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一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?  作者: 入多麗夜


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79. 結婚前夜

 婚礼に向けた準備をすべて終えた夜、王宮は昼間までの賑わいが嘘のように静まり返っていた。仕立て師や侍女、式典関係者がひっきりなしに出入りしていた廊下には、今では夜番のための灯りが等間隔に残されているだけで、磨かれた床には窓から差し込む月明かりが細長く伸びている。アリシアの部屋も同じだった。昼間には布地や小物で埋まっていた机も片づき、明日のために仕上げられた婚礼衣装だけが、部屋の一角に静かに掛けられている。


 アリシアは寝る支度を終えたあとも、すぐには寝台へ入らなかった。何度も仮縫いをし、自分で布地や刺繍にも意見を出してきたため、完成するまでの姿はずっと見ている。それでも、明日になれば実際にこれを着るのだと思うと、どこか不思議な感覚があった。胸が高鳴っているようでもあり、それとは反対に妙に落ち着いているようでもある。準備に追われていた間は考える暇もなかったが、あと一晩眠れば、自分はもう一度ローゼンと夫婦になる。


 窓の外には雲の少ない夜空が広がり、庭の木々が月明かりに淡く照らされていた。遠くから夜番の足音が聞こえ、時折風に揺れた枝葉が窓の向こうでかすかに影を動かす。それ以外には何もなく、今夜の王宮には何かが起こりそうな気配などまるでない。アリシアも無理に明日のことを考えようとはせず、ただ静かな部屋の中で、しばらく衣装を眺めていた。


 そんな時、扉が控えめに叩かれた。


「どうぞ」


 返事をすると、少しだけ扉が開き、その隙間から寝巻き姿のエドガーが顔を覗かせた。王宮での生活にも慣れた今では、以前ほどアリシアの寝台へ潜り込んでくることもなくなっていたが、まだ四歳であることに変わりはない。寂しい夜や、何か特別なことがある日には、こうしてアリシアのところへ顔を出すことがあった。


「まだ起きてたの?」

「うん」


 エドガーは部屋へ入ると、すぐに婚礼衣装へ目を向けた。昼間にも見ていたはずなのに、夜の静かな部屋に置かれていると少し違って見えるらしく、珍しそうに見上げている。


「ママ、明日これ着るの?」

「そうよ」


 答えると、エドガーは嬉しそうに笑った。そのまま寝台の端へちょこんと腰掛けたので、アリシアも隣へ座る。エドガーは自分の礼装のことや、明日はどこに立つのか、式が終わったら一緒に食事をするのかと、少し眠そうな目をしながらぽつぽつ話した。アリシアは一つずつ答えながら、寝癖のつき始めた髪を指で整えてやる。


「明日、パパとママ結婚するんだよね」


 何度目か分からない確認に、アリシアは呆れるより先に笑ってしまった。


「そうよ。明日」


 エドガーはそれだけで満足したように頷いたが、しばらくしてから少し考えるような顔をした。


「じゃあ、これからずっと一緒?」


 アリシアはその言葉にほんの少しだけ目を細めた。大げさなことを言うつもりはなかった。ただ、エドガーの髪を優しく撫でながら答える。


「今度はちゃんと一緒にいるわ」


 それを聞いたエドガーは安心したように身体を寄せ、そのままアリシアへ少しだけ抱きついた。アリシアも腕を回して抱き返す。小さな身体の温もりを感じながらしばらくそのままでいたが、やがてそろそろ自分の部屋へ戻るよう促した。以前なら今日はここで寝ると言い出していたかもしれないが、エドガーは少し名残惜しそうにしながらも素直に頷いた。


「一人で寝られるようになったものね」


 そう褒めると、少し得意そうな顔をする。扉の前まで行ったところで、もう一度だけ振り返り、アリシアへ抱きついてから自分の部屋へ戻っていった。


 扉が閉じると、部屋には再び静けさが戻った。アリシアはしばらくその扉を眺めていた。王宮へ来たばかりの頃に比べれば、エドガーも知らない間に少しずつ成長している。一人で眠れるようになり、王宮にも慣れ、ローゼンのこともすっかり父親として受け入れている。明日はそんな息子に見守られながら、自分たちは結婚することになる。


