローゼンは僅かに目を細めた。
「今回は、ちゃんとしたかった」
「だからって、みんな見てる前で……」
アリシアはさらに声を落とした。頬へ集まった熱が引くどころか、余計に増していく。
その短いやり取りの間にも祝福の拍手は続いていた。さすがにいつまでも二人だけで話しているわけにもいかず、アリシアはようやく周囲へ視線を向ける。大勢に見られていたことを改めて意識して恥ずかしくなったものの、嫌そうに距離を取ることはせず、そのままローゼンの隣へ並んだ。
式が終わると、参列していた者たちから次々に祝福を受けた。ミレイユは今にも泣き出しそうな顔をしながら、それでも必死に笑っている。少し離れたところではユリウスがそんな彼女を穏やかに見守り、ノアとアリスも短く二人を祝福した。誰かと長く言葉を交わす必要はなかった。それぞれの表情を見れば、この日をどれほど喜んでくれているのかは十分に伝わった。
やがて人の間を縫うようにエドガーが戻ってくると、迷うことなくローゼンとアリシアの間へ入り込んだ。右手でローゼン、左手でアリシアの手を取る。その仕草があまりにも自然だったので、二人も何も言わずに握り返した。
広い式場にはまだ多くの人がいて、祝福の声も続いている。それでもその瞬間だけは、アリシアにとって、隣にローゼンがいて、その間にエドガーがいることの方が何より大きかった。エドガー越しにローゼンを見ると、彼も同じようにこちらを見ていた。
どちらからともなく、小さく笑う。
やがて式場を出る時間になると、ローゼンが改めてアリシアへ手を差し出した。アリシアは迷うことなくその手を取り、反対側ではエドガーが当然のようについてくる。
大きな扉が開く。その向こうには、朝の光に満ちた廊下が続いていた。
三人は並んで、その光の中へゆっくりと歩き出したのだった。