 そう考えた途端、今度は急に眠気が遠ざかった。


 寝台へ入ってみても、どうにも落ち着かない。目を閉じれば眠れそうな気もするのに、じっとしていることが妙に難しかった。結局アリシアはしばらくして起き上がり、薄い羽織を肩に掛けると、少しだけ外を歩くことにした。


 夜の廊下は、昼間とはまるで別の場所のようだった。人影はほとんどなく、窓から差し込む月明かりと壁際の灯りだけが静かに足元を照らしている。アリシアはゆっくり歩きながら、時折庭の方へ目を向けた。風に揺れる枝葉の影が石床へ映り、遠くの噴水から規則正しい水音が聞こえてくる。昼間の慌ただしさから完全に切り離されたような時間の中で、さっきまでどこか落ち着かなかった気持ちも少しずつ静まっていった。


 ところが、廊下の角を曲がったところで人影と鉢合わせた。


 互いに足を止める。

 そこにいたのはローゼンだった。


 普段着に近い格好で、書類も持っていない。どう見ても政務の途中ではなかった。二人は少しの間、こんな時間に何をしているのかと言いたげに見つめ合った。


「……あなたも?」


 ローゼンも明日の確認はすべて終わっているのに、自室に戻ってから妙に落ち着かなかったらしい。何か仕事でもしようと書類を開いたものの、ほとんど頭に入らず、結局こうして外へ出てきたのだという。それを聞いたアリシアは少し笑った。


「何よ。私と同じじゃない。お互い様ね」


 それ以上言うこともなく、二人は自然に並んで歩き始めた。式の細かな段取りを確認するわけでも、改めて気持ちを語り合うわけでもない。今日一日、エドガーが何度式までの日数を聞いてきたか、ミレイユが明日の支度について本人以上に張り切っていることなど、他愛のない話をする程度だった。会話が途切れても気まずくはなく、二人分の足音が同じ速さで廊下へ響いているだけで、不思議と居心地がよかった。


 やがて、大きな窓のある場所まで来たところで二人は足を止めた。窓の向こうには月明かりに沈んだ庭が広がり、昼間なら人が行き交う道も今は誰も歩いていない。アリシアはしばらくその景色を眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。


「明日には、本当に結婚するのね」

「あの時みたいに緊張しているのか」

「えぇ、ちょっとだけ。それでもワクワクもしているのよ」


 その後、しばらく二人は無言の時間が長く続いた。今さら言葉にしなければならないことは、もうほとんど残っていなかったのだ。


 アリシアは横目でローゼンを見る。昼間までは国王として式の準備を細かく確認していたくせに、今は自分と同じように落ち着かなくなって夜の廊下を歩いている。そのことが少しおかしくなり、口元が緩んだ。


「ちゃんと来なさいよ。本当にすっぽかしたり別れ話なんて切り出したら、ただじゃ置かないんだから」


 冗談めかして言うと、ローゼンも僅かに笑った。


「もちろんだ」


 しばらくして、アリシアはそろそろ戻ると言った。明日は朝から支度が始まるため、いつまでも歩いているわけにはいかない。ローゼンも同意し、そのまま途中まで一緒に戻ることになった。


 アリシアの部屋へ続く廊下の手前まで来ると、二人は自然に足を止めた。ここで別れるだけなのに、なぜかどちらもすぐには歩き出さない。アリシアは少し迷った末、ローゼンの袖を指先でほんの僅かにつまんだ。


 ローゼンが視線を落とす。


 自分からしたことなのに、急に恥ずかしくなったアリシアはすぐに指を離した。


「……おやすみ」

「おやすみ、アリシア」


 穏やかな声が返ってくる。


 それだけで別れ、アリシアは自室へ戻った。先ほどまでと何も変わらないはずの部屋なのに、なぜか空気が少しだけ柔らかく感じる。婚礼衣装へもう一度だけ目を向け、それから今度こそ寝台へ入った。


 窓の外では、夜が静かに更けていく。王宮の灯りも一つずつ消え、やがて残るのは月明かりだけになった。誰かに呼び出されることもなく、何かが起こることもなく、ただ穏やかに時間だけが過ぎていった。

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